阿久悠のおすすめ本5選!名曲の作詞を多く手掛けた作家

更新:2021.11.9

生涯で作詞した曲は5000曲以上、時代を彩る数々の名曲を世に送りだした作詞家・阿久悠。彼はまた、エッセーや小説など、作家としても精力的に言葉を紡いできました。ここではその中から、おすすめの本を5冊紹介します。

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稀代の作詞家にして作家。生涯「言葉の人」だった阿久悠

阿久悠は1937年、兵庫県・淡路島で生まれました。本名は深田公之。「悪友」をもじった「阿久悠」をペンネームにつかうのは、大学卒業後、広告代理店で働きながら、放送作家との二足のわらじの生活を送るようになってから。会社にバレないようにというのが理由でした。

実質的な作詞家デビューは1967年、30歳のときです。曲はGSブームにのって登場した、モップスの「朝まで待てない」。当時主流だった少女コミック的な世界観とは対極の、若者の絶望感を描いた鮮烈な歌詞で作詞家としての一歩を踏みだしました。

その後はまさに怪物的ともいえる快進撃をみせます。「また逢う日まで」「UFO」「どうにもとまらない」「津軽海峡・冬景色」「あの鐘を鳴らすのはあなた」などヒット曲を連発。日本レコード大賞・大賞を5度受賞し、紅白歌合戦では2年連続で9人(組)の歌手が彼の詞を歌ったこともありました。

しかし彼の凄さは「数」だけではありません。14歳で男を知り、19歳で男を殺した少女の、救いのない人生を辿った「ざんげの値打ちもない」。おもちゃ箱をひっくり返したような奇想天外な言葉が並ぶ「ピンポンパン体操」。そんな歌謡曲のタブーを打ち破る歌詞を次々と生みだしていったのです。

作詞以外にも、テレビ、ラジオ番組の企画構成や、小説、エッセーの執筆など「言葉」にかかわる幅広いジャンルで活躍。2007年に逝去するまで、「言葉の人」としてパワフルに駆け抜けた生涯でした。

阿久悠が失われゆく「日本人らしさ」に捧げた9つの詩

2006年春、阿久悠は、雑誌『暮らしの手帖』編集部から詩の連載依頼を受けます。暗いニュースが続く毎日、わたしたちの暮らしの灯りとなるような詩を、という依頼に応え、彼はその連載タイトルに「日本人らしい人」と名づけました。

「少年が憧れたおとなの男」「窓辺で本を読む親」「毎日が正装の先生」。それぞれの詩に登場するのは、そんな現代の日本ではめったに出会えなくなった大人たちの姿です。

著者
阿久 悠
出版日

この本には、詩のほかにも、同様のテーマで書かれたエッセイが収められています。そこで阿久悠は、むやみに子どもを叱るのが親ではない、日々の暮らしのなかで見本となる立ち居振る舞いをしめすのが親の本来の役目だ、というようなことを語っています。

作者の死によって、連載はわずか9回で終了してしまいました。しかし、その詩一つひとつに、作詞家として時代をみつめ続けてきた阿久悠の、「けじめ」や「凛」といった「日本人らしさ」への愛惜の念を感じることができます。

阿久悠のもうひとつのライフワーク

高校野球の大ファンだった阿久悠。ヒットメーカーとしてどんなに忙しくても、甲子園大会の期間中だけは作詞の仕事をストップし、テレビの前でスコアブックをつけながら、全試合観戦していたといわれています。

そんな彼が、1979年から2006年まで、「スポーツニッポン」に連載していた高校野球の観戦記が「甲子園の詩」でした。

著者
阿久悠
出版日
2013-07-27

ただし、それはただの観戦記ではありませんでした。彼は毎日、自分の胸を熱くふるわせてくれた選手たちに捧げるように、「詩」を寄せていたのです。

「出しつくしてしまうということは 尊い勲章なのだ 時には勝利より光ることがあり 出しそびれたままに 敗れたことと比べると 百倍の価値を持つ きみたちが甲子園を去る時の あのどよめきを聞いたか 甲子園は敗者が好きなわけじゃない 熱い心をいっぱいばらまいて 完全燃焼で去る若者たちを 尊敬し拍手を贈るのだ」(『完全版 甲子園の詩』より引用)

その詩には、PL学園の桑田・清原、星稜高校の松井、横浜高校の松坂ら、甲子園を沸かせたヒーローたちも登場します。しかし阿久悠の眼差しは、むしろ無名のまま敗れていった選手たちに熱く注がれていました。

その数、363篇。直筆の詩を額に入れて体育館に飾った学校や、石に刻んで歌碑にした学校もあったそうです。そして最後に詩が捧げられた試合は、2006年の第88回大会で斎藤祐樹と田中将大が投げ合った、早稲田実業と駒大苫小牧の決勝戦再試合でした。

途中、入院による中断はあったものの、死の前年まで37年間にわたって続けられたこの仕事は、彼のもうひとつのライフワークだったといえるでしょう。高校野球ファンはもちろん、作詞家としての阿久悠しか知らない方にも手にとっていいただきたい一冊です。

稀代のヒットメーカー阿久悠のクリエイティブ指南書

なぜ阿久悠はあれほどの数のヒット曲を、人々の心に残る歌詞をうみだすことができたのでしょうか?誰もが思うそんな疑問に、本人みずから答えてくれるのがこの本です。

依頼の時点で決まっているのは歌手だけ。そこからどのように歌詞のテーマを決め、どのような手法で表現していくのか、「また逢う日まで」や「ざんげの値打ちもない」など、自作を例にとりながら明らかにしてゆきます。

著者
阿久 悠
出版日
2009-09-16

この本を読むと、広告代理店出身の阿久悠が、いかに広告的な手法で歌詞を書いていたのかがわかります。歌詞を書く前にデータ収集やリサーチ、対象(ターゲット)選定をするのは当然のこと。彼はそんな自分の歌詞のつくり方を、「時代の飢餓感に向かってボールを投げる」という言い方で表現しています。

「『言われてみてはじめてわかりました』とか、『わたしも実はそうだったのよ』という、死角に入っていた心のうめき、寒さ、これがつまり時代の飢餓感です。(中略)この見えない飢餓にボールをぶっつけて、ああ、それそれといわせるのが歌なんですよ」(『作詞入門』より引用)

この本にはほかにも、引き出しをふやすためのトレーニングや、時代を捉える目つきを鋭くするトレーニング、イメージを豊かにするためのトレーニングなど、ヒットメーカーに欠かせない資質を鍛えるためのアドバイスが詳しく具体的に紹介されています。

稀代の大ヒット作詞家による創作指南書。タイトルは『作詞入門』ですが、作詞だけでなく、文章や広告など、プロとしてクリエイティブな仕事をしていきたいと考えている方は必読といえるでしょう。

一時代を築いた男・阿久悠による熱きドキュメント

1971年にスタートし、1983年に幕を閉じるまで、桜田淳子、山口百恵、ピンクレディー、小泉今日子ら、数々のスーパーアイドルをうみだし、社会現象まで巻き起こした怪物番組「スター誕生!」。

その番組に企画から出演まで、本人の言葉を借りるなら、誰よりも情熱と愛情を持ってかかわっていたのが阿久悠でした。彼にとって「スター誕生!」は、ただの番組を越えた、芸能界に対する「革命」のようなものだったのです。

著者
阿久 悠
出版日
2007-12-06

「テレビの時代の、テレビの感性における歌や歌手やタレントの必要性は切実で、それは、茶の間の空気の中で、ごく自然に振舞える個性であった」(『夢を食った男たち』より引用)

時は大阪万博の翌年。1970年を戦後日本の分岐点と考えていた阿久悠は、本格的にはじまるテレビの時代に向けて、旧態依然とした芸能界に変革を企てようとしていました。そこで何より必要としたのが、今までにない新鮮な感覚をもったスターの卵との出会いだったのです。

なかば予想しつつも、あまりの酷さに落胆した第一回目の収録、やがて救世主のようにあらわれた一人の少女、毎夜赤坂の世界一高いレストランで開かれた関係者との会議……。彼が当時を振り返って綴ったこの本には、時代をつくった人間たちの姿と巨大な番組の裏側が、熱を帯びた筆致で、生々しく描かれています。

阿久悠が遺した日本人への最後のメッセージ

阿久悠が産経新聞で連載していたコラム『阿久悠 書く言う』をまとめた一冊です。発行は2007年、彼が亡くなった年でした。

家族論、教育論、人生論などテーマは多岐にわたるものの、ここで彼が一貫して訴えているのは、「日本人の言葉への感性の低下」に対する危機感です。

著者
阿久 悠
出版日

政治家はボキャブラリーも表現力もお粗末で、大人の会話も幼稚で下品な擬音だらけ、若者のメールやブログはフニャフニャの幼児言語。世の中には「緊張と恐れ」のない言葉があふれ、かつて日常では滅多に使われることのなかった「価値観」という言葉は安売りされ、「イケメン」や「セレブ」と呼ばれる人間たちも一切幸せそうにみえない……と嘆く阿久悠。
 

そしてこの言葉に対する感性の低下こそが、人々から「常識」と「心」を奪い、他人を簡単に刺したり殺したり、重箱の隅をつついて暴力的なまでの完璧主義で裁いたりする世の中につながるのだ、と警告するのです。

ここに述べられた警句は、時を経てもと色褪せていないといえるでしょう。生涯「言葉の人」だった阿久悠が最期に遺したメッセージ。今こそ耳を傾けてみるべきかもしれません。

どの本も歌詞に劣らず深く印象に残るものばかり。ぜひ彼が作詞した曲を聴きながら読んでみてください!

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