大陸哲学か分析哲学かという「あれかこれか」の二者択一を超えて思考するために、両陣営のコミュニケーションの糸口となるであろう重要書6冊を紹介します。
- 著者
- サイモン クリッチリー
- 出版日
- 2004-06-08
著者クリッチリーはイギリスの哲学者で、専門はデリダやレヴィナスを中心とした大陸哲学全般、米ニューヨーク・タイムズ紙でコラムを執筆しておりそちらでも有名です。
『ヨーロッパ大陸の哲学』というタイトルが示す通り、クリッチリーが本書で語りかけている読者は基本的に、分析哲学が主流であるイギリスおよびアメリカの読者です。そのため本書では大陸哲学とは何かということが、常に分析哲学との関係を念頭において論じられることとなります。
たとえば本書の第六章「誤解のケーススタディ」は、論理実証主義者カルナップによる形而上学者ハイデガーへの痛烈な批判の検討にまるごと割かれています。他の章でも断片的にですが、分析哲学と大陸哲学の対立を示すエピソードが数多く紹介されます(なかでもライルとメルロ=ポンティのあいだで起きた「事故」の話は印象的です)。本書の価値は、こうしたマッピングが幅広い視野のもとでなされ、なおかつ全体としてコンパクトにまとまっているという点にあるでしょう。
現在の分断された哲学界の状況の「ミニ病理学」を試みる本書は、最終的に二つの文化のあいだのギャップが経験的説明によっては埋められないものであることを確認します。そして両者がそれぞれに抱える危険――科学主義と非明晰主義――をともに回避するような中庸の道をとることが哲学一般にとって重要であるのだと結論づけます。クリッチリーのこの穏健な立場に満足できるかどうかは別にして、少なくとも本書は、読者がこの問題についてさらなる思索を行う際の信頼できる出発点を提供してくれます。
- 著者
- ジャック デリダ
- 出版日
言語行為論の創始者として名高いJ・L・オースティンのコンスタティヴ/パフォーマティヴという概念の区別に対する脱構築的な批判を行ったことで知られるデリダの講演論文「署名 出来事 コンテクスト」は、のちにアメリカの分析哲学者ジョン・サールによって異議申し立てを受けることになり、これに対しデリダが反論したことで、二人のあいだに論争が生じることになりました。いわゆるデリダ=サール論争です。
本書はこの論争の原因となった論文と、論争に関連する他のいくつかの重要なテクストによって構成されています。そのなかで、とりわけ注目に値するのはデリダによって書かれたサールへの反論「有限責任会社abc…」です。
というのも、まずこの反論のタイトルがすでに、「有限責任会社」をそれ一語のみで意味するイギリス英語("limited”)とアメリカ英語("Inc.”)との合成("Limited Inc abc”)であることによって、翻訳の問題が扱われることへの布石となっており、さらにインク("Inc."→"Ink”)の有限性というエクリチュールに特有の事情を暗示することによって、討議における応答可能性(責任)が制限されざるをえないという認識の遠回しな表明にもなっているのです。
つまり、その短いタイトルがもう、いくつもの自己言及的な言葉遊びによって貫かれており、そんな調子のテクストが何十ページにもわたって繰り広げられているわけで、しかも完全に詩的な断片が連なっているわけでもなく、むしろ全体としては論争的なアーギュメントの形式を守っているためにかえって読みづらくなっており、はたしてデリダは真面目に反論する気があるのか? というかそもそもこれは哲学論文と呼べるのか? という根本的な疑問を読者の側に自然に引き起こしさえするのです。
そして、そのような疑問を通じて、哲学における、またそれを超えたコミュニケーション一般における真面目なもの(コンスタティヴ)と不真面目なもの(パフォーマティヴ)の境界を揺るがすような経験を読者の側に引き起こすということこそ、どうやらデリダの狙いらしいと徐々に「読めてくる」ところに、この論文の面白みがあります。
「有限責任会社abc…」がサールへの反論をどの程度「真面目に」意図していたかわかりませんが(事実デリダは、本文中でこれを「「ありえそうにない」討論」だと表現しています)、デリダが同論文でほぼ一貫して行っている明白な主張は、「サールによって描かれるデリダは、しばしば元々デリダが批判しようとしていたものの姿に似せられており、この歪曲されたデリダを批判するサールは、それゆえしばしばデリダ本人と同じ位置にいないだろうか」というものです。
そこには論争の発端となった論文「署名 出来事 コンテクスト」の中心概念であった「反覆可能性(iterability)」が、すなわち〈同〉であると同時に〈他〉でもあるというパラドクシカルな可能性が、デリダ自身の手さえ離れて、まさに実演されてしまっていると言えます。
個人的には、「有限責任会社abc…」という論文の核心は、非難や賞賛といった発語内行為の諸効果を通じて、上記のような意図=志向せざるミメーシス(模倣)の運動を出現させることにこそあったのではないか、と思われます。
デリダ=サール論争は、本書に付された「後記 討議の倫理に向けて」でのデリダ自身の言葉通り、他者たちの新たな読解の試みを招待すべくいまだ「開かれ」た状態で存在し続けているのです。
- 著者
- リチャード ローティ
- 出版日
- 2000-10-26
ローティは戦後アメリカで活躍したネオ・プラグマティズムの哲学者です。大きな括りでは分析系に入ります。彼は本書で提示した「リベラル・アイロニズム」の思想により、ロールズ以降のリベラリズムの政治理論に重要な貢献をなした人物として一般的に評価されています。
他方で彼は、本書においてデリダやフーコーといった「ポストモダン」の哲学者を擁護する論陣を敷いたことでも有名です。とはいえ「ポストモダン」に対する彼の評価は、先に挙げたクリッチリーの評価と似ていて、その文学的性格と相関的であるところの倫理的性格を評価する、というものです。
ローティは先のポストモダンの哲学者たちに、ハイデガーやナボコフといった著作家も加えたうえで、彼らを個人の自己創造や生の自律性を求める「私的な」哲学者たちであると規定します。ローティによれば「私的な」哲学者を種別的に特徴づけているのは、彼らの探求がもつアイロニスト的な性格ではなく、彼らが用いる文学的で審美主義的な語彙のほうです。
同様のことは、マルクスやデューイ、ハーバーマスを含む、人間の連帯や正義および公正を旨とする「公的な」哲学者たちについても言えます。彼らの「公的な」語彙は、他者が感じる苦痛や、他者に向けられる残酷さについて、私たちが想像力を働かせるのを助けることにもっぱら関わっています。「公的な」語彙は、「私的な」理想の追求が他者を残酷に傷つけてしまう可能性があることをしばしば示唆します。
そして、「私的な」探求の語彙と公的な「探求の」語彙を統合する単一の語彙ないしヴィジョンは存在せず、ただ両者を同じ社会のうちで和解させ、共存させることのみが可能でありかつ望ましい事柄である、というのがローティが本書において示す立場です。
ローティが言う「私的」と「公的」の二つの語彙が、そのまま大陸系/分析系の分断に重なるわけではありませんが、とはいえそこでの考察の多くは、読者が大陸系(特にポストモダン系)と分析系の二元性について考える際に、必ずや大きなヒントを与えてくれるでしょう。
- 著者
- クワイン
- 出版日
- 1984-05-15
クワインはアメリカの分析哲学者です。彼の世代のなかでは最も有名と言ってよく、また数理論理学の分野でも専門的な業績をあげています。「分析哲学は理系っぽい」という通俗的なイメージによく適合する人物であり、実際、自然言語の曖昧さに対する彼の否定的な見方は、カルナップやノイラートなどの論理実証主義からの影響が色濃く出ています。
本書『ことばと対象』はクワインの主著であり、後のデイヴィッドソンの言語哲学に大きな影響を与えた「翻訳の不確定性テーゼ」や、現在でも認識論の分野で頻繁に言及される「存在論的コミットメント」といった概念を提示したことで知られます。
全体として非常に高度で難解な内容をもつ本書ですが、通読する価値はあります。私見では、クワインの提起する諸問題は、それぞれ異なったものでありながら同じひとつの中心的困難に収斂していくように見える点に魅力があります。
そしてこの中心的困難が抱えもつ「意味」は、大陸哲学においてもやはり、決定的な価値を有するものであると思われるのです(大陸哲学では「不可能性」や「限界」や「外部性」という用語のほうが、より好まれるでしょうが)。
「翻訳の不確定性テーゼ」は、そうした中心的困難にかなり接近したテーゼであると言えます。序文で触れられているように、簡単に言えばそれは、実際の発話の場面で生じる観察可能な刺激とそれに対する発話者同士の観察可能な反応にもとづいて、帰納的推論の要領で未知の言語の翻訳を辞書もなしに作成するような「根源的翻訳」(radical translation)を行えば、そこには必ず――論理的な必然として――不確定性が生じる、ということです。
ここでクワインが言っていることは、原文と翻訳文のあいだの「意味」の同一性を保証するような「唯一の」ルール・ブックは存在しない、ということになります。それぞれの場面で翻訳がうまくいっていると信じることはできるし、ひょっとすると未来永劫にわたって一切不都合が生じないこともありえますが、そのような幸福な翻訳実践を可能にしてくれる二言語間での文の置き換えのプログラムを、単一のモデルに収斂させることは不可能だということです。
「意味」という概念の本質と限界を、他者との交渉関係すなわち翻訳において使用される諸規則の問題を通じて、抜け目なく原理的に暴いてゆくクワインの筆致からは、大陸哲学におけるのとは異なった種類の思考の快楽を受け取ることができます。
しかし同時に、本書全体がこだわる「翻訳」や「意味」の問題というのは、デリダやドゥルーズなど大陸哲学の思想家においてもたしかに重要な「意味」を担うものであるのです。クワインの言葉をデリダの言葉に「翻訳」してみること、そんなラディカルな実験に手を染めてみさせるに十分なだけの刺激が、本書には詰まっています。
- 著者
- ウィルフリド セラーズ
- 出版日
- 2006-03-28
セラーズは日本ではあまり有名でない哲学者ですが、本書の「はじめに」でローティが強調しているように、戦後の分析哲学において生じた方向性の転換に強い影響を及ぼした、ネオ・プラグマティズムの哲学者です。
哲学史について豊かな知識をもっていたことで知られ、哲学的思考の歴史性については意識的でした。この事実は、セラーズの哲学における規範性の次元への明らかな関心を、大陸哲学における同種の関心と比較することを通じて解釈する方向へと、少なからず読者を誘うでしょう。
本書で提示される「所与の神話」批判は、かいつまんで説明すると、私たちの感覚器官を通じて直接に与えられる「センス・データ」にまずもとづいて私たちの経験的および理論的認識は構築されているとか、観察可能な出来事にもとづく傾向性の記述によって心についての素朴心理学的説明をそっくり代替できるといった見方を否定し、私たちが日常的に行っている信念の表明や感情の報告や理由の提示といったいわゆる「内的出来事」の表現が、ある消去できない重要性を孕んでいることを指摘するものです。
セラーズはいわば、哲学のもつ科学主義的あるいは基礎づけ主義的な欲望に対して、規範的なもの(究極的にはそれは、倫理的なものです)がもつ根源的な論理的機能の観点から釘を刺したのだ、と言えそうです。それはセラーズを、現代的な心の哲学の創始者のひとりにすると同時に、洗練された科学理論と単なる常識とのあいだにある歴史的かつ実践的な連続性について厳密に思考するような科学哲学者のひとりにもさせています。
セラーズの哲学は、私たちにとって私たちの(あるいは私たち以外の者たちの)心とは何か、というスケールの大きな、したがって大陸哲学にとっても決して無視しえないような或る倫理的な問いを、静かに提起しているのです。
- 著者
- ミシェル・フーコー
- 出版日
- 2012-09-05
フーコーはポストモダニストあるいは構造主義者として一般に紹介されることの多い哲学者あるいは歴史家ですが、実際にはそのどちらの分類も間違っているような、複雑で多面的な性格を備えた思想家です。
本書は、そんなフーコーが『言葉と物』や『狂気の歴史』といった初期の一連の系譜学的な著作を書き終えた後で、彼が「考古学」と呼ぶ自らの方法論的な立場を説明するために書かれました。
フーコーが本書で試みていることは、いわば、大陸系/分析系の分断もそこに含まれるような、言説領域一般の分離や変遷といったものが、いかにして生起し、またいかにして歴史的な観点から記述されうるかについての、一種のメタ理論的な考察です。
フーコーの文体は、絶えず行われる動詞の並列や、次から次へと涌いて出てくる隠喩の豊かな喚起力によって、一種独特な誘引力を発揮すると同時に、非常に難解なものでもあります。そうした文体が、知識というものについての「一般的歴史」(これをフーコーは伝統的な歴史のモデルとしての「包括的歴史」から区別します)を記述するのにふさわしいものであるかどうかについては、議論の余地があるでしょう。
しかし、「前言説的な」実在にアクセス可能であるとするようなさまざまな理論(哲学的なそれも含みます)に対する徹底的な批判を行い、言説のうちに出現する齟齬や隔たりといった「非連続性」を通じてのみ、歴史的対象についての思索を、おそらくは単に哲学的なだけでなく倫理的でもあるような思索を行いうるとしたフーコーの立場は、分析系の哲学者たちの立場ともある種の親和性をもつように思われます。
それと同時に、フーコーの言語分析には、分析哲学者たちによるそれを補完するような知見も数多く含まれています。特に本書第三章「言表とアルシーヴ」では、文や命題といった形式をとらない一見して無秩序な記号の列(たとえばタイプライターの教本に載っているアルファベットの列)も言表でありうるという主張がなされており、またそういった物質的な記号列の重要性を認める点で、フーコーがひとりの唯物論者であることが明らかとなります。
フーコーの文体、ローティに言わせれば私的アイロニストの語彙であるそれは、「人間的なるもの」や「理性」といった古典的な哲学の理論的構築物の多くを退け、そこに端的な非連続性や諸記号の分散のシステムだけを見てとります。
しかしそれは、必ずしも知的に脆弱なニヒリズムを帰結しないのです。むしろ、そうした文体は、私たちが現実において直面する、政治的出来事や技術上の革新によって引き起こされる断絶、それに伴う動揺や混乱などを分析するための勇気を私たちに与えてくれるような、いわば倫理的にアモラルな支えとさえなりうるものだと言えるでしょう。
反実在論者としてのフーコーという広く受け入れらた見方に逆らって、文字通りの考古学者としての、現実の非人間的歴史についての理論家としてフーコーを再発見すること――大陸系/分析系の分断を超えたあとに出現する課題は、そうしたアクロバティックに魅力的なものであるかもしれません。