梅棹忠夫は独自で斬新な梅棹文明学とも呼ばれる文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えている人物です。専門の文化人類学はもちろん、エッセイや専門研究での膨大な情報を活用するのに編み出した方法『知的生産の技術』はロングセラーになっています。
梅棹忠夫は1920年に京都で生まれた民族学者です。もともとは動物生態学が先行していましたが、次に動物社会学を学んだ後、数度のモンゴルやカラコルムなどでのフィールドワークを経て民族学・文化人類学の研究に移行しました。国立民族学博物館の創立に力を尽くし、初代館長となったのです。
著書もベストセラーにしてロングセラーの『知的生産の技術』をはじめ、『日本探検』『文明の生態史観』など多数、各方面に渡っており、1994年文化勲章受章しています。晩年になっても、精力的に文筆活動をしていましたが、2010年に帰らぬ人となりました。
学校では懇切丁寧に、それこそ手取り足取りで、知識を詰め込んでくれます。ただそれは受け身の姿勢で入ってくるものばかりで、自分で欲しいと思った情報や知識をどう手に入れるかという方法は教えてくれません。
この本の中では、梅棹忠夫が長年に渡って莫大な情報をどのように自分の血や肉としてきたか、という経験や実践で身につけたメソッドが書いてあります。メモのとり方やカードの利用法など、初版から半世紀経った今なお、参考になるアイデアやヒントが詰まっているのです。
- 著者
- 梅棹 忠夫
- 出版日
- 1969-07-21
この本に出てくる情報整理術の方法の中にノートではなく、カードを使う方法、有名な京大式カードがあります。今や、PCやスマホが普及していますが、そういうものがなかった時に、情報を集めるところから始まって、取捨選択して整理し、いかに蓄えるか、またそのままにしないで活用し、アイディアを創るかというプロセスが書いてあるのです。
著者自らの方法論が中心にありますが、梅棹忠夫と同時代に知的生産についての持論を表していた、加藤秀俊、小泉信三、川喜田二郎、大宅壮一、鶴見俊輔等の人たちの考え方やその著作をも紹介しています。
梅棹忠夫独特のひらがなの比率の高い文章で、書いてあるのですが、それだけに本にも強いこだわりがあります。娯楽ではなく、読書によって知識を得るのなら、本は初めから終わりまで読むものだと、決めているのです。速読や斜め読みはダメだといいます。書いてある構想や、文脈、などは全部読むことで、初めて理解できるのです。
11の章で分かれており、著者が今まで行ってきたフィールドワークなどの経験に基づいて書かれています。文章も平明で、分かりやすく、かなり実践向きといえるでしょう。すぐにでも、真似したい、真似できるアイデアばかりです。
自らが身につけた知識から、段階を経ていく文明の形を解析し予見した著書です。まずは物質の産業化がなり、次にエネルギーの産業化に進み、最後に精神の産業化へと進むと分析した梅棹忠夫の、時代を先読みする力は他を圧倒します。情報産業社会が訪れることを誰よりも早く予測した名著です。
- 著者
- 梅棹 忠夫
- 出版日
- 1999-04-01
私たちは洋服を買う際に、布地の重さではなく、付加価値としての情報、つまり色や形によって価値を見出します。食品にしても、味や形や色といったの情報を買ってるのです。そして食や機能に支払う金額よりも多くの金額を情報に支払っています。
「感覚器官で受けとめられ、脳内を通過するだけで、感覚器官および脳内神経系をおおいに緊張させ活動させる」
(『情報の文明学』より引用)
私達は普段から、新聞や本を読んでいる上に、テレビでニュースを視聴して、おまけにインターネットでもに情報を取り込んでいます。どうしてそんなにしてまで情報を必要なのかの答えが上記の一文です。ただし、私達が情報を前にして、それを利用するのではなく、情報に振り回されているのも事実かもしれません。
日本経済新聞に連載されていた「私の履歴書」がベースとなった、梅棹忠夫の自伝です。幼い頃から国立民族博物館館長を退官した後までの70歳半ばほどの、半生が書かれています。知=妄想が先にあったから、行動=行為が成り立つのでしょう。すべての探険と学究のきっかけは「知りたい」という欲求からからはじまるのです。梅棹忠夫の独自の発想や創造力の原点がここにあります。
- 著者
- 梅棹 忠夫
- 出版日
- 2002-04-01
そもそも、ある一定の年齢以上の人たちが、高等教育を受けられる機会はどれくらいあったのでしょうか?今やほとんどの人が高等学校に進学し、さらに上の学校、大学への進学率も50%以上ですが、今から7、80年前はほんの一握り、それこそ裕福な家の子弟が学問を修めるというのが一般的でした。
梅棹忠夫は「苦学生」というイメージがあるかもしれませんが、京都の裕福な商家の生まれで、いわゆるお坊ちゃま。枠にとらわれない伸び伸びとした発想や柔軟さはそういう育ちに裏打ちされているのかもしれません。
単なるお坊ちゃまの暇つぶしではなく、梅棹忠夫は秀才でした。旧制京都府立一中を5年かかるところを、飛び級で4年で卒業し、旧制第三高等学校へと進学しています。ただし進学後は趣味の登山にのめり込み、2年連続して三高を留年して退学処分の憂き目に遭ったのです。
しかしここで終わらないのがこの話で、梅棹忠夫を慕う後輩や同級生から助命嘆願の運動が起きて、復学を許されます。ここから真面目に授業を受けるようになった著者はあっさり三高を卒業すると、京都帝国大学へ進学……。ここまでくると秀才でなく天才なのだろうと思うしかありません。
その後も、大学での実学志向の学生と自分の学問との温度差を感じることはあったものの、自分の興味のある方向に突き進みます。上手くメデイアと付き合い、専門としている事以外にも、広く関わっていく姿勢は、まさしく「自由」を体現しているように我々の目には映ることでしょう。
とにかく一般的な「枠」にとらわれない、グローバル時代を予見するかのような半生でもあります。
モンゴルへのフィールドワーク時にウィルスによって突然、視力を失う梅棹忠夫の、発症、闘病、リハビリなどをしている姿を書いています。色々なことを試し、仕事や趣味も続け、さらなる挑戦をも厭わなかった、著者の姿勢に感動を覚える方もたくさんいることでしょう。
周りで支えてくれる友人たちにも恵まれていたのかもしれませんが、その友人を引き寄せたのは誰あろう梅棹忠夫自身なのです。そのことも感じさせる内容になっています。
- 著者
- 梅棹 忠夫
- 出版日
- 1994-12-27
どういう経緯で目の光を失ったか、その後の闘病やリハビリを通して鬱になり、自殺を考えたということが書いてあります。しかし、何とか気持を切り替えて、手探りで音楽や著述という活動に移行していけたか、という過程をも著すことによって、梅棹忠夫の中の葛藤も垣間見られるのです。
学者として、視力を失うということは、やはり相当な衝撃だったに違いありません。これだけ素晴らしい実績のある方だからこそだとは思いますが、日常から逸脱した状況下では、自分のことしか考えられなくなるのだという感覚に、人間らしさを感じる人もいることでしょう。
目の見えない状況に陥って、心折れそうになりながらも、好奇心や、望みを捨てない梅棹忠夫の姿は、様々な壁にぶつかり、現状で足踏み状態にある人に勇気を与えてくれるでしょう。
1970年に河出書房から出版予定になっていた梅棹忠夫執筆「世界の歴史」シリーズ全25巻の最終巻になるはずだった『人類の未来』というタイトルの本です。しかし当時の梅棹は、国立民族学博物館の開設を控え、超多忙のため執筆が滞り、完成を見なかった幻の著作です。
未完ですが、その構想に関するメモ書きがあるので、その構成過程は分かるようになっています。
- 著者
- 梅棹忠夫
- 出版日
- 2011-12-16
本書は、未完である『人類の未来』を可能な限り再現しようとしたものです。梅棹忠夫の手書きによる、本の組み立て要素となる「目次」と、『知的生産の技術』で有名になった、知的生産ツールであるメモに書かれた発想が写真で示してあります。これによって、『人類の未来』についての構想プロセスをうかがい知ることができるのです。
また、当時多忙を極めていた梅棹忠夫は、その執筆だけではなくインタビューや対談も行っていたため、そういった仕事の時の発言なども参照して、この未完の本の全容を明らかにしようとしています。
著者の未来予測がほとんど的中しています。それは神がかりめいた予言ではなく、自説に基いて導き出した、当然のあるべき姿だからです。地球規模の巨大な視点と、個々の具体的な事物の小さい視点で異なる2つの視点で物事を捉えているからでしょう。
そしてこの未完の『人類の未来』は悲観的な話ばかりが出てくるので、1970年代に無事に発刊されていたとして、どのように読者に受け止められたかは、ちょっと今の時代を体験している我々には分かりません。随分、絶望的に捉えているなとか、ネガティブな印象しか受けない人もいるかもしれません。
ただし、その未来を体験している我々は、梅棹忠夫の先見の明に驚きや、賞賛を隠せません。そして特に、3.11の震災と原発事故を体験してしまった我々にしてみれば、著者の予測していた悲観的な未来を目の当たりにしているわけですから、深刻な局面を迎えていると感じざるを得ません。
いかがだったでしょうか。専門として研究している事柄だけでなく、それこそ幅広く深く活躍をしていた梅棹忠夫。知の巨人とも呼ばれる梅棹の色褪せぬ著書はこれからの将来への指針として、読んでみるのも良いでしょう。