山内一豊の意外と知らない5つの逸話!下級武士から土佐一国の大名となった男

更新:2021.11.9

天下人である信長、秀吉、家康の3人に仕え、やがては土佐の大名にまでなった山内一豊は、妻である千代の内助の功もあり、大出世をとげた戦国大名です。現代のサラリーマンに共通するところがあり、特に中間管理職の姿にたとえられることが多い人物です。

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凡人だけどただの凡人ではない。山内一豊という生き方

山内一豊は1545年に生まれ、戦国時代から江戸時代前期までを生きた武将です。

子供の頃に父と兄が立て続けに亡くなって山内家は離散したため、早くも流浪の身となりましたが、幾人かの武将に仕え、織田信長の配下に入ります。

いくつかの戦の功績が認められて豊臣秀吉に仕えるようになり、小大名になりました。波瀾万丈な時代を乗り越え、秀吉が亡くなってからは徳川家康につき、関ヶ原にも出陣。やがては土佐の大名にまで登りつめました。

乱世とはいえ、単純に武勇に長けていただけでは3人の天下人に仕えることはできなかったと思われます。そこには、一豊の立身出世の秘策と、妻である千代の内助の功が大きく関わっていました。

一豊は土佐の大名になって高知城を築きますが、領主になってからわずか2年でこの世を去ってしまいます。

戦国時代に死なずに生き抜くことを心情にしていたり、後継ぎに困っても側室は持たなかったりと、当時の武将としては一風変わった道を歩んだ一豊。それでは、そんな彼の生き方を少し探ってみましょう。

山内一豊にまつわる5つの逸話!

1:刀禰坂の戦いでの武勇伝 

秀吉側として参戦した「刀禰坂の戦い」で一豊は、顔に矢が突き刺さっても戦い、敵の武将を討ち取りました。その突き刺さった矢は、家臣の五藤為浄という者が一豊の顔を踏みつけながら抜いたとされていて、現在は高知県の歴史民俗資料館に保管されています。

2:あの高知名物のきっかけを作った?

高知城の城下町の整備の際、食中毒を心配した一豊は鰹を刺身で食べることを禁止し、焼いて食べるようにお触れを出しました。領民はこれに納得がいかず、鰹の表面だけをあぶって刺身じゃないとして食べたそうです。これが、いまや高知の名物になっている鰹のタタキのルーツだといわれています。

3:影武者5人を連れて築城視察

高知城の築城の際に、一豊は同装束の影武者を5人も連れて視察していました。これは当時としても異例の人数ですが、長宗我部氏との対立がまだ収まっていなかった頃なので、かなりの警戒態勢だったと思われます。

一豊と影武者5人を合わせて「同装束六人衆」と呼ばれていました。

4:生涯において側室はつくらなかった

一豊と千代の間に後継ぎは生まれませんでしたが、それでも一豊は側室を持つことをしませんでした。お家断絶の危機でしたが、弟の康豊の子供である忠義を養子に迎えて、後継者にします。

5:時には他人の策も拝借!小山評定の決断

関ヶ原の戦いの直前、石田三成の挙兵にともない、家康は兵を下野国小山に集めます。三成側に付きたいものは咎めはしないという話をする家康に、兵たちは戸惑いを隠せません。

秀吉に仕えていた福島正則が、1番に家康に味方をすると宣言をしますが、一豊は自分の城である掛川城と領地を家康に差し出すと宣言して周りを圧倒します。それを聞いた他の大名たちも、慌てて自分の領地を差し出すと言いました。

しかし実はこれ、堀尾忠氏の策でした。忠氏からあらかじめ話を聞いていた一豊が、先に家康に言ってしまったのです。

家康は大喜びで一豊を高評価します。関ヶ原ではほとんど活躍しなかったといわれる一豊が、土佐大名になったひとつの理由だといわれています。

山内一豊の妻、策士だった千代の逸話

妻の千代は、一豊にとって最高の戦略家でした。ここでは有名なエピソードを2つご紹介します。

1:これぞ内助の功!千代の貯蓄で名馬購入 

織田家の馬揃えのために馬を探していた一豊は、10万両の鏡栗毛の名馬に出会います。その話を聞いた千代は即座に、貯めていた嫁入りの持参金を馬を買う費用にと、一豊に渡しました。

名馬を買った一豊は信長から、織田勢の者がこれほどの名馬を買ったことで、自分の面子も保てたとして喜ばれ、褒美をもらったという逸話が残っています。

夫の面子をたてた千代のエピソードは、あるべき女性の姿として、第二次世界大戦後は教科書にも載っていました。

2:笠の緒文で夫に策を伝授!

関ヶ原の戦いの少し前、大坂城より一豊宛てに文箱が届きます。一豊は家康と共に会津にいたため、千代は使者に文箱を届けさせますが、その時自らも手紙を2通を書き、1通は文箱に、1通は使者の笠の緒に隠して持たせした。

一豊は笠の緒の手紙を先に読み、文箱は開けずに家康に渡します。大坂城からの書状は家康に加担しないように書かれた内容であり、千代が記した未開封の手紙は家康に味方するように書いてある手紙でした。

千代は大坂城の手紙の内容を察して、これとは別に一豊に笠の緒文という形で秘密のメッセージを送ったのです。恐らく、この手紙は読んだら処分して、文箱は開けないでそのまま家康に渡すよう書かれた文面だと思われます。

未開封のまま渡すことで、家康にすべてを任せ忠誠を誓うという意味ですが、渡された家康はとても喜び、一豊への信頼を高めることになりました。

大出世は本当じゃない!山内一豊と千代の真実に迫る!?

作者は、土佐山内家宝物資料館の館長を務めている渡部淳。

なんと、一豊の大出世を否定する立場で、数々の史実やエピソードの検証をしています。単に否定しているわけでなく、彼の戦国時代を生き抜いてきた処世術や千代の知恵についてもしっかりと記されています。

著者
渡部 淳
出版日
2005-10-19

作者は、『歴代公紀』という山内家の膨大な資料を約30年間かけてまとめたとものを元に、本書を書きあげました。山内家の資料館の館長だからこそ、大出世という部分ではシビアに客観的に見ているのかもしれません。

山内家に1歩踏み込んで、一豊の真実に迫ります。

負けるな戦国時代のサラリーマン!立身出世への険しい道のり

父親の早すぎる死により、子供の頃から流浪の身となった一豊。負け組からの出発でしたが、時代の先を読み、信長、秀吉、家康という3人の天下人に仕えます。

信長を喜ばせ褒美をもらった名馬購入や、秀吉軍での槍さばき、家康を感心させた笠の緒文の話など、おなじみのエピソードを交えながら立身出世の道のりを探ります。

著者
小和田 哲男
出版日
2005-10-15

武士は二君に仕えずどころか、三君に仕えた一豊ですが、本書を読むと家を守る強固の意思や生き抜くことへのこだわりなどが根底にあるのがわかります。

もちろん、千代とのエピソードもたくさん書かれており、山内一豊を知るにはスタンダードでわかりやすい一冊です。

二人三脚で乱世を生き抜く夫婦の物語

一豊と千代の物語を描いた歴史小説です。戦による一家離散、という同じような境遇に育った2人は、運命のように結びつき、二人三脚で戦国時代を生き抜いていきます。

この本に登場する一豊は、槍1本で名前をあげていくような武骨なタイプであり、千代は女性らしい策略家タイプで、よくある夫婦像を思い起こさせるでしょう。

信長、秀吉、家康のエピソードはもちろんですが、伊勢の亀山城攻めや長浜大地震などにも焦点を当てながら、「土佐二十四万石」までの道のりを描きます。

著者
中島 道子
出版日
2005-09-01

乱世にありながら、夫婦の絆が物語の中心になっていますが、掛け合いのシーンが特に面白く、実際の夫婦としてのリアリティすらあります。荒々しい戦国時代の様子も表現されていて、作者である中島道子の表現の豊さが感じられる作品です。

挿絵も墨絵調の味のあるもので、物語の世界感を支えています。

歴史小説でありながら読みやすい文章で、ホームドラマのような一面もある作品です。

ぼろぼろ伊右衛門と呼ばれていた山内一豊の痛快歴史小説!

『功名が辻』は大河ドラマの原作にもなった歴史小説です。ぼろぼろ伊右衛門と呼ばれ、織田勢にいながら活躍ができない下級武士は、美しい妻をもらい、内助の功に助けられながらついには土佐一国の大名にまで成りあがりました。

史実に基づき、有名エピソードも余すことなく書かれていますが、魅力的に脚色されていて痛快な立身出世の物語に仕あがっています。

一豊の武人として成長する姿や、千代の女性的な魅力も十分に伝わってくる、司馬遼太郎の真骨頂ともいえる作品です。

著者
司馬 遼太郎
出版日
2005-02-10

一豊は特に優れた素質があるわけではない凡人として書かれており、そんな彼が千代と出会うことで人生を変えていきます。

天下人たちの狭間で時には無理難題を持ち掛けられ、悩みながらも乗り越えていく彼の姿は、まさに中間管理職。応援したくなります。

戦国時代を生き抜き、家を守ることを考えた山内一豊ですが、そこには幼い頃の流浪の記憶があったからだと思われます。そして武将ながらどこか穏やかで家庭的な面をもち合わせていたのは、やはり千代のおかげでしょうか。

立身出世のお手本のような一豊ですが、人としての気配りが根底にありました。彼の物語を読んでいると、こんな戦国武将もいたんだとつくづく感心します。

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