田中正造という偉大な政治家がいました。足尾銅山鉱毒事件の指導者として知られていますね。この記事では壮絶な彼の生涯と、知っておくべきエピソード、名言、そしておすすめの関連本をご紹介していきます。
田中正造は、言わずと知れた足尾銅山鉱毒事件の解決に走り回った政治家です。1841年、栃木県佐野市に生まれました。父親は名主でしたがそれほど裕福な家庭ではなかったそうで、正造が父の跡を継いで名主になった後に、領主に対し村人たちと政治的要求を行っていたことが原因で、投獄されてしまいます。
正造は直情的で物怖じせず、頑固な性格のため、多くの人から反感を持たれることがありました。殺人事件の濡れ衣を着せられ投獄されたり、反政府運動に関わっているとされたりしました。しかし彼のその性格があったからこそ、足尾銅山鉱毒事件を解決に近づけたという面があるのかもしれません。
1890年、渡良瀬川で洪水があり、上流にあった足尾銅山の鉱毒が流れ出して、たくさんの人が苦しんでいました。同年衆議院議員になった正造は、事件の解決に奔走します。しかし当時は、足尾銅山の鉱毒が人々の健康に害をもたらすとは考えられておらず、政府の上層部は誰も彼の意見を取り合ってくれませんでした。
彼は事件を解決するために、天皇に直訴をしました。警官に取り押さえられて直訴自体は失敗に終わりましたが、この行動は広く世間に知られることになり、大きな社会問題となりました。政府は事件の解決に乗り出さざるを得なくなったのです。
1:領主の家を私物化していた悪人を直訴した
正造が住んでいた小中村の領主、六角家の当主はまだ幼く、林三郎兵衛という人が実質六角家の実権をにぎり、好き勝手なことをしていました。そこで正造は林の解任を六角家に直訴します。しかし、このことが林に知られ、彼は暗殺未遂のすえ10ヶ月もの間投獄されることになりました。
2:若い頃から何度も逮捕、投獄された
20代のころ、現在の秋田県で公務員をしていた正造は、上司を殺害した罪を着せられてしまいます。これは3年後にえん罪と分かりましたが、約10年後には栃木県令だった三島通庸の暗殺に関わったとして逮捕されました。また川俣事件の首謀者とされ、公判中にあくびをしただけで侮辱に当たるとして、裁判にかけられました。
3:土地を売買して大もうけをした
1877年に起きた西南戦争の際、全国で土地の値段が暴落しました。そのとき正造は、値段が下がったものはいつか必ず上がるという単純な考えで、当時は全く価値のない捨てられた土地を買いあさりました。彼の周囲の人はこの無鉄砲な発想にあきれかえっていたそうですが、その後土地の価格は急上昇し、正造は大もうけするのです。彼はこの時得た資金を元手に、政治活動を行いました。
4:死んだときは無一文になっていた
正造の家は名主であり、また彼自身も土地で大金を手に入れましたが、それらは選挙に出るための費用などにすべて使ってしまいました。彼が亡くなった時は無一文で、持ち物も袋1つに収まるほどだったといいます。
しかし彼の葬儀には数万人もの参列者が訪れ、遺骨は栃木、群馬、埼玉の鉱毒で汚染された地域6箇所に分骨されました。
5:迷惑が掛からないようにと妻に離縁状を送っていた
正造は明治天皇に直訴をする際、捕まって処刑されるとその後の妻の人生が台無しになってしまうと考え、離縁状を送っていました。しかし妻は、受け取っていないと主張しています。
結果的にこの直訴は罪に問われず、狂人が天皇の前でよろめいただけ、ということで不問にされました。
6:貯水池となることが決定し、廃村となった鉱毒被害の村に住み続けた
鉱毒被害がひどかった栃木県の谷中村は、貯水池にすることが決定され住民は追い出されていました。しかし正造は村の貯水池化に反対し、最後までそこに住み続けたのです。なお谷中村の住民たちは、北海道などに移住させられました。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし。」
演説などで数々の名言を残した正造ですが、もっとも有名なのがこちらではないでしょうか。
日本は地震をはじめ災害が多い国です。近代化を推し進めていた当時だけでなく、文明と自然の共存という点では現代にも響く重たいものになっています。人の命を奪ってしまうものは、「文明」とは呼べないはずです。
「水は自由に高きより低きに行かんのみ。水は法律理屈の下に屈服せぬ。」
水は自然の摂理どおり、上から下に、高いところから低いところへ流れます。いくら国が法律で屁理屈をこねたとしてもその流れは変わりません。つまり、根本的に問題を解決しないかぎり、汚染された水が流れ続けるということです。
「天の監督を仰がざれば凡人堕落。国民、監督を怠れば、治者盗を為す」
「真人無為而多事」(しんじんむいにして しかして たじ)
この2つは、政治家としての正造がよく表れているのではないでしょうか。それぞれ
「政治家が正義や道徳を無視してしまうと、民衆は墜落してしまう。そうならないために、国民が常に政治家を見張っていなければならない。そうしないと彼らは国民をだまして盗みをしてしまう。」
「真の人は、さりげなく世の不正を見逃さず敢然と戦っており、大変忙しいものだ。」
という意味です。どんなに困難でも闘い続けようとする彼の気概が伝わってきます。
本書は正造の生涯が綴られた伝記で、彼の壮絶な生き様を具体的に知ることができます。
文字通り身体を張り、事件の解決に命がけで闘った男の人生です。
- 著者
- 佐江 衆一
- 出版日
- 1993-12-20
足尾銅山鉱毒事件は明治時代の公害事件ですが、本書では正造自身の環境問題に関する考え方も克明に記されており、それは現代にも通じるものがあります。
ジュニア新書なので読みやすくまとめられています。
足尾銅山鉱毒事件は、田中正造と政府の闘いだということは一般的には知られていますが、鉱毒被害にあった谷中村と政府の闘いも激しく、そして長く続きました。
- 著者
- 城山 三郎
- 出版日
- 1979-05-30
第1部では政府と闘っている正造の心の動きが丁寧にされた伝記です。
そして第2部は、鉱毒被害にあった谷中村の村民たちと政府の闘いにクローズアップしています。彼らは勝ち目のない闘いを強いられ、その後谷中村は廃村になり、タイトルにもあるように弱者のどうしようもない悲しみが表れています。
日本の文明は、山を壊し、川を汚し、森を切り拓いて発展してきました。その一方で福島第一原子力発電所の事故など、その発展にひずみが出ているものもあります。
正造は当時からそのような文明の発展を批判し、極めて先進的な考えを持っていました。
- 著者
- 小松 裕
- 出版日
- 2011-09-09
正造の生きた明治時代は、工業が栄え、国が栄えるためには何をやってでもいいという、非常に傲慢な考え方が主流となっていました。
そんな社会通念のなかで、真の文明とは何か、環境とは何かを考え行動していた彼の偉大さが分かります。
足尾銅山鉱毒事件のために奔走した田中正造と鉱毒の被害者は、毒と共に生き、毒と闘っていました。
栃木出身の小説家、立松和平が、正造と政府との壮絶な闘いを真摯に描きます。
- 著者
- 立松 和平
- 出版日
- 2010-06-10
立松の曾祖父は、足尾銅山の坑夫として働いていました。足尾銅山に縁があったことから書かれたのが本書です。動物の視点から見た正造像が描かれた小説で、違った視点から彼の生き様を知ることができます。
どの本も足尾銅山鉱毒事件の解決に奔走した田中正造の壮絶な生き方を色濃く書いています。直情的でありながら高潔で、身を削ってでも世の中の人々のために社会と闘った偉大な政治家です。史実と彼の生き様を知るのに適した4冊をご紹介しました。