【第5回】赤いゲロを吐いた話

好きな人に会ってゲロを吐いたことはありますか?

好きな人に会ってゲロを吐いたことはありますか。私はあります、しかもついこの間。ある歌手のライブへ行ったときのこと、知人の紹介でずっと憧れだったその方にちょっとご挨拶させてもらえることになりました。

受付でレコード会社のひとが私のことを認識していてくれて、「ライブが終わったらご挨拶させてください」と名刺をいただいた時点から何かもう手汗と妙なテンションの高さでふわふわと……。

という浮かれ気分とは別に、彼女の音楽のちゃんとしたファンであるわたしは、目一杯に鼓膜を震わせたかったのでお酒を一滴もいれず、激しく動いても貧血にならなぬよう昼にはチキンを食べ、直前にはトマトジュースを飲み、万全の体制でライブにのぞみました。

……心の底から最高でした、ほんともうすごい素敵だった。彼女の歌はわたしにとってアメノウズメの舞踏のようにわたしをくらい岩屋の中からあかるいお外へとぽーんとはじき出してくれるほど輝いているのです。ほんっとにいいんです。大好きなんです。

アンコールが終わってからしばらく放心し、どんどん観客が帰るなかでわたしはどっと不安になりました。

「ご挨拶」のことを思い出したのです。そもそもただのファンである自分が楽屋口へ行ってもいいものだろうか。いやでもお名刺はいただいているし「ご挨拶を」と言ってもらえたんだから社会人として行くべきなのでは、しかも共通のお知り合いの方もいることはいる……。

けれどもこのせまい業界では3人介さずともいろんなひとに繋がるもので、でもそれはわたしがえらいとか有名とかではなくただただ周りに偶然彼女につながる人がいたってなだけで、いやでもすごく会ってみたいけれど何にも面白い話なんかできないし手土産もないし。

なにしろ最高の演奏をしていたあのひとに面倒なおもいをさせたくない。

トイレへ行って手を念入りに洗ってみたり無為に会場を右往左往すること20分は経ったでしょう。結局一緒に行った友だちの「せっかくなんだから会ってきなよ」という一言に背中を押されてようよう挨拶にこぎつけたのですが、それはもうドキドキしました。

「お疲れ様ですー!来てくれたんですね!」

彼女はわたしのことを知っていてくれたのです。共通の知り合いがいるからとか、SNSでちょこちょこ書いていたからか、その理由にはどちらもあるかもしれません。でも、とにかくその人がわたしがいることを知ってくれていたのです。

ライブを終えたばかりの彼女はたいそう美しかった。

何度生まれ変わっても大好きで大好きで触れられないだろう憧れと嫉妬を抱く女の人がわたしには何人か、いえ何人もいるのですが、その人のことはそのくらいに大好きなのです。あまりに嬉しいことがあると、人は胃をひっくり返すように出来ているのかもしれません。キラキラした気持ちで胸いっぱいになりながらふわふわと明治通りを歩いていたら、胸を超えて喉まで酸っぱさがのぼってきました。わたしは配電線の見守るなか青い自販機の裏で持っていたビニール袋のなかへ赤いゲロを吐きました。

こうやってインターネットに書くとこわいのは、会った直後にゲロを吐く好きの行き過ぎたファンが知り合いの知り合いにいるということがご本人や周りの方に知れてしまうことです。

つらい、はずかしい、南無三。

著者
柴田聡子
出版日
2016-06-21

撮影:石山蓮華

この記事が含まれる特集

  • 電線読書

    趣味は電線、配線の写真を撮ること。そんな女優・石山蓮華が、徒然と考えることを綴るコラムです。石山蓮華は、日本テレビ「ZIP!」にレポーターとして出演中。主な出演作は、映画「思い出のマーニー」、舞台「遠野物語-奇ッ怪 其ノ参-」「転校生」、ラジオ「能町みね子のTOO MUCH LOVER」テレビ「ナカイの窓」など。

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