2015年12月25日、当時電通の新入社員だった高橋まつりさんが、社員寮から飛び降りて命を落としました。長時間労働や上司からのハラスメントが原因の若い女性の自殺。衝撃的なこの事件は「働く」ということに関する幅広い議論を呼び起こしました。そのなかで注目を浴びたのが、政府が推進する「働き方改革」です。ここでは、「働き方改革」とは何なのか、なぜ日本では過労死・長時間労働がなくならないのか、そしてこれから私たちはどうやって自分の身を守っていくべきなのか、という点について本を通して考えていきたいと思います。
働き方改革は、政府が少子化の打破を意図して画策したものです。少子化の背景にあるのは、長時間労働や非正規雇用などの労働環境にあると考えられています。そのため、長時間労働を是正し、働きやすい環境を作ることと、正規・非正規雇用の賃金格差を是正し、働く人々が各自の能力を活かすことができるようにすることの2点が必要だと考えられるようになりました。
このうち長時間労働については、先に触れた電通の違法残業事件で脚光を浴びました。しかし、長時間労働による過労死は今日に始まった問題ではなく、むしろ長年にわたって日本各地で起きている深刻な問題です。2008年に起きた、日本マクドナルドの店長の過労死は「名ばかり管理職」という言葉とともに覚えている方も多いのではないでしょうか。
過労死・長時間労働と聞くと、自分からかけ離れた職場を想像するかもしれませんが、死んでしまうその日まで職場はその人にとっての日常で、日本では幾度もくり返されている悲劇なのです。
そんな危うさをすら感じる職場で一生懸命頑張る主人公を描いた漫画としてオススメしたいのが、実写化でも話題を呼んだねむようこの『午前3時の無法地帯』です。
- 著者
- ねむ ようこ
- 出版日
- 2008-12-08
主人公の七瀬ももこが、デザインを仕事にしたくてなんとかありついた今の職場は、なんとパチンコ専門のデザイン会社。「こんなことがやりたかったんじゃない」と思いながらも一生懸命働くうちに、彼女はその仕事の面白さに目覚めます。
実際にブラック企業を経験した著者だからこそ描けるリアルな職場の中で、ももこは恋に仕事に奮闘するのです。
ブラックなデザイン会社を舞台に、登場人物たちがそれぞれの日常を送ります。長時間労働は決して遠い世界で起こっているものではないと感じることができる作品です。
過労死・長時間労働がこんなにも身近にある日本で、働きやすい環境を作るためにはどうしたらよいのでしょうか。その一案として、「働き方改革」では、「高度プロフェッショナル労働制度(通称・残業代ゼロ制度)」が提案されています。
これは、研究開発職やコンサルタントなど特定の専門職で一定の収入(年収約1000万円程度)を得ている場合、時間外・休日・深夜の割増賃金を支払う義務が使用者に課されなくなる、というものです。
従来の時間や場所に拘束された働き方から解放され、ワークライフバランスがとりやすくなるという利点がある一方で、これを定める労働基準法改正案には批判もあります。企業が労働者のことを考えず、利益のためだけにこの法案を利用した場合、いくら残業しても残業代を支払う必要がないので、残業させ放題になってしまうというのです。そのため「残業代ゼロ法案」とも呼ばれています。
これに対応すべく、政府は残業時間の規制を厳しくする法案を提出すると発表しましたが、「高度プロフェッショナル労働制度」と矛盾するとして成立の目途はたっていません。
「働き方改革」の一環として議論される労働基準法改正案は、特定の専門職に就く労働者の働き方が自由になり、ワークライフバランスをとれるようになることを目的としています。では、現在働き方を強制されずに働いている人たちは、どのような生活を送っているのでしょうか。
佐藤ジュンコの『仕事場のちょっと奥までよろしいですか?』は、書店員からイラストレーターになった著者が、「何かをつくる仕事をする方」を取材し、仕事へのこだわりや現在の生活などを描いたイラストルポです。
- 著者
- 佐藤 ジュンコ
- 出版日
- 2017-05-10
この本の取材対象は、小説家や建築家、バーのママやこけし職人など、多岐にわたっています。例えば花火職人や副住職は集団で仕事をすることもあり、意外にも規則正しい生活を送っていることがわかります。これに対し、小説家やグラフィックデザイナーは比較的時間に自由のきく職業です。
例えば本書で紹介されているグラフィックデザイナーの寄藤文平は「決められた時間の通りに行動するのが実は昔から苦手」と言い、「何時に始業で何時に終業ですか」という著者の質問に対しては、きっぱり「まちまちです」と言い切ります。
時には徹夜もするそうですが、彼のような人が「高度プロフェッショナル労働制度」の対象者となれば、制度を思う存分活用できるでしょう。この制度は「脱時間給制」とも呼ばれており、通常の会社勤めのように時間に拘束されることが苦手な人でも、職能に値する給料がもらえるからです。
一方で、小説家の伊坂幸太郎は会社員時代のクセが抜けず、「毎日決まった時間に外へ出るようにしています」と言います。彼には「高度プロフェッショナル労働制度」は特に必要ないと考えることができるでしょう。
この本で扱われている職業は、特殊なものが多く職業も多種多様ですが、だからこそ「高度プロフェッショナル労働制度」の適用される専門職か、定時きっかりに帰れる仕事か、という二者択一ではない様々な働き方を知ることができるのです。
前章でお話ししたような「高度プロフェッショナル労働制度」が実現すれば、プライベートを充実させることができる人々がいるのは確かです。ではなぜ、本制度をはじめとする諸改革は進まないのでしょうか。その理由は、日本の習慣と新制度にギャップがあるからだと言われています。
欧州では「職務給」、つまり「やった仕事に対する給料を支払う」というシステムが一般的で、「働き方改革」もこれを前提にしています。
しかし日本で長年運用されてきたのは「職能給」、つまり「仕事をする能力に応じて給料を支払う」システムです。この「仕事をする能力」といものを、日本では勤務年数で測ってきました。そのため年功序列の給与体系が発達してきたのです。
これから導入されようとしている諸改革は、職能給に慣れ親しんだ特に年配の層からの根強い反対があるとされています。
- 著者
- 重松 清
- 出版日
重松清の『カカシの夏休み』は、教育と家族をテーマに据えた3篇を収録していますが、その中でも表題作の「カカシの夏休み」は中年に差し掛かった教師が家族や仕事のことに悩む様子を詳細に描いています。
バブル後の不況に喘ぐなか、失業をくり返して死に追いこまれたり、会社に拘束される旧友の姿は、日本に根を下ろす「労働」に関する価値観の象徴かのようです。
この本を読むと、たとえ古い価値観だとしても、それがその世代の人々にとってどれだけ重要なものかがわかります。批判を受けても、人が死んでも、古い価値観をなかなか捨てることができないのは、それを信じて生きてきた長い年月があるからなのです。その悲喜を感じることが、これからの改革で世代間の価値観のズレを縮める第1歩となるのではないでしょうか。
最後に、「高度プロフェッショナル労働制度」が法制化されたとして、労働者はどうやって活用していくことができるのでしょうか。前述のようにこの制度は、ともすれば無制限に労働が搾取される可能性も秘めたものです。むろん、法制化にあたって十分に議論が尽くされ、労働者の権利が守られる方向に進めばそれに越したことはありませんが、そうならなかった時のためにも、私たちは自分の身は自分で守れるように学んでいく必要があるのではないでしょうか。
北岡大介の『「働き方改革」まるわかり』はその一助となる本です。ここでは「働き方改革」の中でも労働時間に焦点をあてて解説しており、残業による過労死などについても詳しく解説しています。
- 著者
- 北岡 大介
- 出版日
- 2017-07-26
この本のターゲットは、残業なり労働なりを命じる立場にある使用者、上司なので、それを逆手に取って相手の意図を知ることもできます。
また「働き方改革」で変化した部分だけでなく、以前から問題になっていた労働時間の定義や労働基準監督署の動きなどを具体例をもとに学べるので、労働への実感が薄い学生にも親切なつくりになっているのです。体系的に「働き方改革」を学ぶ入門的な教科書として使えるのではないでしょうか。
「働き方改革」はまだ実際に幅広い企業に影響を与えているとは言えませんが、今後法整備が進めば私たちの働き方に大きな影響を与えることに間違いはありません。くり返される悲しい事件を防ぐことは、自分ひとりの力では難しいにしても、自分と半径3メートル内にいる人を守るために、前述の本を読んで働くことについて1度しっかり考えてみてはいかがでしょうか。