マリア・テレジアをよく知れる本4選!名門ハプスブルク家唯一の女帝。

更新:2021.11.9

女帝としてハプスブルク家を率いたマリア・テレジア。国家を近代化に導いた彼女の人生をおすすめの本とともに紹介します。

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家族と国を愛した国母、マリア・テレジア

マリア・テレジアはハプスブルク家のローマ皇帝カール6世の長女として、1717年5月13日に生を受けました。そして、1736年、ロートリンゲン公の次男であるフランツ・シュテファンと結婚します。

彼女の兄が夭逝してから、カール6世には男の子ができず、皇帝はオーストリア、ボヘミア、ハンガリーなど、ハプスブルク家世襲領はマリア・テレジアに相続させることを国内と各国に認めさせます。また、女子が皇帝になることはできなかったので、彼女の夫フランツ・シュテファンが帝位につくこととしました。

しかし、カール6世の死後、周辺諸国は娘の相続を認めずに領土を分割しようと攻め込んできます。これが1740年から1748年に起きたオーストリア継承戦争です。とくにプロイセンのフリードリヒ2世に、重要な州であるシュレージエンを奪われたことは大きな痛手でした。

わずか23歳で女王となった彼女は、積極的に国内の改革を進めるとともに、外からの干渉に勇敢に立ち向かいます。しかし劣勢で、東方のハンガリーに救いを求めました。そして1741年6月25日、ハンガリー女王として即位します。このときからハンガリーは後世までオーストリア軍の主力となりました。

その後ボヘミア女王としても戴冠するなど、諸国の侵攻に屈せず戦い、1745年には夫フランツ・シュテファンを帝位につけることに成功します。そして1748年、戦争は終結しました。彼女のハプスブルク家相続は承認されましたが、シュレージエンはプロイセンに割譲することが決まったのです。

戦後、彼女はシュレージエンを奪還する目的で内政改革や軍改革を行いました。外交面では、カウニッツを登用し、抗争が続いていたフランスと同盟を結んで、ロシア帝国のエリザヴェータ女帝とも接近し、プロイセン包囲網を作ります。

そして、1756年、のちに七年戦争と呼ばれるプロイセンとの戦いが始まりました。フランスやロシアの同盟を得たオーストリアはプロイセンを追い詰めていきます。しかし、1762年エリザヴェータ女帝が崩御したことからロシアが戦線離脱、翌年、オーストリアは負けてしまいました。マリア・テレジアは念願だったシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなります。

しかし、この戦争のあいだにオーストリアは前近代的な国家から脱皮し、建国史上かつてなかった近代的中央集権国家となったのです。

戦後、夫フランツが崩御し、長男のヨーゼフ2世が帝位についてからも、マリア・テレジアによる国内改革は進められました。その急進的な改革姿勢から、ヨーゼフ2世としばしば意見が対立したといわれています。

そして夫の死から15年後の1780年、彼女は散歩の後に高熱を発し、約2週間後の11月29日に、家族に囲まれながら世を去りました。63年、女帝として駆け抜けた人生でした。

マリア・テレジアにまつわる逸話9つ!

1.夫とは恋愛結婚だった

マリア・テレジアと、夫となるフランツ・シュテファンは、当時の王侯たちとしては奇跡的ともいえる恋愛結婚でした。2人が初めて会ったのは彼女が6歳、フランツ15歳のときです。無邪気で快活なフランツは皇帝をはじめ一家の人々からすっかり気に入られ、マリア・テレジアも彼の虜になりました。まだ幼い彼女はひとえにフランツへの想いを募らせていったのです。12歳のころから、夜は彼のことを夢み、昼はずっと侍女たちに彼にまつわる話を聞かせていたといいます。

フランツも初めて対面した時からマリア・テレジアにひきつけられ、故郷であるロートリンゲンの君主の座を手放してまで、彼女との結婚を決めました。そして、2人は生涯愛を貫いたのです。

2.即位直後から仕事熱心だった

彼女の父、カール6世は彼女に政治のことは教えてきませんでした。婿のフランツに委任するつもりだったようです。しかし、フランツは好人物でしたが政治の機微にはあまり通じておらず、皇帝に即位してからも重要な決定はほとんどマリア・テレジアが下すことになります。

従来までの皇帝たちは、日中はたいてい狩猟に出かけ、夜は舞踏会や宴会ですごし、会議に出席することはめったにありませんでした。しかし、若くして即位したマリア・テレジアは、側近たちに教えを請いながら熱心に公務に励んだのです。朝は5時に起き、夜遅くまで書類に目を通し、閣議では率先して議事を進める、若き女王。

これには、それまで怠けていた宮廷人たちも心を入れ替えざるを得ませんでした。

3.カトリックの守護者としてユダヤ人には容赦がなかった 

女王となってからあらゆる事柄に柔軟に対処した彼女でしたが、宗教に関してはあくまでカトリック守護の立場を貫きました。

1743年、マリア・テレジアはボヘミアの首都プラハで戴冠式を行います。ボヘミア貴族たちはその2年前に彼女を裏切り、バイエルン選帝侯を迎え入れた過去がありました。そのことに彼女は激怒していましたが、厳罰を与えることはせず、裏切りのごくわずかの首謀者を国外へ追放しただけで許したのです。

しかし、バイエルン選帝侯のために大金を用立てたユダヤ人だけは許さず、プラハのゲットー(ユダヤ人地区)から追放してしまいました。金銭感覚の優れたユダヤ人がいなくなったことにより、プラハは財政が悪化し、庶民の生活は苦しくなります。のちに女王はこの処置を撤回せざるをえなくなりました。

4.彼女の才能は敵にまで賞賛された 

マリア・テレジアからシュレージエンを奪った張本人であるプロイセンのフリードリヒ王は、小娘と思っていた彼女が、精神力、判断力、決断力のどれをとっても、いかなる君主にも見劣りしないことを認め、以下のように評価していたようです。

「今のハプスブルク家では、稀にみる男性が統治している。ところがこの男性というのが、女性なのだ」

5.シェーンブルン宮殿を作った

オーストリア継承戦争真っ最中の1743年から1748年にかけて、彼女はウィーンの郊外にあるシェーンブルンに宮殿を作ります。子どもたちの数も増え、ウィーン市内の王宮が手狭になったので快適な居住空間となる新宮殿を作りたいと願ったのです。 

戦争に勝つために高価な装身具や馬具も売却し、節約に節約を重ねていた時期に彼女が唯一行ったぜいたくが、このシェーンブルンの造営でした。 白鳥が羽を広げたように優美でのびやかな宮殿はハプスブルク家の楽しい生活の場となりました。この宮殿の鏡の間で幼いモーツァルトが彼女の前でピアノを弾いたこともよく知られています。 

6.義務教育を確立させた

晩年のマリア・テレジアの業績でひときわ光るのは、ハプスブルク帝国の全領域に小学校を新設したことです。それまで教育といえば、貴族の子弟か裕福な市民の息子が修道僧や家庭教師から、個人的に哲学や宗教などを教えられるくらいでした。

もっと基礎的なことを誰もが学べる制度をつくり、国家から文盲をなくしたいと考えた彼女は帝国全土に均一の小学校を新設し、国民は子弟を必ず通わせるべしという制度を確立しました。これは、この時代には驚異的なことだったのです。 

7.彼女は16人の子を産んだ

彼女は初めてマリア・エリーザベトを産んでから、最後の子マクシミリアン・フランツを産み終えるまで、20年に満たないうちに16人の子を産みました。オーストリア継承戦争の最大の原因が父帝に嫡男がいなかったことであると痛感していたので、子作りに励んだのです。 

16人の子どものうち、長く生きたのは10人でした。それぞれ皇帝になったり、領主になったり、恋愛結婚をしたり、政略結婚をしたり、聖職者になったりと、バラエティに富んだ人生を送っています。

なかでも末娘のマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)が有名です。フランスのルイ16世に嫁ぎ、のちにギロチンの露と消える彼女に、マリア・テレジアは亡くなるまでほぼ11年にわたり手紙を送り続け、自由奔放な娘を諭しています。

彼女は子どもたちにとって優しい母であると同時に、厳しい教育者でもあったのです。 

 

 

8.夫の死後、喪服だけをまとって暮らした
 

彼女は夫に先立たれた後、すっかり生気を失ってしまいます。豊かな髪を切り、寝室の壁を灰色の絹で覆い、カーテンも灰色に取り替えました。色彩鮮やかな衣服も親しい人々に分け与え、自分は決して喪服を脱ぐことはなかったのです。そして、ひたすらフランツを思い、しばしば夫の墓所にこもって、亡きフランツと対話を続けたのでした。 
 

9.ローマ皇帝に即位したことはない 

彼女は女帝といわれていますが、実際にローマ皇帝に即位してはいません。あくまでも皇帝の妃です。政治の実権は彼女が握っていましたが、神聖ローマ帝国の定めによれば、女性は皇帝になることはできませんでした。

皇帝に選ばれた夫フランツが、女帝として共に戴冠式に臨んでもらいたいと説得しますが、どうしても応じようとしません。戴冠式では夫だけが晴れ舞台に臨み、自分はあくまでも控えでいたいと希望したのでした。 

ただ、フランツ1世の戴冠式以後は、彼女は女帝の名で呼ばれるのが慣例になり、彼女自身もそう呼ばれるのを好みました。ハンガリー女王でもある彼女は、公式的に「女帝にして女王」を名乗り始めるのです。

 

 

妻として、母として、女帝として、生き抜いた女性の物語

夫を愛し、子どもを愛し、国を愛した、国母マリア・テレジアの美しくも波乱に満ちた生涯を描きます。

著者
江村 洋
出版日
2013-09-06

マリア・テレジアの誕生から、結婚、政治への関わり、家族関係、外交関係など、多岐にわたり彼女の一生を追っています。彼女自身や彼女を取り巻く人たちの心情も描かれていて、想像しやすく、読みやすいです。彼女の人生について知りたい方は、まずこの本を読まれることをおすすめします。

母と娘の往復書簡

1770年、マリー・アントワネットがフランス国王ルイ15世(のちのルイ16世)に嫁いでから、1780年マリア・テレジアが亡くなるまで、母と娘の間で交わされた書簡集です。

著者
パウル・クリストフ
出版日
2002-09-26

母と娘ともに壮絶な人生を歩んだ親子が実際にやり取りした手紙です。彼女たちをとりまく状況、変わらぬ家族の愛、当時の文化などがまざまざと浮かびあがります。

母から娘へ長い指導が入ったり、冗談を言い合ったり、妊娠を待ち望む母に、娘が月の障りがあったと残念そうに報告するなど、プライベートな手紙だからこそ感じられる彼女たちの体温をぜひ感じてください。

膨大な資料から読み解く近代ハプスブルクの歴史

マリア・テレジア、ヨーゼフ2世による啓蒙主義改革から、君主国が崩壊する第一次世界大戦までの約150年を膨大な資料をもとに俯瞰した、概説書です。

著者
ロビン・オーキー
出版日
2010-04-02

本著がマリア・テレジアから始まっているのは、彼女の啓蒙主義改革によってハプスブルク王朝が近代国家の道を歩みはじめたからで、別の見方をすれば、そこから王朝の終焉が始まっているともいえます。

第一次世界大戦は、ハプスブルクの時期君主が銃弾に倒れたサラエヴォ事件がきっかけです。そこにいたるまでのハプスブルク家を中心としたヨーロッパの社会情勢を細かく解説していて、より深くヨーロッパ史について学びたい方におすすめです。

ヨーロッパきっての名門王朝の歴史を探る

13世紀から20世紀初頭までの約700年間にわたりヨーロッパの政治、文化に関わり続けてきたハプスブルク王朝の歴史をひもときます。

著者
江村 洋
出版日
1990-08-10

ハプスブルクの長い歴史の中で、主に、マクシミリアン1世、カール5世、マリア・テレジア、フランツ・ヨーゼフの4人を中心に据え、エピソードを語っています。

結婚政策で勢力を保ち続けた名門王朝の歴史はヨーロッパ史につながり、現代の問題にも深い関わりがあると気付かせてくれる1冊です。ハプスブルク家の歴史の概要を知りたい方におすすめします。

家族を愛する1人の女性であることと、国を繁栄させる女帝であることを両立させたマリア・テレジアは、まさしく究極のワーク・ライフバランス体現者といえるのではないでしょうか。ぜひ、彼女の人生にふれてみてください。

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