若者の時期は「冒険」の期間
いくつから若者なのか、何をしたら若者ではなくなるのかという問いは難しいものですが、この大人と若者の境目を論じるにあたって、「モラトリアム」という言葉を聞いたことがある人は多いかも知れません。実は、もともとは債務支払いの猶予期間を意味する言葉でした。心理学者であるエリクソンは、「モラトリアム概念を、労働や納税といった大人の義務を免除される時期」として、遊びや実験を通じて青年がアイデンティティを形成するための概念として捉えています。この概念は労働と密接に関連していて、学生時代が長ければ長いほどモラトリアムもまた延長されるということになりますし、子どもが働くような社会ではモラトリアムは縮小されるということになります。
では、若いころの「遊びや実験」とは何なのか? それを論じるのにピッタリな題材が、山崎さやかの『シマシマ』です。エステティシャンの女性・帚木汐(シオさん)は、夜は「添い寝屋」ストライプ・シープを経営する女性。添い寝屋で働くのは、「世間ではイケメンの部類に入る」男子大学生ガイ・リンダ・マシュと、父親の居酒屋を手伝う22歳のラン。顧客である女性たちとも、シオさんとの間にも平行な「ストライプ」の関係を築く彼らですが、ストーリーを追うごとに、徐々に変わっていく関係が興味深い作品です。
肉体関係を結ばないにせよ、女性と一晩を過ごす添い寝屋という仕事は、ガイ曰く様々な女性の暮らしが垣間見られる「刺激的」な労働の場。一方で、「長くは続けられない」仕事でもあります。彼らに対して、シオさんは「みんなすぐ大人になっちゃうから」と言ってプレゼントを渡すシーンがありますが、これは添い寝屋が「若者だからできる仕事」だということと、「若者という時期があっという間に過ぎてしまう」ことの両方を示している台詞だと思います。
ドライで「草食系」なストライプ・シープたちによる添い寝屋という冒険は、のたうち回るような恋や将来への明確なビジョン、眠れない悩みを抱えた人々への共感といった形で、彼らを大人にしていきます。物語の途中、添い寝屋の仕事の帰りに、下り電車に乗るリンダとガイは、上り電車で通勤するビジネスマンたちを眺めながら、近い将来の自分の姿を思い描きます。「冒険」を始めた頃よりは、ずっとリアリティのある風景として映ったのではないでしょうか。
モラトリアムを妨げるものは?
舞台は千葉県木更津市。お互いに就職も決定し、将来への不安もなく、あとは卒業を待つだけとなった大学4年生のカップル、明夫と芳乃。しかし、明夫の履修ミスが明らかになったことで、二人は「社会人」と「学生」として、遠距離恋愛を余儀なくされます。同じ作者による『げんしけん』や『蜻蛉日記』などもそうですが、どこかで時間をもてあましている大学生たちの生活を描いた漫画として生々しい魅力を持っていて、ネットでは「モラトリアム漫画」といった呼ばれ方をすることもあります。
ただ、明夫はさほど「五年生」の時期を通じて成長したり、自我を確立しているようには見えません。むしろ、朝までゲームをしたり、男女関係のいざこざに巻き込まれたりと、強調されるのは明夫の「ぐだぐだ」ぶりの方です。では、明夫のモラトリアムが自我の確立につながらないのは何故なのでしょうか。明夫は、「もう1年大学行くのは別にいいんよ」と、五年生として学生生活をやり直すこと自体にはそれほど抵抗を持っていません。むしろ、独りの生活を楽しんでいるようにすら見えます。しかし、明夫は出席することのなかった芳乃ら「四年生」の卒業式のあと、以下のような言葉を発します。「また一からの就職活動やんのかと思うと シャレにならん程気が滅入る」。
モラトリアムが単純に「学生としての期間」として論じられない理由は、まさにここにあります。実際には労働や納税を免除されていたとしても、「大人」になるために受験勉強や就職活動など、私たちは多くの、実質的には「義務的」とさえ言える活動にさらされています。例えば明夫は、就職活動をしているかぎりは、(キャラクター的に絶対ありえませんが)海外を放浪したり、クリエイティブな活動に勤しんだりということはなかなかできないでしょう。これは先に就職した芳乃に関しても同様で、彼女も司法試験受験のためにかなりの時間を割いていますから、上述したガイやリンダのような「モラトリアム」としての学生時代には縁が薄かったようにも感じられます。
学校への在籍期間が長ければ長いほど、基本的にはモラトリアム期間が長いと言える一方で、ある時期に一斉に学校を出て就職するような社会の場合、半ば義務的となっている活動があるためモラトリアムを学校期間と一致させて定義することは難しく、青年のアイデンティティも確立しがたいと言えます。実際に明夫と芳乃が「大人」となったか否かは、ぜひ最終巻の展開を見て考えてみてください。
45歳、バツイチ、子あり。でも「若者」
この漫画の主人公、たかこさんは45歳、中学生の子どもあり、バツイチ。高齢の親と二人暮らしで、仕事も真っ当にしています。こう見ていくと、現代社会ではりっぱに「大人」と考えられるでしょうが、一方で彼女は、鬱々とした思春期を抜け切れていないという思いを抱えて毎日を生きています。私生活でも、バンドマンのラジオ番組にときめいたり、中学生に恋したり、バンドマンにラブレター……ではなくメールを、自分のガラケーの中にこっそり書き溜めたりと、ある種「青春まっただ中」。そんなたかこさんの日常を描いた漫画が『たそがれたかこ』です。
たかこさんは、うまく行っている時もいない時も、じわじわと自分の思春期の頃の(主に負の)記憶を呼び覚まします。人に馴染めずうまく友達が作れなかった幼少期、異性に縁がなく、カップルを横目にひとりで下校していた高校時代。その若年期の「延長戦」という位置づけとして今を生きている、つまりたかこさんは、結婚、出産、就職といった「大人」という通過儀礼を一応は果たしているはずなのに、それでも「大人」という自覚をなかなか持てていません。
一方で彼女は、10代の男の子に恋をしたり、憧れのバンドのラジオを聴いてときめくたびに、自分は「オバサン」だと自戒します。彼女の「大人/若者」の基準は、たかこさんの行動を彼女自身がどう評価するかということで揺れ動いているのです。社会学者であるアンソニー・ギデンズは、人や組織が事あるごとに自らのあり方を振り返り、必要に応じて修正していくさまを「再帰性」と呼びました。さらに、常に振り返り、チェックする過程を絶え間なく繰り返すことで、自己はどんどん「作り直される」ものになったといえます。 こうした自己は「再帰的プロジェクトとしての自己」と呼ばれ、既に集団や制度が人を規定しない、近代に特有な自己のあり方として論じられるのですが、たかこさんはまさに再帰的に「若者」の自己と「大人」の自己を行ったり来たりしているでしょう。
たかこさんが直面する、子、親、元旦那といった人々とのトラブルと、そのたびに思い返される過去の負の記憶。社会学者の浅野智彦は、再帰性という営みを「自分自身の人生をつねに自伝作家のような目で眺める」行為として論じました。『たそがれたかこ』は、たかこさんが45歳の現在を生きながら再帰的に過去を引き出す、大人と若者、二重の時が流れる、深みある「自伝」とも言えるでしょう。