チェ・ゲバラのあなたの知らない事実10選!イケメン革命家の素顔に迫る4冊

更新:2021.11.8

チェ・ゲバラ、名前は知らなくとも、Tシャツやタバコに描かれたイラストは誰しも目にしたことがあるでしょう。死後に、敵側である西側諸国のファッションアイコンとなるほどの人気を博した革命家の素顔に迫ります。

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革命家・チェ・ゲバラ

革命家チェ・ゲバラは、疲弊していたラテンアメリカを武力革命で一新させようと試みた人物です。

1928年に誕生した彼は、ブエノスアイレス大学で医学部に進み、医師となりました。しかし、当時のペロン政権下で軍医となるのが嫌だったため、アルゼンチンを出て南米を放浪することにします。

ボリビアでは農地改革の実態を目の当たりにし、グアテマラ滞在中にはクーデターが勃発したため、メキシコへの亡命を余儀なくされます。南米の貧困問題やアメリカ資本による搾取、アメリカの傀儡である独裁政権などへの疑問が膨らんでいた頃、メキシコで亡命キューバ人のフィデル・カストロと出会いました。

カストロと意気投合した彼は、カストロのキューバ独裁政権への武装闘争に、軍医として参加します。メキシコから10人乗りのヨットに82人が乗り込んで始まった武装闘争でしたが、政府軍の攻撃に遭い、無事にキューバに上陸できたのはたったの12人だけでした。この少人数が山に潜んでゲリラ戦を行い、じわじわと支持者を増やして25ヶ月後にはキューバ革命を成し遂げたのです。

ゲバラは軍医として革命軍に加わっていましたが、戦いのさなかで見せる冷静な判断力、人をひきつけるカリスマ的魅力、ゲリラ戦に必須の粘り強さなどを買われて、武装闘争の途中からはカストロに次ぐNo.2として兵士を率いていました。

革命後、ゲバラはキューバ出身ではありませんが、その功績からキューバ市民権を与えられ、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任します。また、キューバ政府の要人として、1959年には訪日もしました。

キューバの発展のために、粉骨砕身の思いで取り組んだゲバラでしたが、理想主義的な彼はしだいに政府内で浮いた存在となってしまいます。そして、第二回アジア・アフリカ会議においてキューバの主要貿易相手国であったソ連を公然と非難したことで、ソ連はキューバ政府に対して「ゲバラを解任しなければ、キューバへの援助を減らす」と迫りました。彼は地位に執着せず、政治から離れることを盟友カストロに告げ、キューバを出ます。

その後はコンゴ、チェコスロバキア、ソ連などを転々としたのち、ボリビアの革命運動に身を投じます。アメリカの軍事顧問団による全面的なバックアップを受けた政府軍を相手に苦戦しましたが、ボリビア国内勢力やボリビア共産党、他の南米共産政権からの援助はほとんど望めぬ絶望的な状況でした。ボリビアで武装闘争を始めてから1年ほどが経った1967年、とうとう政府軍に捕らえられ、処刑されます。

キューバ革命の英雄、清廉な革命戦士としてゲバラの名は知られていましたから、銃殺刑を執行する政府軍の兵士も引き金を引くのをためらいます。その兵士に向かって彼は「落ち着け、そしてよく狙え。お前はこれから一人の人間を殺すのだ」と語りかけました。動揺したのか兵士は3発撃ちながらも急所を外してしますが「お前の目の前にいるのは英雄でも何でもないただの男だ。撃て!」と言い放ちます。これが彼の最期の言葉となりました。

ゲバラは反アメリカ闘争の象徴、南アメリカの独裁政権打倒の象徴として熱狂的にもてはやされ、Tシャツやポスターとなって今なお全世界で親しまれています。反骨のカリスマとしての支持のみならず、理性的な人格者として彼を評価する声も少なくはありません。フランスの哲学者サルトルはゲバラを「20世紀で最も完璧な人間」、ジョン・レノンは「世界で一番かっこいい男」と評しました。

共にキューバ革命を成し遂げ、終生尊敬しあう関係であったカストロいわく「道徳の巨人」「堅固な意志と不断の実行力を備えた真の革命家」だそうで、ゲバラの魅力はゲリラ戦争の上手さや見た目・振る舞いの威厳以上に、自己規律というべき道徳的側面にあったのではないかと思われます。

あなたが知らないチェ・ゲバラの事実10選!

1:チェ・ゲバラは本名ではない。本名は、エルネスト・ゲバラ

アルゼンチンなまりのスペイン語で「チェ」は、「やぁ」「おい」といった親しみを込めて呼びかける言葉です。彼は初対面の人とあいさつする際に「チェ。エルネスト・ゲバラだ」とあいさつしており、その発音を面白がったキューバ人たちが彼につけたあだ名が「チェ・ゲバラ」でした。彼もこのあだ名を気に入っていたのか、キューバ国立銀行総裁に就任した際には、フルネームではなく「チェ」と紙幣にサインをしています。

2:彼はキューバ人ではなく、実はアルゼンチン人である

キューバ革命に貢献したり、キューバ新政府の国立銀行総裁に就任したりしたゲバラは、キューバ人であると思われがちですが、実はアルゼンチンの出身です。ロサリオの裕福な家庭に生まれ、大学まで彼はアルゼンチンで暮らしました。

3:彼は医者だった

ゲバラはアルゼンチンの最高学府・ブエノスアイレス大学の医学部に進み、医者となります。大学時代の友人とバイクで南米を放浪旅行した際には、ハンセン病患者の治療にもあたっており(この旅を映画化したのが『モーターサイクル・ダイアリーズ』)、武装闘争を始めた当初も軍医としてキューバ革命軍に加わりました。

余談ですが、フランス革命のマラーや中国国民運動の父・孫文も医者出身の革命家です。「上医は国を医し、中医は人を医し、下医は病を医す(最上の医者は国家の病を治し、中程度の医者は人を治し、程度の低い医者は病気を治す)」という言葉がありますが、医者は革命家を輩出しやすい職業なのかもしれません。

4:彼は正式な軍事訓練を受けたことがなかった

ゲバラは先ほど見たように医者でしたから、軍人として正式な軍事訓練を受けた経験はありませんでした。キューバに出発する前に、カストロ率いる亡命キューバ人らと共に、スペイン内戦経験者の軍人から手ほどきを受けた程度です。過酷な戦場の中から自らゲリラ戦のやり方を編み出したのですから、天賦の才能があったとしか思えません。

5:彼には5人の子供がいた

ゲバラは2回結婚しており、初めの奥さんとの間に娘をもうけ、キューバ革命中に出会った奥さんとの間に4人の子どもがいました。彼がキューバの国政から離れ、出国した時には、家族はそのままキューバに残しました。ゲバラ亡き後は、カストロを始めとするかつての戦友たちが家族の面倒を見ていたそうです。

6:彼は喘息持ちであったが、葉巻愛好家であった

ゲバラと言えば葉巻のイメージですが、実は彼は幼少時から喘息を患っていました。ゲリラ戦で山野を転々とする中で、葉巻の煙は虫よけに有効でした。また、葉巻はキューバの特産品ですからこれを海外にアピールする狙いもあったと言われています。

7:武力闘争は圧迫政治から脱する唯一の方法だと信じていた

ゲバラは、武力闘争こそが独裁者の圧政から逃れる唯一の方法だと考えていました。この考えを端的に示す言葉が「2つ、3つ、もっと多くのベトナム(≒反帝国主義人民戦争)を作れ」というものです。

しかし、彼は著作の中で「平和革命と選挙による変革の道は可能性があるのなら望ましいし追求するべきだ。しかし、現在の条件のもとではラテン・アメリカのどの国においてもそのような希望は実現されることはありそうもないと思われる」(『ゲリラ戦争』より引用)とも述べています。

ゲバラも決して、闘争を好んでいたわけではないのでしょう。当時の南米情勢が、武力闘争以外の方法を許さなかったのかもしれません。

8:彼はキューバ以外に、ボリビア・コンゴの革命にも参加した

ソ連との対立によって、キューバの国政から退いたゲバラは、アフリカのコンゴで革命運動の指導をしますが、兵士たちの士気の低さに失望します。結局、コンゴでの革命活動はものにならず、数か国を転々としたのちに、彼の最後の戦いであるボリビアの革命運動に参加しました。

9:彼の髪がオークションで高額で売られた

2007年にアメリカ・ダラスで開催されたオークションで、ゲバラの遺髪が10万ドルで落札されました。彼が処刑された後、亡命キューバ人のCIA工作員が切り取って保管していたそうです。

10:チェ・ゲバラの手はホルムアルデヒドという薬品で保存された

処刑された後、ゲバラの遺体は防腐処理を施されました。そして遺体を埋葬の際、手は切り取られて別途保管されることになり、ボリビア政府の要請を受けて派遣されたアルゼンチン警察の指紋データと照合することによって死体が本人という確認がなされました。

チェ・ゲバラを知るための入門書

ゲバラの生涯を描いたノンフィクション作品。著者のゲバラへの思いが読者にもひしひしと伝わってくる一冊です。

読みやすい文体で、ゲバラの事績が記されています。「ゲバラは英雄である」という一種の思い込みを捨て、1人の人間としての彼を見つめようとする著者の姿勢には、読者側も学ぶところがあります。

著者
戸井 十月
出版日
2004-10-20

カストロに会いに何度もキューバへ行ったり、ゲバラに倣ってオートバイで旅したりするなど、著者の熱意がものすごく感じられますが、ここまでひきつける魅力があるという意味でも彼の偉大さを実感することができます。

ゲバラについての入門書を探している人におすすめと言えるでしょう。

盟友カストロから見たチェ・ゲバラ

ゲバラと共にゲリラ戦争を戦い抜き、キューバ革命を成功させた盟友フィデル・カストロの手によって書かれた評伝です。

アルゼンチン人であったゲバラは、メキシコでキューバから亡命してきたカストロに出会い、一夜で革命運動への参加を決意しました。それほど息の合った仲間から見た彼の姿とは、いったいどんなものだったのでしょうか。

著者
フィデル・カストロ
出版日
2008-05-23

ゲバラについて書かれた本は、後世のジャーナリストによるノンフィクションがほとんどの中で、彼と共に歴史を動かしたカストロが書いているのですから、史料としての価値も抜群です。

理想主義者だったゲバラと現実主義的なカストロは、キューバ革命後に別々の道を歩むことになります。しかし、互いに相手を尊敬する姿勢は終生変わりませんでした。彼を最もよく知る人物から見たゲバラ像に触れられる一冊。カストロにも興味がある!という方には特におすすめです。

自身が回想する革命

カストロとの歴史的な出会いからキューバ革命の成功までを、ゲバラ本人が書いた回顧録です。

キューバ革命の闘いの記録だけでなく、政治闘争としての革命の分析、南米情勢の分析にもページが割かれており、彼がキューバ革命についてどのように考え・何を思っていたのか、その真相に迫ることができます。

著者
チェ・ゲバラ
出版日

ゲバラはその絶大な人気から、しばしば実像からかけ離れた描き方をされがちです。本書を読むことで大抵の人は、彼に抱いていたイメージを変えることになるかと思います。

他者の目から見ると、自己を律し、忍耐強く戦い抜く戦士に見えるゲバラも、その内面は非常に繊細でピュアな人物でした。本人の文章を通して彼の実像に迫りたい人や、キューバ革命の実相に迫りたい、という人におすすめです。

ゲリラ戦争の日常が浮かび上がる日記

先ほどご紹介した『革命戦争回顧録』はキューバ革命後に書かれたものですが、こちらはキューバ革命のゲリラ戦争の最中に書かれた日記です。

1956年12月2日に、ヨット「グランマ号」に乗り込んだ82名により始まった武装闘争が、1959年1月1日に「キューバ革命」として成功するまでの闘いの日々が克明に記されています。

著者
エルネスト・チェ・ゲバラ
出版日
2012-06-11

本書からは『革命戦争回顧録』を記す上で捨象された、個人的な事柄についてゲバラがどう考え、どう行動したのかを知ることができます。

戦場という過酷な場所にあっても常にポジティブさを持ち、部下を励ましつつも冷静な指揮官として思慮を巡らせる彼の姿から学べることは、けっして少なくありません。本領を発揮したゲリラ戦争でどのようにふるまっていたのか、それを知りたいという人にうってつけの一冊でしょう。また、指揮官のマネジメントを学びたいという人にもおすすめです。

ゲバラについての意外な事実と関連の書籍をご紹介しましたが、いかがだったでしょうか?盟友であるカストロやキューバ革命以外の南アメリカの革命運動についても興味深い本がたくさんありますから、ぜひ触れてみてください。

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