映画監督森達也氏がこれまでに撮ってきた作品のテーマを軸に、平成史を振り返った『FAKEな平成史』。今回は本書の中から映画『FAKE』について語られた章をピックアップしてご紹介しようと思います。
2016年に公開された『FAKE』という傑作ドキュメンタリー映画をご存じでしょうか?
観たことがないという方は、レンタルでもいいのでぜひ観ていただきたいです。2016年公開のドキュメンタリー映画の中ではトップクラスに面白いですし、個人的にはオールタイムベストドキュメンタリー映画と言っても過言ではない作品です。
『FAKE』は佐村河内守夫妻を撮ったドキュメンタリーですが、佐村河内守と言われてピンときますでしょうか?
佐村河内守氏はかつて「現代のベートーヴェン」と呼ばれた音楽家です。2014年には「ゴーストライター問題」(映画『FAKE』では「共作を黙っていた問題」と語られている)がメディアに大きく取り上げられました。この記事を書いている時点から考えると、3年半以上前のことになります。日常的に、佐村河内氏のことを思い出す人は多くないでしょう。
『FAKE』という映画をスリリングなものにしているのは、佐村河内氏の言葉のどこまでが本当でどこまでが嘘かというところなのですが、その点に関してはっきりとした回答が示されることはありません。なぜなら原理的に不可能だからです。
映画、本、テレビ番組などは、必ず編集の手が入ります。編集の手が入るということは、黒を白にすることも、白を黒にすることもできてしまいます。
映画内では、コミュニケーションに不自由する佐村河内氏が撮られていますが、意地の悪い想像をすると、カメラを止めた後に、監督の森達也氏と佐村河内氏がニヤリと笑いあっているなんてこともありえるわけです。
では、映画『FAKE』は何を映し出したのかと言うと、メディアの暴力と編集の暴力です。そのことについて『FAKEな平成史』では、森達也氏による報道キャスター長野智子氏へのインタビューを通じて言及しています。
情報は明確であることが求められる。曖昧な情報など価値がない。多くの人はそう思う。でも実際には、事象や現象の多くには曖昧な領域がたくさんある。だから記者やディレクターはそこには触れない。わかるところだけ切り取って表出する。つまり切り下げだ。端数を削って全体をわかりやすくする。事例として決して多くはないが、端数を足してゼロコンマ以下の数字を切り上げることもある。これが時としてヤラセなどと呼ばれることになる。こうした四捨五入、特に(切り上げはともかく)切り下げは、情報をわかりやすくパッケージ化する過程においては、ごく当たり前の作業だ。
(『FAKEな平成史』より引用)
100%の嘘つきも100%の正直者も、どちらもいないでしょう。たとえば、生涯で1度しか嘘をついたことがない人はかなり正直な部類に入ると思いますが、その1回をマスメディアで報道されてしまえば、嘘つきというレッテルを貼られてしまうことになります。
『FAKEな平成史』でも触れられていますが、映画『FAKE』にはメディアの暴力を示す印象的なシーンがあります。某テレビ局の社員が佐村河内宅に年末特番の出演依頼をしに来るシーンです。佐村河内氏をいじるのではなく、今後の活動に繋がるような番組にするからという依頼でした。佐村河内氏が依頼を断ると、結果的に、番組は佐村河内氏をネタにするような内容になりました。
これを観た森達也氏は「出演していれば変わったかもしれない。あの人たちは、信念とか思いで動いているのではなく、どうやったら面白くなるかと考えて動いているのだから」と話していました。
『FAKEな平成史』では、大手テレビ局が上場したことにより市場原理の影響を強く受けるようになったためだという分析がなされています。
- 著者
- 森 達也
- 出版日
- 2017-09-22
『FAKE』および『FAKEな平成史』で語られたメディアの暴力がなくなることはないでしょう。ただ一方で、森達也氏は希望についても語っています。
「メディアが変われば社会は変わります。ならば市場も変わるわけです。そういう意味では、僕はまだ完全に絶望していません」
(『FAKEな平成史』より引用)
メディアが社会を映す鏡だということはよく言われることです。メディアが劣化しているのは社会が劣化しているから、社会が求めるものをメディアは提供しているに過ぎないなど。
社会が変わればメディアも変わります。逆にメディアが変われば社会も変わります。これはひとつの希望と言えるでしょう。
……と終わらせてもそこそこ綺麗なまとまり方ではありますが、実は上記の引用には編集の暴力が働いています。
上掲の引用の直後は以下のように続いています。
思わずそう言ってから、自分の言動の矛盾に気づく。さっきは絶望していると言ったのに、気づけば長野のペースなのかもしれない。
(『FAKEな平成史』より引用)
この文章があるのとないとのでは、森達也氏の言葉の印象がかなり変わるでしょう。こういった、小数点以下の迷いを切り捨てて、編集者は日々わかりやすく情報をパッケージングしているのです。
それは編集者の重要な仕事ではありますが、メディアの暴力と編集の暴力に関して、自覚的でありたいと、本書を読んで改めて自戒をした次第です。