オウム真理教の地下鉄サリン事件の概要と、マスコミ報道の考察

地下鉄サリン事件とは

1995年――バブル景気がはじけてから数年、1月には阪神大震災が発生し、不穏な空気が社会を覆った年だ。1995年3月20日朝、通勤客で混み合う東京の地下鉄の列車内で、有毒ガスであるサリンがばらまかれる事件が発生した。

事件は5人の実行犯により、同時多発的に地下の5か所で発生。13人が死亡し、約6300人がガスを吸い込むなどして負傷した。当時世間から注目されていた麻原彰晃が教祖を務める、新興宗教「オウム真理教」による犯行であることが発覚し、人々の耳目を集めた。

事件の目的は、これまでにオウムが起こした数々の事件に対する警察の強制捜査を延期させるためとも、省庁の立ち並ぶ霞が関駅が狙われたことから国家転覆を図ったとも言われているが、麻原死刑囚は黙秘を続けているために真相は不明だ。

オウム真理教とは

1987年に仏教や古代ヨガをベースに麻原彰晃が独自に作り上げた宗教で、「現実世界を超えた真実にたどり着き、生き物を輪廻の苦しみから解放する」ことを目的として修業を積む団体である。

設立後まもなく海外にも拠点を置くなど勢力を拡大。教団は政界進出をめざして1990年の選挙に出馬したり、三大都市圏中心にPC用品店や飲食店を展開したりするなど幅広い活動を行っており、PRソングの「尊師マーチ」をはじめとする派手なメディア戦略とともに人々に強い印象を残していた。

また「救済元年」と定めた1991年から布教活動を拡大し、教祖の麻原氏がテレビに出演するなどして世間での知名度を上げていった。信者数は全盛期で日本には1万5千人、ロシアでは3万5千人と言われる。

一方で、信者が修行のために家族や仕事を捨て「出家」しようとして家庭内で諍いになったり、オウムの新道場建設に周辺住民が反対して訴訟になったりなどトラブルも度々ニュースに取り上げられた。

そんななか1989年にオウム真理教関連のトラブルの依頼を引き受けていた弁護士が失踪する事件が発生。失踪人の家からオウムのバッジが発見されたことから、事件との関連が疑われていた。(後にオウム元信者の自供により遺体発見。)また地下鉄サリン事件の1日前にも、大阪でオウム脱退を希望した大学生を拉致・監禁する事件を起こしており、オウム大阪支部道場に警察の強制捜査が入っていた。

地下鉄サリン事件とマスコミ報道

地下鉄サリン事件について、テレビなどの報道では、「オウム真理教という狂気的な人達が社会に対してテロを起こした」というような語り方がよくなされる。そこからは「オウム真理教=狂気」「被害者・社会・私たち=正常」、あるいは「犯人=悪」「被害者=善なるもの、無垢」という二元的な対立の構図が見てとれる。

なぜ、マスコミはこのような善悪が対立する構図で事件をとらえたのか?

理由として、人々が「事件を理解するための分かりやすいストーリー」を必要とすることがあげられる。社会を揺るがすような大事件が起こった時、きっと多くの人は、様々な情報によって事件を理解し、自分の中で折り合いをつけることによってその事実を受け入れるのではないだろうか。だから、すんなりとは受けとめがたいような衝撃的な事件が起きると「事件について理解するために、納得のいくような説明を誰かにつけてほしい。」というニーズが生まれる。マスコミは、そのニーズに応える役割を担っているのだ。

マスコミのなかには事実のみを淡々と伝えることに徹する媒体もあるが、常軌を逸するような事件について、淡々と個々の事実を並べても、事件の全体像の理解につなげることは難しい。サリン事件で言うと、「オウム真理教が事件を起こした」「新興宗教団体による日本初のテロ事件だ」「信者には社会的エリート層も多い」という事実を並べても、それぞれの事実の間の因果関係がつながらない。

「なぜエリートが新興宗教にはまったのか?」「なぜオウムが事件を起こしたのか?」というように、点と点はばらばらなままだ。そこで、マスコミは点と点を結び付けるストーリーを作る。

「バブルの狂騒と崩壊を経験した若者やエリート層が心の拠り所を宗教に求めた。彼らは悪のオウム真理教によって洗脳され狂気と化し、無垢な市民を一方的に殺傷した。」狂気と正常の対立構造を前提にした、このようなストーリーは分かりやすく、説得力がある。

二元的な対立の構図の弱点

こうした構図を用いた報道には、ある弱点がある。

ひとつめは、「私たちとは違う狂気的な団体が起こした事件である」と人々に印象づけることで、「私たち側、正常な社会」の抱えていた問題点、つまりオウムのような団体が勢力をもつようになった理由を見えづらくすること。この点については、村上春樹が本の最後の部分で特に詳しく語っている。

そしてふたつめが、被害者を「無垢な被害者」という枠に押し込めてしまうということ。このことは時に、被害者が生身の人間であり1人1人に個々の人生があるのだ、という実感を薄める作用をもたらす。この点について、詳しく見ていく。

「無垢な被害者」という、被害者像の一元化

マスコミ報道において、被害者のプライバシー保護はとても大きな課題だ。特に地下鉄サリン事件のころから、報道による人権侵害問題が注目されるようになり、取材対象者のプライバシー保護が重要視される時風になっていた。

報道に登場する被害者は、あくまで「事件に遭った人」であり、個性は消されている。その人がふだんどんな仕事をしているのか?家族はいるのか?どんな人生を歩んでいるのか?事件が人生をどう変えたのか?そういったことには、それほど深く触れられない。それは、被害者のプライバシー保護のために当然必要なことだ。

被害者の個性を無くし、「無垢で正常な被害者像」に統一することは、被害者に対する想像力を働かせづらくする効果がある。それによって被害者が知られたくない情報を知られずにすむプライバシーの保全というメリットが得られる。

しかし、見る人の想像力が働きづらいというのは、裏を返せば被害者の受けた被害への理解が得られにくいというデメリットにもつながる。そのことは、被害者が事件後に差別などの不利益を受けることや、事件の風化につながるかもしれない。

マスコミ報道の限界

上記にくわえて、マスコミは事件についての分かりやすい「ストーリー」を提供するために、程度の多少こそあれ、ストーリーにあわせて分かりやすい「キャラ付け」や「レッテル貼り」をすることを避けられない。

例えば、オウムに帰依したエリート=世の中に嫌気がさして宗教を拠り所にしたのだ、とひと括りにしてしまったり。実際にはそうでない人もいるだろうが、そういう人はストーリー構成の都合上無視されてしまう。分かりやすさを追究するほどにその傾向は強くなる。強引な解釈を重ねた結果、事実と異なるストーリーを作ってしまうこともあるだろう。

結論

このように、マスコミの報道によって得られる情報には数々の弱点がある。マスコミの情報に欠けている部分を認識し、それを他の情報源によって補うことが大切だろう。

現代はSNSによって、マスコミを通さず被害者や関係者本人の声に直接アクセスすることができる。しかしネットがまだ黎明期だった1995年、そうした情報へのアクセスは限られていただろう。そんななかで、作家・村上春樹が60人の地下鉄サリン事件被害者に直接インタビューした内容をまとめる『アンダーグラウンド』は重要な意義を持つ本だ。

著者
村上 春樹
出版日
1999-02-03

この本は作家・村上春樹が、「あの日、地下鉄でほんとうに何が起こったのか」を解明するために被害者や関係者にインタビューしてまとめたものである。

まず導入文として、インタビュー相手のプロフィールと、村上がその人から受けた印象が簡単に綴られる。そしてインタビュー本文では、最初はどんな仕事をしているかなどその人自身についての話をし、読者にも人となりがつかめてきたところで、話は「あの日」のことへと移っていく。

村上は、インタビュー内容の編集は最小限、本人から希望されたところだけに留め、できるだけ被害者のありのままの姿を伝えるということを大切にしている。だからこの本には、被害者のふだんの通勤風景や、来歴や、大切に思っていることといった、マスコミ報道では語られないような内容が詳しく記されている。事件についての話より、自分の仕事についての話の方が長いこともある。

こうした記述を通して、被害者の人間像が見えてくるのが、この本の最大の特徴だ。ひとりひとりの被害者に人生があって、それは事件後も後遺症と共に続いていくことを実感させられる。

ある映画でこんなセリフがある。「人々はテレビを観て、怖いねって言いながらディナーを続けるんだ。」私たちはニュースや事件の特集番組を観て、怖いね、と言いながらディナーを食べ終わるころにはそのニュースのことを忘れてしまうかもしれない。事件が人々から忘れられても、それでも被害者の人生は続くのだ。

参考までに、この本にはこんな人たちのインタビューが載せられている。

一般乗客として現場に居合わせた元JR職員で、非常事態にも臆せず負傷した駅員の手当てに奔走した女性や、重症を負って記憶や視力を失い歩くこともできなくなった妹のために、仕事後に病院に通い妹を見舞う献身的な男性。

海外から日本に赴任中に事件に遭い、自分の倒れている姿が母国のテレビに流れたという外国人プロ騎手や、普段は亭主関白で頑固おやじだけど、朦朧とする意識のなか「初孫の顔も見ないでどうするのよ!」という娘の声を聞き、一命をとりとめたお爺さん……。

それぞれの人が何を語ったかについて、本を読んでぜひ確かめてほしい。報道とはまた違った事件の姿が鮮やかに浮かび上がってくるはずだ。またそれだけでなく、朝の東京の地下鉄駅を早足で歩いていく人々の、それぞれの人生がインタビューから垣間見えることもこの本の魅力だ。事件によって彼らの人生が一瞬だけ交錯していく様子は、ささやかな感動を読者にもたらすに違いない。

727ページもある非常に分厚い本だが、村上春樹による前書きとあとがき(約70ページ分)とインタビュー(1人分が10ページ程度)×60なので短編集のようにどこからでも読むことができ、話し言葉が主体で読みやすいので、本屋で手に取っても買うのをためらわないでほしい。

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