2016リオオリンピック・パラリンピックに盛り上がった今年の夏。観戦しているうちに、道具を駆使した競技を行う選手の身体が、道具と身体が融合しているような錯覚に陥りました。そして、アメリカの学者ダナ・ハラウェイが1991年に『サイボーグ宣言』という論文において、「すでに現代人はキメラ(=サイボーグ)になってしまった」という命題をふと思い出しました。選手たちだけではなく、我々ももはや機械と生体のハイブリット(例えばスマホの使用)となっている今、改めて「身体」について考えてみる本を3冊ご紹介します。
「体のなかで“戦争”がはじまっている。
“劇場都市”から“電子都市”へ。大気中に張りめぐらされたメディアのヴェールは、人間の生活環境から生態系にいたる地球規模の広がりを獲得している。メディア・スーツに包まれた我々の身体は、有機体から逸脱しはじめ、新しい身体へと“進化”をとげつつある。」(本書カバーより)
- 著者
- 伊藤 俊治
- 出版日
20世紀の美術作品に焦点を当てた本書は、その時代の作品から「(人間)身体への違和感」という共通項を見出し、全12章に渡って一つずつ丁寧に論じられています。前述したセンセーショナルなアオリから想像する期待を裏切ることのない内容となっています。
「未来の身体」と言うと、なんとなくサイバーパンクの世界に登場するような身体を想像する人が多いのではないでしょうか。サイバーパンクの代名詞的作品であるウィリアム・ギブスンの小説『ニューロマンサー』はこの本と同時期に翻訳・出版されたので、言うなればサイバーパンク以前(直前)の未来的身体をまとめた本と言っても差し支えないかと思います。
「(中略)それまでまったく無縁と見えた人間と非人間が、人類と幻獣類が、想像を絶するかたちで奇妙に惹かれ合い、情緒的にも生理的にも共鳴し合うところから新しい身体性がもたらされる。カオス的身体とでも呼ぶべき未来が見えてくるのは、その時である。」(16ページ)
- 著者
- 巽 孝之 (監修)
- 出版日
次に、美術だけではなく、幅広い分野から未来の身体を考えてみましょう。本書は、20世紀も終わりに近づいた1998年に出版されたものです。「歴史と進化」「異種発生」「変態する主体」「モードの複雑系」「日本の身体を綴じ直す」の全5部構成となっており、21世紀になった今でも非常に興味をそそる論がまとめられています。こちらでは、身体がどのように眼差されてきたのか、そしてどのような変化が起こっているのかについて各領域から見た「身体」について知ることができます。
当たり前と言っては当たり前ですが、「身体」と一口に言っても、国や人種ももちろんのこと、年代によっても様々な身体観があります。また、領域によっても異なります。なんとなく頭ではわかっていても、うっかり忘れがちなその前提にメスを入れてくれる、大変刺激的な1冊です。
「人間というのは、したたかなものである。どんな危難と遭遇しても、人間というのは生きてゆく。そして、人間が生きてゆく限り、人間の哲理というものも生きてゆく。要は、科学の自走という現実の前に斃れてゆく人間の哲理があるとしたら、その屍を乗り越えて、より強靭な、あたらしい哲理を作り上げてゆくだけのことだ。」(204〜205ページ)
- 著者
- 原 克
- 出版日
- 2010-08-20
『新世紀エヴァンゲリオン』の「人類補完計画」を意識して付けられた本書は、イントロダクションのところでも紹介したダナ・ハラウェイの「サイボーグ宣言」について触れたのち、義手や義足といった人工装具、生体摘出手術や臓器移植、人工臓器といった身体を補完する科学的試みの系譜が20世紀を通じて繰り返されてきたことを指摘し、そこからみえる「サイボーグ表象」について論じています。
この「補完」という言葉は、「ある状態を補って完全なる状態にする手立て、あるいは復旧する手立て」(292ページ)を意味します。つまり、何かが欠損している状態を補うことで完全になるのです。しかし、「完全」とは一体どの程度を指し示すのでしょうか。実は「完全」、「完璧」な状態というのは非常に曖昧であることに気付かされるのです。
上記の2冊を経由し本書にたどり着く頃には、「身体」というものがいかに変容しているかがわかってきます。そして、もはや我々はサイボーグ的身体に近づきつつあることに、はっとさせられるのです。
今回は少々専門的な書籍の紹介となってしまいましたが、どれも図像が多いので比較的触れやすいかと思います。とりわけSF好きな方や読書の秋にSF小説を読もうとしている方は、1冊でも触れておくとより楽しめるかもしれません。お試しあれ!