「楽劇」というオペラの新たな形を作り出したワーグナー。ワグネリアンといわれる熱狂的なファンを生み出し続ける彼の人生を、おすすめの本とともに紹介します。
リヒャルト・ワーグナーは1813年、現在のドイツにあたるザクセン王国ライプツィヒで生まれました。当時はフランスのナポレオン戦争の真っただ中です。父はリヒャルトの生後まもなくチフスで亡くなり、母はその翌年に夫の親友だった俳優のガイアーと再婚しました。
ワーグナー家は演劇一家で、亡くなった最初の父も芝居好き、養父は俳優、長兄はオペラ歌手、4人の姉のうち2人は女優、1人は歌手でした。さらに叔父からは文学の世界を教わり、彼は詩人や音楽家を目指すようになります。
18歳でライプツィヒ大学に入学し、音楽を専攻。同じころにバッハの後継者、ヴァインリヒから作曲の基礎を学び、翌年、最初の歌劇を作曲しています。
1833年、ヴュルツブルクに行き、市立劇場の合唱指揮者となりました。ここから彼は音楽監督として地方都市を遍歴することになります。貧困と借金に苦しみながらも、作曲家としての大成を目指しながら、活動を続けました。
1834年には女優のミンナ・プラーナーと恋に落ち、1836年に結婚します。その後、債務で首が回らなくなり、1839年に夜逃げ同然でパリへ移りました。歌劇『リエンツィ』『さまよえるオランダ人』を執筆しましたが、パリでは認められず貧しいままでした。
この2曲は故郷ドレスデンにある歌劇場で上演されることが決まり、彼は1842年ドイツに戻ります。
『リエンツィ』の初演は成功し、彼に宮廷指揮者の椅子が転がりこんできました。そしてこのドレスデン時代の約7年間で『タンホイザー』『ローエングリン』を完成させ、生涯にわたり取り組むことになる『ニーベルングの指環』の着想も得たのです。
1849年、36歳のとき、ドイツ3月革命に参加したため指名手配を受け、スイスのチューリヒで亡命生活を送ります。ここでは『ニーベルングの指環』を書きはじめ、論文執筆や朗読会の開催、またショーペンハウアーなどの著作に親しむなど、新しい世界を切り拓いていきました。そして彼独自の、音楽と劇との融合を図る「楽劇」という理論を創りあげたです。
このころ妻と別居していたワーグナーは、チューリヒで支援を受けていたオットー・ヴェーゼンドンクの婦人、マティルデと不倫の恋に落ちました。しかしこの恋が実ることはなく、彼はチューリヒを離れ、ヴェネツィアやルツェルン、パリを転々とします。この経験は後に作品となって昇華されました。
1860年にはザクセン以外のドイツ連邦へ、1862年にはザクセンへも入国が許可され、亡命生活は終わりを告げました。この時、妻と最後の再会をしています。
バイエルンの青年王ルートヴィヒ2世はワーグナーに心酔していて、1864年、宮廷へ招待しました。ルートヴィヒは、金銭面や芸術活動の援助をおこない、借金に苦しんでいたワーグナーにとってはまさに救いの手でした。
しかし、彼は政治に口出しすることで、政界に敵を作ってしまいます。外部の圧力に負けたルートヴィヒは、バイエルンを離れるよう彼に要求したのです。わずか1年半の生活でした。
彼はその後各地を転々とし、スイスのトリープシェンに腰を落ち着けます。ここで、リストの娘で指揮者ビューローの妻だったコジマを伴侶として迎え、およそ7年にわたり創作三昧の歳月を送りました。
1872年バイロイトへ移住し、ルートヴィヒ2世の援助を受けて、長年の夢だった彼自身の作品のための劇場、バイロイト祝祭劇場の建築を始めました。1876年に完成した劇場で、『ニーベルングの指環』の全曲公演がおこなわれます。
1882年、最後の作品『パルジファル』が完成。翌1883年2月13日、ワーグナーは旅行中にヴェネツィアで亡くなりました。69歳、愛を求め、放浪し、最後まで自分を貫いた生涯でした。
1:13という数字にこだわった
彼は13という数字に縁が深い人生を歩みました。1813年に生まれ、バイロイト祝祭劇場の開場は8月13日、バイロイトで最後の日を過ごしたのは9月13日、『タンホイザー』完成が4月13日、パリでの『タンホイザー』打ち切りが3月13日、さらにRichard Wagnerという名前のアルファベットは13文字、1813という生年を一桁ずつ足したら13、亡命生活は13年間です。
キリスト教徒にとって13は不吉な数ですが、ワーグナー本人はそれに魅入られたようにとりつかれていました。気にすることでもないようなことを偏執的に気にするところに、人一倍妄想が強かった彼の性格が表れています。
ちなみに、彼が亡くなったのは2月13日でした。
2:多くの女性に影響を受けた
彼の生涯は、女性に彩られています。姉妹も多く、協力者やファンにも多くの女性がいました。恋多き人生を歩み、そのなかでも最初の妻ミンナと、チューリヒ時代のマティルデ、そして後半生の伴侶コジマの3人は彼の人生で重要な役回りを演じています。
ミンナは貧乏のどん底で無名時代の彼との生活に耐え、苦しいやりくりの中で所帯を支えました。ワーグナーとは対等のパートナーとして接し、意見の対立も辞さない強さを持っていたのですが、そのことが母性的な愛を求めていた彼には合わず、関係はしだいに冷えていってしまったのです。しかし別居してからも、彼はミンナへの仕送りは欠かしませんでした。
マティルデはチューリヒでの、ワーグナーの「ミューズ」でした。不倫の恋でしたが、世俗的な愛の成就を断念し、作品のなかに彼女への想いを込めることで、人生体験を芸術体験に昇華させたのです。そして、『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』という大作ができあがりました。
ワーグナーより24歳年下のコジマは、彼の後半生によりそい、夫を神のように崇め、彼への奉仕に生きました。彼はコジマを伴侶として得たことで放浪生活から足を洗い、規則正しい生活を送るようになります。このことで、彼は創作活動に没頭できるようになりました。彼らは相思相愛で、他の一切を必要としない至福のカップルだったといわれています。
3:パリでの『タンホイザー』公演はトラブルのうちに打ち切られた
1861年、ナポレオン3世の招きによって、彼は念願だったパリオペラ座での『タンホイザー』上演を実現しました。上演のためのリハーサルは197回にのぼったといわれています。
ナポレオン3世の臨席のもと初演を迎えましたが、オペラ座の会員でもあるジョッキー・クラブの面々が、第2幕に慣例のバレエの場がないことに抗議して上演妨害の挙に出ました。ナポレオン3世への面当てという政治的な要因も絡まっていたといわれています。
嘲笑や怒号で収拾がつかない状態になり、2回目以降も徐々にエスカレートする妨害に、ついに公演は打ち切りとなってしまいました。大失敗に終わりましたが、未曾有のトラブルによる宣伝効果で、ワーグナーは選り抜きの崇拝者をフランスに持つことになったのです。
4:反ユダヤ主義を唱えた
彼には親しいユダヤ人の友人や知人も多く、弟子や頼りにしていたピアニスト、指揮者にもユダヤ人は数多くいました。しかし1850年に書かれた論文「音楽におけるユダヤ性」を皮切りに、後半生に入ってから反ユダヤ思想が重症化していきます。
きっかけはおそらく、最初のパリ滞在でした。彼はパリの音楽界で活躍していたユダヤ系音楽家、マイアベーアを頼って渡りました。しかし、卑屈なまでにへりくだって庇護と後援を求めたに関わらず、彼の望みは実現せず、愛犬まで逃げ出すような苦しい生活を強いられます。
誇大妄想の気があったワーグナーは自らが迫害されていると感じ、諸悪の根源はユダヤ人だという憎悪を抱くまでになったのです。
5:ニーチェと交流があった
哲学者のニーチェは、学生時代からワーグナーのファンで、1868年に対面して以降、何度も彼の邸宅へ足を運んでいます。彼も30歳以上年の離れた若いニーチェを、親しい友人として扱いました。
しかしニーチェは、『ニーベルングの指環』の初演に失望し、彼へ懐疑の念を強めていきました。彼は新作『パルジファル』の台本をニーチェに贈りましたが、ニーチェはこの年に執筆した『人間的な、あまりに人間的な』でワーグナーの批判をし、2人は決別しました。
しかしニーチェは晩年、「ワーグナーはわが人生最大の恩人であった」と語っていて、激しい憎悪は激しい愛の裏返しだったとも考えられます。 ワーグナーの個性は、感情的に孤立し、抑圧された哲学者にも響いたのです。
ワーグナーの生涯を追いながら、彼の人生を語るうえで欠かせない、ユダヤ人や女性との関わりについても解説しています。
- 著者
- 三光 長治
- 出版日
- 2013-09-12
彼の人生の歩みについて、貧乏のどん底から、いかにして祝祭劇を催すまでに至ったかが丁寧に描かれていて、ワーグナーその人を知るのにおすすめの一冊です。後半にある小辞典では、「イエズス会」、「共感覚」などさまざまなキーワードで、彼について多面的に知ることができます。
彼の作品をひとつずつひも解きながら、それにまつわる逸話や楽しみ方を紹介しています。
- 著者
- 堀内 修
- 出版日
- 2013-01-17
彼の作品を聞くときに、傍らに置いておきたい本です。舞台の成り立ちや楽しみ方、そして作品の背景にあるワーグナーの人生のエピソードまで語られています。
より深く彼の音楽を楽しめる良書です。
ワーグナーについて、いくつかの面からコンパクトに解説している一冊です。
- 著者
- ブライアン マギー
- 出版日
- 2000-08-01
彼のオペラ理論、ユダヤ人ルネサンス、ワーグナー崇拝や人々への影響、演奏や音楽そのものについてなど、さまざまな史料を交えながら説明しています。
薄いですが読みごたえがあり、彼を知るうえでの重要なトピックスがしっかり書かれているので、さらに深いワーグナー研究への足がかりともなる一冊です。
日本は近代化のなかで、西洋音楽をどのように取り入れてきたのか。明治のワーグナー・ブームを中心に据えた社会文化史です。
- 著者
- 竹中 亨
- 出版日
- 2016-04-19
幕末の開国から100年もしないうちに、日本の音楽文化は西洋風に変わりました。これは極めて異例のはやさです。いったいそれが どのように起こったのか、誰が関わり、どんな経路で入ってきたのか、丁寧にひも解きます。
そして、「ワーグナーを聞く前からワーグナーが好き」という明治時代に起きた不思議なブームはなんだったのか、謎に迫るのです。
筆者もあとがきで書いていますが、彼自身や音楽史というよりも、それを素材とした文化史であり、新しい視点で彼を感じることができます。
ワーグナーに触れると、貧乏のどん底だろうが庶民の生まれだろうが、自分を信じて夢を追い続ける、生き抜くことの実感が感じられます。ぜひ、彼の音楽を聴きながら、彼の人生にも耳を傾けてみてください。