人類初の原爆の開発と投下。かつて原爆の父と呼ばれたオッペンハイマーの人生を改めて紐解く5つの事実と、それと共に向き合える5冊の本をご紹介します。
本名はジュリアス・ロバート・オッペンハイマー。アメリカの物理学者で原子爆弾の開発において主導的な役割を果たし「原爆の父」と呼ばれた人物です。
1904年4月22日、裕福なユダヤ系商人の父と、同じくユダヤ系の画家であった母との間に生まれ、家には世界の名だたる名画がさりげなく飾られている、そんな家庭環境のもと幼少期を過ごします。
幼い頃の彼は、勉強はとても優秀でしたが、運動とはおよそ無縁な少年でした。しかし乗馬とセイリングには驚くほど強気につき進んでいくという一面もありました。また母の影響で、美への意識は非常に高い少年だったようです。彼の頭脳が素晴らしく優秀だったことは知られていますが、その片鱗は幼い頃から興味を示していた鉱物学についての論文を、わずか12才で発表していることからも窺えます。
優秀な彼はハーバード大学で化学を専攻し、わずか3年で卒業。その後イギリスのケンブリッジ大学に留学します。そこで「量子論の父」ボーアと出会ったことがきっかけで、彼は化学から理論物理学へと道を変えることになったのです。
そしてケンブリッジ大学から理論物理学が中心のゲッティンゲン大学に転校し、ここで博士号を取得しました。この時期に発表したのがマックス・ボルンとの共同研究の「ボルン-オッペンハイマー近似」でした。
第2次世界大戦勃発後の1942年に原爆の開発を目指すマンハッタン計画が開始され、彼はロスアラモス研究所の初代所長に任命されます。彼らのグループは世界初の原爆を開発し、ニューメキシコでの実験後、1945年8月6日に広島へ、9日に長崎へ投下したのです。その後の彼は、原爆が自分の意図とは違う扱われ方をしたことに絶望したとの記録があります。
戦後は核兵器の国際的な管理に力を尽くしましたが、赤狩りによって職を失った後はFBIによる監視下に置かれるなどし、生涯に渡って抑圧を受けたのでした。
1:1939年、彼と彼の教え子であるハートランド・スナイダーは、ブラックホールの存在を予測していた
この頃、彼等はブラックホールについて極めて先駆的な研究を行っていましたが、第2次世界大戦が勃発し、ロスアラモス研究所の所長にオッペンハイマーが任命されたことによって研究は途絶えたのでした。
2:原爆だけではなく、物理学の多くの分野に重要な貢献をした
それが、量子力学における「ボルン-オッペンハイマー近似」です。
3:ゲッティンゲン大学在学中に、エンリコ・フェルミやエドワード・テラーといった重要な物理学者と友人になった
当時、彼の周囲にはその時代を代表する頭脳の持ち主が多数存在し、切磋琢磨しながら研究に打ち込める環境の中、充実した生活を送っていたのです。
4:オッペンハイマーはニューメキシコのロスアラモスに研究拠点を設置し、1945年7月16日に初めての原爆の爆破実験が行われ、8月には2つの原爆が日本に投下された
ロスアロモス研究所は原子爆弾の作成を目的としたマンハッタン計画のために作られ、ここには大勢の科学者たちが集められました。そして戦争を終結させるという名目で原爆が投下されたのでした。
5:オッペンハイマーは、核拡散と冷戦時代の軍拡競争に強く反対した
原爆を作成した立場とは矛盾を感じるように思えますが、彼は核の拡散に強く反対していました。そして、アメリカとソ連の関係を「2匹のサソリ」と表現したのです。
オッペンハイマーは裕福な両親のもとで何不自由なく育った、優秀で繊細な少年でした。彼の生い立ちから、研究に打ち込んだ大学時代、そして原爆の研究へと進んでいく過程が、長年の綿密な裏付けと共に丁寧に記されています。
- 著者
- ["カイ・バード", "マーティン・シャーウィン"]
- 出版日
- 2007-07-19
過保護すぎるくらい大切に育てられた青年期までの母との絆の強さ、その繊細さから精神を病み苦しんだことなど、彼の歩んできた人生が、彼自身や多くの友人達の証言により描かれています。
ドイツのゲッティンゲン大学で多くの物理学者と触れ合うことにより、世界最高峰の環境の中で研究に打ち込んでいたオッペンハイマー。そこから原爆の開発に携わる過程が、細かく記されていて、「上巻」では1945年7月16日の世界初の原爆爆破実験までが描かれています。
天才と呼ばれ、時に教授さえも超える頭脳の持ち主だった彼の優秀さは、まさにアメリカの頭脳だったのかもしれません。彼が尊敬する偉大な物理学者ニールス・ボーアに出会い、その後打ち込んだ研究の数々は間違いなく輝かしい功績です。しかし、ロスアラモスで研究に携わった時から、何かが違う方向に進んでいったのではないのでしょうか。この才能がもっと別の分野で生かされていたら、と痛切することでしょう。
本書では、原爆の開発を主導していたオッペンハイマーがなぜ水爆の開発に反対していったのかが、作者の鋭い視点から検証され、語られています。
オッペンハイマーの人間としての記録と、科学者としての業績が細かく記されているのです。
- 著者
- 中沢 志保
- 出版日
本書は、第1章「オッペンハイマーはスパイだった?」から始まり、第7章「オッペンハイマー事件」まで、彼の一生を追っています。
ある日彼にスパイ容疑がかけられます。その内容は、「オッペンハイマーはソ連の指示でアメリカの科学者たちに働きかけて、水爆開発を遅らせた」というものでした。
彼は4週間あまり査問され、その結果、交友関係、人格、忠誠心などから判断して、機密事項を漏洩したスパイであるという判決を受けたのです。
しかしそれは事実無根。当時オッペンハイマーは、原爆の開発を推し進めながらも、水爆に対しては開発に踏み込むべきではないという反対の立場をとっていました。アメリカ政府は、その考えがほかの科学者の間に広がることを恐れて罪をかぶせ、彼を失墜させようとしたのです。
この一連の事件を「オッペンハイマー事件」といいます。かつて彼は「原爆の父」と呼ばれ、多くの科学者から慕われていましたが、この事件によりすべての公職から追放され、失意の晩年を送ることになるのです。
本書は、生い立ちから原爆投下までが描かれている前編と、終戦後政治に深く関わった彼が、核の不拡散に尽力しながら晩年に向かっていく後編とで構成されています。
- 著者
- ピーター グッドチャイルド
- 出版日
原爆をドイツよりも先に開発しなければいけない、という政府の圧力のなか、オッペンハイマーたちは研究を進め、それを広島と長崎に投下しました。
戦後のオッペンハイマーは、国のために尽くしてきたと自負していました。それゆえ、新たな方向へ向きつつある国の将来を憂いていたのです。彼は政界に深い関わりを持っていましたが、その憂いから起きた言動によって、多くの敵をつくることに。スパイ容疑をかけられ、結果的に公職をすべて退くことになります。
そして彼の影響力が劇的に減少したのと相反するように、今度は「水爆の父」と呼ばれるエドワード・テラーの権力が増していったのです。
オッペンハイマーはその後FBIの監視下に置かれ、抑圧された時を過ごしていくことになります。英雄から一転、権力を失っていく人間の様子は、誰も止められなかった時代の流れの速さを表しているようです。
原爆は、第2次世界大戦を終結させる手段という名目で開発が進められていました。秘密裏に行われていたこの開発は「マンハッタン計画」と呼ばれ、ニューメキシコ州にロスアラモス研究所がつくられたのです。
本書にはオッペンハイマーがここの初代所長に任命され、原爆の研究から投下までを主導していく様子が、イラストとともに描かれています。
- 著者
- ジョナサン・フェッター-ヴォーム
- 出版日
- 2013-07-13
全編を通して、イラストとその説明文でストーリーが進んでいく、グラフィック・ノンフィクションという手法がとられています。文章だけでは難解な物理の仕組みなども、感覚的に理解できるかもしれません。
本書では研究者たちが、原爆が実際に投下されたらどのようになるか、ということにあえて目をつぶり、自身の研究の成果を追い求めていく姿とその恐怖が描かれています。
オッペンハイマーは広島と長崎へ原爆を投下した後に、演説で核の脅威と危険性を訴えるのです。しかしその声は政府には届かず、やがてマンハッタン計画は恒久的な兵器産業へと変わっていったのでした。
いかがでしたでしょうか?過去にあった事実を受け止め、今後私たちは何をするべきなのかを考えることが、ひとりの人間として必要なのではないのでしょうか。