立原正秋は昭和に活躍した作家です。朝鮮半島出身の作家で、世阿弥に傾倒し虚無と抒情の入り混じった作風を得意としています。純文学と大衆文学の「両刀使い」を自称して活躍するほか、大変な美食家としても名を馳せました。
立原正秋(たちはらまさあき)は1926年生まれ。朝鮮半島出身で、幼少のころに日本に移り住み、結婚を契機に日本国籍を取得しました。
その作風は世阿弥の『風姿花伝』を中心とした中世古典文学を背景に、「虚無」と「抒情」の世界を表現することを得意としています。
1964年に『薪能』、1965年に『剣ヶ崎』が芥川賞候補となり、1966年『白い罌粟』で直木賞を受賞。純文学と大衆文学の「両刀使い」を自称して活躍しました。
また立原は檀一雄らと並び、稀代の美食家と称されました。食に関する著作も数多く発表しているほか、長男も懐石料理屋を開店するなど、その影響は様々なところに及んでいます。 作家の吉本ばななも立原正秋好きを公言していて、彼女の立原評は彼の作品の根底に流れているエッセンスを見事に掬い上げていますのでこちらで紹介させていただきます。
「簡単に言いきってしまえばそれは、決して妥協を許さない美への信仰、個人の信念への信仰、聖と俗の混合、濁ったものへの単純すぎるほどの軽べつの念、性と食に貫かれる日常への固い信念……」(『新潮日本文学アルバム 55 立原正秋』より引用)
純文学作家としても大衆文学作家としても大成した立原正秋ですが、どちらの作品にも共通して言えることは、普段の生活の中で窮屈な思いをしている方にこそ、読まれるべきであるということです。吉本の言を借りれば、「もともと生きるということを空しく思うものが、どうにかして生命を燃やそうと」してもがく様子が克明に描かれています。
『冬の旅』は木下恵介によってドラマ化もされました。愛する母を凌辱しようとした義兄を刺してしまった行助は、少年院に送られます。そこで出会った非行少年との交情と、孤独な自己との闘いが描かれてる作品です。
少年たちは、罪は犯したけれども、塀の外で生きる少年少女と何ら変わりのない子供たちに見えてきます。行助を含む塀の中の彼らは閉鎖された空間の中で、彼らなりの葛藤を抱えながら生きているのです。
- 著者
- 立原 正秋
- 出版日
- 1973-05-29
本作は、行助が破傷風にかかり、彼の処置をする周りの人々が描かれたところで幕を閉じます。具体的に行助がどうなったのかは分からないまま終わりますが、十分に彼の死を暗示させる大変悲壮な場面です。
行助を死に追いやったものは何かを考えさせるとともに、それとは対照的な彼の優しい心が浮かび上がってくる名シーンであるといえます。 章末、生死の境をさまようなかで行助が言った、「僕は人をうらみませんでした」という言葉は、この小説の性質を最もよく表しているといえるでしょう。
本作は『冬の旅』とは一変して「大人の恋愛小説」とでもいうべき味わいをもっています。
夫に逃げられた里子は40代の会社社長、坂西浩平と出会います。そして2人の恋が燃えあがるのとは対照的に、彼女の夫の生活が次第に堕落していくのです。里子と夫の別れを起点にして、社会の上層と下層に分岐してゆく2人の生が対照的に描かれた作品となっています。
- 著者
- 立原 正秋
- 出版日
- 1980-07-29
この作品の魅力は、里子と坂西の恋や夫の堕落はもちろんなのですが、その合間に挿入される、様々な知的エッセンスにあるといえるでしょう。
数々の美食や名所旧跡、陶芸など、文化や社会の知識を背景に展開する美しい装丁画のような描写は、まさに立原の真骨頂です。
主人公は大学教授を辞めて奈良で図書館長に就任した鳴海六平太。鳴海は妻の範子が不倫をしていることを知りますが、子供や生活のことを考えて仮面夫婦生活を続けています。
そんななかで彼は、石本多恵という女性に出会い、奈良の古刹を案内するうちに次第に惹かれあっていくのです。 しかしそれを知った妻の範子は2人の仲に立ち入っていくようになり、さらには多恵の元夫も現れて多恵との復縁を迫るなど、愛憎まみれる複雑な人間関係を描いた作品となっています。
- 著者
- 立原 正秋
- 出版日
この作品の魅力は何といっても愛をテーマにしながら、複雑に絡み合う人間関係です。鳴海と範子、鳴海と多恵、さらにはその元夫をも含めた4人の関係。愛と憎しみに揺れ動く人間の心理は立原にしか書けないものです。
『春の鐘』は立原正秋の晩年の作品で、その虚無的な美意識や抒情の感覚はまさに筆極まれり、といったところです。彼の魅力がぐっと詰まっているので、初めて彼の作品を読まれる方にもぜひおすすめしたい一冊です。
この作品は不破篤子、保江、数馬という姉弟それぞれの不倫を描いた長編小説です。篤子は茶会で知り合った男と、保江は同じテレビ局に勤めているプロデューサーと、数馬は自分を捨てた女が結婚した資産家の妾と関係をもっています。
彼、彼女らが堕落したきっかけは1945年の終戦の翌日、彼らの父が自決したことにはじまります。それぞれの不倫を通じて人間の愛と憎しみが描出された物語です。
- 著者
- 立原 正秋
- 出版日
- 2006-04-14
この作品は重々しいテーマを軸に据えながらも、読後感は意外に軽やかなものが残ります。会話文が主体なこともあるでしょうが、これまでの立原作品にはない珍しい読み味です。姉弟のやり取りを中心に展開する物語は、意外なほど穏やかな日常が描かれています。
「人間、なにをやってもいい、と俺は思う。しかし、生きなければだめだよ。今年はもう春が来てしまったが、来年は、篤姉さんらしい春の支度をしてくれよ」(『春のいそぎ』より引用)
という数馬の言葉からもわかるように、不思議なほどにあっけらかんとして、この軽快さが作品全体の面白さを引き立たせています。
本作は、ここまでご紹介した作品とは打って変わって、立原正秋の美食に関する随筆を集めたものです。酒や食べ物、お店に至るまで様々なエッセイが収められています。立原のもうひとつの顔がうかがえる貴重な一冊となっています。
彼は文壇でも美食家として通っており、その舌は繊細だったそうですが、朝は10時ごろに起床するとビールの中瓶を1本飲み、それから寝ている時間以外は常に酒を飲み続けたというから驚きです。
- 著者
- 立原 正秋
- 出版日
本作のなかに何度も登場する「鯵」に対する彼の思い入れは、すさまじいものがあります。その漁獲法、締め方、さばき方、調理法などによる味の違いを、偏執的ともいえる詳細な筆致で記述しているのです。
ほかにも包丁の扱い方や名店の紹介まで載っていて、立原の食に関するプライドもうかがえます。小説を普段読まない方でも楽しく読み通せるので、ここから立原作品に触れてみてはいかがでしょうか。
いかがでしたでしょうか。純文学と大衆文学の「両刀使い」をなだけでなく、美食家としての一面も有する立原正秋。どのジャンルでもいかんなく彼の魅力が発揮されています。今回取り上げた5冊のうちに引っかかるものがあれば、ぜひ手に取って読んでみてください。