ここ数年で「ニーチェ」ブームは2回あったように思います。1回目は2010年1月に刊行された『超訳ニーチェの言葉』をきっかけとしたもの、2回目は2014年1月に第1巻が刊行されたマンガ『ニーチェ先生』をきっかけとしたものです。とはいえ、まだニーチェの思想に触れたことがない方も多いかもしれません。今回は「超訳」ならぬ「超読み」によって『ジョジョの奇妙な冒険』と伊藤計劃『ハーモニー』を通してその思想を紹介したいと思います。
「ふざけんなよ! お客様は神様だろうが!」
「神は死んだ」
『ニーチェ先生~コンビニに、さとり世代の新人が舞い降りた~』は、コンビニでの新人バイトの接客応対をネタにTwitterに投稿し話題となった松駒氏(@matsu_koma)が、原作者でありつつ登場人物を兼ねている異色のギャグマンガです。主人公の仁井(にい)君は、上記のやりとりから「ニーチェ先生」と呼ばれることになります。
本作品は2016年1月に動画配信サービスhuluのオリジナル作品としてドラマ化され、読売テレビでも放送されました。特に、AKB48の松井玲奈さんと、店長を演じた佐野二郎氏の好演で、とても楽しめる作品になっています。また、2010年に刊行され1回目のブームのきっかけとなった白鳥春彦『超訳ニーチェの言葉』(ディスカバー・トゥエンティワン)もドラマ化直前の2015年11月に『エッセンシャル版』として文庫化され、さらに読者を広げました。
「神は死んだ」は、ドイツの思想家フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900年)が残した有名な言葉のひとつです。この言葉はキリスト教だけでなく、キリスト教的な価値観にすがって生活する人々や社会をも否定する言葉とされています。当時におけるキリスト教的な価値観は社会で当たり前に存在する支配的な価値観であり、現代の日本で言えば資本主義のようなものかもしれません。
資本主義社会では、企業は顧客に提供する製品やサービスの競争により生存をせまられます。そのため「お客様は神様」「顧客第一」という考え方は資本主義や企業社会における重要な価値観であり、その中で日本に誕生し爆発的に成長した産業の1つがコンビニです。言い換えるとコンビニは、日本における資本主義社会の象徴的存在であり、現代ではいたるところに当たり前に存在しています。
そのコンビニにおいて「お客様は神様だ」という「当たり前と信じられている価値観」に異を唱えたことは、単なるギャグマンガとして理解されている以上にニーチェ的と言えるでしょう。
- 著者
- 出版日
- 2014-01-27
ニーチェの思想の集大成と言われている本が『ツァラトゥストラはこう言った』です。出版社などにより『ツァラトゥストラはかく語りき』、または単に『ツァラトゥストラ』というタイトルの場合もあります。作曲家リヒャルト・シュトラウス(1864-1949年)による同タイトルのオーケストラ曲(1896年)の冒頭部分は、スタンリー・キューブリック監督の映画『2001年宇宙の旅』(1968年)でも使われ、誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。
本作の主人公でありニーチェの分身ともいえる「ツァラトゥストラ」とは、世界史でも登場する「ゾロアスター教」のゾロアスターのことです。ニーチェにより「非キリスト的なものの象徴」として置かれたツァラトゥストラが、太陽と共に「没落」することから物語は始まります。本作で重要とされる概念は多くありますが、解説本も多く出版されているのでそちらに譲り、ここでは「永遠回帰」と「超人」を簡単に紹介したいと思います。
「永遠回帰」とは「いま私たちが生きて行っていることは無意味で、全ては永遠に繰り返される。ならば現状に不満を言ったり運命を否定するのではなく積極的に受け入れよう(次の人生でも同じ運命を欲しよう)」という考え方です。また「超人」とは「キリスト教的な価値観に依存してなんとなく生活する人々」の対立的存在として置かれた「神が死んだ世界で、意思を持って創造していける人間」です。これらにいついては、次の項以降で詳しく触れたいと思います。
すでに述べたように『超訳ニーチェの言葉』がベストセラーになるったことなどをきっかけにニーチェがブームになりましたが、この本が刊行された2010年の前後にはリーマンショックと東日本大震災という「それまでの当たり前」が覆される大きな出来事がありました。「ニーチェ」ブームの背景には、「世界不況や自然災害などに対しては、自分はちっぽけで無意味な存在ではないか」という「永遠回帰」にも似た虚無感と、「それまでの当たり前を疑い、自らの意思の力を発揮しなければならない」という「超人」的な発想があったのではないでしょうか。
その後も私たちはグローバル人材・イノベーション人材といった「超人」が要請されつつも、「いくら努力してもいずれ労働は人工知能やロボットに奪われるのではないか」という脅威にさらされている社会に生きています。そのような中でどのような心持ちで生きていけば良いのか。本作にはニーチェならではの答えが書かれています。
- 著者
- フリードリヒ・W. ニーチェ
- 出版日
- 2015-08-05
さて、筆者がこのニーチェの思想に触れたとき、すぐに想起したのが荒木飛呂彦『ジョジョの奇妙な冒険 第6部 ストーン・オーシャン』(以下、『ストーン・オーシャン』)でした。
本作の黒幕であるエンリコ・プッチは、主人公である空条除倫(ジョリーン)が収監されることになる刑務所内の神父です。その目的は、除倫の父である空条丈太郎に殺された友人DIO(ディオ)が残した「天国へ行く方法」を知ることです。そのために除倫は、プッチ神父の陰謀により収監されることになります。そして物語終盤になって明かされるプッチ神父が目指した「天国」とは、宇宙が1度終末を迎えて再生し、さらにはそれを繰り返し、全ての人々が「自分の過去も未来も既に体験している世界」でした。プッチ神父によれば、それは「誰もがこれから人生に起こることに対して覚悟できている世界」であり、それこそが「天国」だというのです。
この世界においては、いかなる努力によっても自らの運命を変えることはできません。全ては「前回の宇宙(世界)」で既に決まっているのです。まさに「予定調和」の世界です。プッチ神父は、この永遠に繰り返す世界で、自らの人生に起こるあらゆることを運命として受け入れることを求めます。
これはニーチェ思想の「永遠回帰」を説明するのに、とても分かりやすい例だと思います。「神は死んだ」と考えたニーチェと、神父であるエンリコ・プッチが同じ世界観に到達したというのはなんとも皮肉ですが、プッチ神父にとっての神とは、キリスト教における神ではなく、友人であり「超人」でもあったDIOだったのかもしれません(イタリア語で「DIO」が「神」を意味することも奇妙な偶然です)。
果たして『ストーン・オーシャン』でプッチ神父が目指す「天国」は実現するのか、主人公である除倫がそれを阻止できるのかは、本作を読んで確かめてみてください。
- 著者
- 荒木 飛呂彦
- 出版日
- 2009-06-09
もう1つの概念である「超人」については、2015年にアニメ映画化されたSF作品で、アメリカにおいてフィリップ・K・ディック賞を受賞した伊藤計劃『ハーモニー』を通して考えたいと思います(フィリップ・K・ディックは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』の著者として有名です)。
『ハーモニー』の世界観は以下のようなものです。
「大災禍(ザ・メイルストロム)」に遭った人類は、資本主義ならぬ「生命主義」社会を築きあげます。そこでは政府ではなく「生府(ヴァイガメント)」が機能し、人々は「WatchMe」と呼ばれる仕組みを体内にインストールし常に健康状態を監視されながら「メディケア」を受けて生活しています。この社会では生命や健康は「公共的」で「希少な資源」とされます。
“国家の、つまりは「大きな政府」の機能が縮小に縮小を重ね、軍隊と警察の一部を残して、いまや莫大な数の生府が、この惑星の経済システムを管理している。生府は旧政府とは異なり、より細密な単位で、医療と思いやりと慈しみに溢れていて、さらには隣人が苦しんでいるさまも放っておけない。”(P57)
本作の中心になるのはそういった社会に抗った3人の少女です。彼女たちは社会への反抗として自殺を選び、その際に死ねなかった少女の1人であり大人になった主人公の霧慧(きりえ)トァンは酒・タバコ・薬物といった方法で非合法に「不健康」を得ていますが、その行為は死んだ少女、御冷(みひえ)ミァハの思想がよりどころとなっています。このミァハと、ニーチェ(ツァラトゥストラ)の思想に、筆者は同じものを重ね合わせました。例えばミァハはキリスト教の生命に対する価値観と、その後の生命主義社会について、以下のように言っています。
“「命は神から授かったもの。否応なく神に押し付けられたもの。だから、たかが子羊である人間がそれを自ら奪ってはならない、そういうことだった。だから自殺者はものすごく忌み嫌われた。(中略)そのカソリックのドグマの後継者は、以外にも慈愛に満ち満ちた、われらが健康社会。神の授けし命という教義は、生命主義の健康社会では『公共物としての身体(パブリック・ボディ)』となる。わたしたちの命は神の所有物から、みんなの所有物へとかたちを変えた。命を大切に、という言葉には、いまやあまりに沢山の意味がまとわりつきすぎているの」”(P44)
つまり本作品において、「キリスト教的な価値観」に続いて現れたのは「生命主義と健康に依存する社会」でした。これはニーチェの思想から見れば、せっかく「(キリスト教の)神が死んだ」にも関わらず、その後、新たに「生命主義」「健康社会」という相変わらず「人々がすがり続ける支配的価値観」と、「生府」という「新たな神」が出現してしまったことになります。
それに対し、ミァハの思想を受け継ぐトァンは以下のように独白します。
“そう、ミァハの言うとおりだ。
だからこそ、わたしたちは死ななければならない、と感じていた。
命が大事にされすぎているから。
互いに互いを思いやりすぎているから。
とはいえ、ただ死ぬだけでは駄目だ、なにがしかの方法で健康そのものを嘲笑うようなやり方じゃなくちゃ。”(P45)
しかし、トァンはミァハのようには死ぬことができず大人になり、既に述べたように酒・タバコ・薬物という不健康を非合法的に得るという方法で社会に抗って生きています。これらの行為は、支配的な価値観に依存せず意思を持って創造する「超人」を目指したツァラトゥストラ(ニーチェ)と重ね合わせることができるでしょう(もちろん本作は「過剰に監視された健康社会」を前提としたSFであり、現実社会において自殺や不健康につながる違法行為を肯定しているわけではありません)。
さて、以上のように世界設定された本作の物語は、6000人以上の人々が各地で一斉に自殺を図るという「事件」から急展開します。そこに現れるのは、死んだはずのミァハの影です。世界に認められた日本のSFがどのようなものか、ぜひ読んでみてください。
- 著者
- 伊藤計劃
- 出版日
- 2014-08-08
本文にも記載したように、ニーチェの解説本は多数出版されています。今回の「超読み」を通してニーチェの思想に興味を持った方は、本格的なニーチェ解説本に触れてみてはいかがでしょうか。