夏本番がくる前にアイスを片手に詩集を読もう、と外に出た。
小さい頃にもらった親からのメッセージに「いつも詩人なつぶやきを見せていたね」と書かれていたことを歩きながら思い出した。
どんなつぶやきをしてたのか、気になる。
ジム・ジャームッシュの最新作の映画の主人公も詩人。あぁ、気になる。
いま身近な詩集を2つ紹介します。
『どきん』 谷川俊太郎
- 著者
- 谷川 俊太郎
- 出版日
どきん、
とする時、目の前にはなにがあるだろう。
どきん、
とさせた時、目の前にはだれがいるだろう。
表紙のなんとも言えないパープルグレーが好きで。
持っているのに、古本屋で見かけた時も見とれてしまうほどの絶妙な色だ。
見慣れたくないなと思う身近なものや人が、好きだと思う。
この中に住むうたは、昔読んで覚えているものもいくつか。
お気に入りは「ひとつのうた」。
だいじなものはひとつ。ひとつじゃできないこともあるけど、
ひとつは半分じゃない。
自分はあれがないなぁだとか、こんな技術が欲しいなぁと思うことも多い毎日。
そうだけど、ひとつがあることを知る。
谷川俊太郎はこども向けに見えて、いきなり大人っぽくなる瞬間が楽しい。
アフリカ音楽の三連符みたいにいきなり来る。
ひらがなのリズムも弾んでいるからか、ひらがな自体が段々と絵にも見えてくる。
中学生のとき入っていた吹奏楽部では、合奏の時間に演奏しながらも眠すぎて、ついに楽譜が絵に見えてきたことがあるけど、それとは違う。
でも音符や記号、文字っていうのは絵でもあるね。
この詩集にはないが、「朝のリレー」が特に好きだ。
朝早く家をでるときがあると、音の少ない街までの道のりでいつも思い出す。
外国にいる友達からおやすみとおはようが逆のタイミングであるときにも、
この詩を思い出す。
どこかで朝がはじまっている。誰もが平等に朝をもっている。
朝とは時に怖く、時に希望でもあり、多分特別なものだ。
裏表紙の見開きにマッキーで書かれた「2002.2.1 晴子7才」という書き込みをみつける。7歳の自分への誕生日プレゼントだったみたいだ。
ちなみに姉の名前は朝子です。
『藤村詩集』島崎藤村
- 著者
- 島崎 藤村
- 出版日
- 1968-02-13
たとえば、ふと思った気持ちが、50年前に書かれた詩とぴったりと来たとき、
ひとの心のありかの歴史を不思議におもう。
たとえば、ふと思った気持ちで、金髪にしたとき、
私は何故か詩人になりたいなとおもってしまう。
大学をどこに進学するか考えていて、ある大学のパンフレットのはじめの方に卒業生として島崎藤村が登場していた。
それを見て「あ、ここかもしれない」と思って、そのあと島崎藤村の後輩になった。
人生で出会う人たちは、きっと限られている。生きていてもそうでなくても。
そのあとパリにある友達の家で『藤村詩集』を見つけて手に取った。
あぁ忘れていた、先輩!
そんなことがきっかけで久しぶりにふれた藤村の詩。
藤村って呼んでいいのだろうか。
季節では今の「夏草」シリーズがお気に入りだけど、
後ろの方にある「落梅集」ではたっぷりと恋の詩も。
「口唇に言葉ありとも
このこゝろ何か写さん
たゞ熱き胸より胸の
琴にこそ伝ふべきなれ 」
藤村の恋の詩は、
昔のことばづかいの意味をなんとなく忘れてしまった今の私でも、
ことばの持つ思いの力がリズムと共にしっかりと心を揺らす。
詩は、ことばを見ていくことによって、少しづつ何かが上の方に登っていく気がする。
うたいながら、すこしづつ。
アイスがとけるのも忘れてしまうくらいに。
あぁ、なんというんだろうか。
頭の中でオーロラ色のセロファンがめらめらと羽ばたくような気持ちになる。