イスラム最大の英雄と称されたサラディン。彼の生涯における業績、信念、魅力に迫りながら、より詳しく知ることができる書籍をいくつか紹介させていただきます。
サラディンは、日本ではサラーフ・アッ=ディーンとも表記されます。本名はユースフ。1137年ごろ、現在のイラク北部ティクリートでクルド人の長官アイユーブの子として生まれます。
そんな彼が生まれて間もない頃、激情家の叔父シール・クーフが殺人を犯してしまい、一族もろとも祖国を追われることになってしまいます。そこをザンギー朝の創始者ザンギーに匿われると、たびたび押し寄せる乱世の恐るべき波浪に翻弄されながら各地を転々としました。
その後成長し、ザンギーの息子で王位を継いだヌールッディーンの下へ伺候します。キリスト教を含む宗派、各民族、王朝それぞれの思惑や陰謀が複雑にからみ合うアラブを北へ南へと広大に転戦し、また寛恕たる政治家としての実績を次第に積んでいったのです。
1163年に十字軍に端を発するキリスト教エルサレム王国がついに野心をむき出しにして、当時政治的に弱体の一途にあったエジプトへと侵攻を開始します。それに対しサラディンは、父アイユーブや当時アラブ無類の猛将として知られた叔父シール・クーフらと軍勢をともない、救援へと向かいます。
そして混乱のエジプトのなかで彼は次第に頭角を現すとともにその国の宰相にまで上り、ついに1169年に新たなる守護者、王として即位するのです。これがアイユーブ朝の始まりです。
1187年にサラディンは永年のアラブ世界すべての悲願を達成します。第1回十字軍の遠征以来、ずっと聖地に居座り続けた侵略の異教徒、エルサレム王国をその地から駆逐するのです。
しかし、つかの間の1189年にアラブにまた新たな脅威が持ち上がります。第3回十字軍です。このとき、イギリスのリチャード1世、フランスのフィリップ2世、神聖ローマ帝国のフリードリヒ1世など、数ある十字軍遠征のなかでも、特にヨーロッパ側からは「花」とうたわれるほどの面々が取り仕切っていました。この大侵攻軍が「聖地奪還」の大義のもと、続々と押し寄せてきたのです。
これに対し、サラディンは従来ずっと「昨日の友は今日の仇」とばかりに自分たちの都合で裏切り、あるいは結託し、離合集散をくり返し続けてきた当時アラブの各民族、宗派、王朝を糾合し、大連合を結成させ、いよいよ十字軍に立ち向かっていきました。
そして度重なるまさに死闘の末に、1192年9月、最後まで残っていたイギリスのリチャード1世との間で休戦協定を結び、ついにその大いなる野望に終止符が打たれるのです。サラディンによる大アラブ連合はひとつの文明をその存亡の危機から守り切りました。
そして、その翌年、彼はまるで燃え尽きたかのように病によって息を引き取ります。
1:アラブの英雄でありながらヨーロッパでも人気
アラブではその世界における代表的偉人の1人として圧倒的な支持を集め続けていますが、意外にヨーロッパでも並々ならぬ評価があります。
欲望と無理解と憎しみのままに罵り、奪い、殺戮しあう十字軍時代のアラブの真っ只中にいて、彼は国や人種や宗教を越えた「寛容」というものを世に実践して示し、それにともなう奇跡的な成果をいくつももたらしました。
2:学問は上っ面でなく中身をきわめる
サラディンがまだ幼いころ、他の生徒たちが『コーラン』の暗記を必死に競い合っていたなか、彼だけはそれを尻目に、その内容を吸収することに意識を傾注していたといわれます。
3:ポロがうまかった
学問のみならずスポーツにおいては特にポロに興じ、なかなかの腕前だったようです。ちなみにポロとは馬上のホッケーのような競技で、現在でも世界中の多くの国でたしなまれています。
4:一番弱そうだったから一国の宰相の地位に推された?
当時エジプト宰相の地位にあった叔父シール・クーフが急死した後、その後継者として推薦されます。
しかし、その理由は彼が軍の首脳のなかで一番若く、一番経験が少なく、また一番弱く見えたからだといわれているのです。
5:敵を許すほどの寛容さを持ち合わせていた
敵方の占領地エルサレムに籠る者に、キリスト教聖地の尊重、将来巡礼者に対する不干渉、などを確約して無血開城を成功させ、 なおも相手方からの身代金の納入のなかった捕虜たちまでをも放免してしまいました。
それどころか孤児や寡婦にはサラディンのポケットマネーで補償金を付けたとすらいわれています。
6:君主でも無駄な贅沢をせず、公に尽くす
彼は人の上に立つものとして、自分のために無駄遣いすることを徹底的に控えたので、私財を惜しみなく公につぎ込み、亡くなった時、自身の財産は葬式代以外ほとんどなかったともいわれています。
7:キリスト教側から奪い取った城が世界遺産になっている
1188年にキリスト教側から奪取し、その後拠点としたカラット・サラーフ・アッディーンという城塞跡は2006年に世界遺産に登録されました。シリアの鬱蒼たる森の小高い丘の上に塔や城壁を連ね、ひっそりと佇んでいます。
8:その人柄をダンテも絶賛している
『神曲』を書いたイタリアの名文家ダンテが、ムハンマドについては 「地獄の最深部で頭を切り裂かれて苦しんでいるのを見た」と表現しているのに対し、サラディンについては「哲人達に囲まれて座したる智者の師"を私は仰ぎ見た」と絶賛しています。
「アラブ側」から見た十字軍の実態から、熾烈な文明攻防の最中、突如彗星のように世に現れ、聖人化されたサラディンの人物像に迫る評伝です。
彼の波乱の生涯について、折々のエピソードをふんだんに交えながら、つぶさに描き出されています。
- 著者
- 佐藤 次高
- 出版日
- 2011-11-11
キリスト教徒による十字軍は残虐な戦いをくり広げ、エルサレムを奪還しました。
のちにアイユーブ朝のサラディンはエルサレムを奪回しますが、彼はキリスト教徒がおこなってきたような異教徒の虐殺はしなかったといいます。このような彼の寛容さが、時代を超えても尊敬されている理由のひとつといえるでしょう。本書から、彼の人となりを感じてみてください。
著者はレバノンのジャーナリストで、非常に冷静かつ公平に、十字軍遠征の前後200年にわたる東西両文明の衝突の実情を分析し、解説しています。もはや、ヨーロッパ側からの一方的な侵略戦争といった枠をも超えた、かなりシビアな見解がなされているのです。
- 著者
- アミン マアルーフ
- 出版日
- 2001-02-01
この時代「ヨーロッパ」という語句すらなくアラブの人々は彼らのことをイギリス人もドイツ人もフランス人もみんなまとめて「フランク」と呼んでいました。「フランク」はイスラム教徒に比べ、科学技術のあらゆる分野においてかなり劣っていたという現実がありました。そんな彼らが圧倒的な物量を頼みに押し寄せてきたのです。
この200年続いた十字軍の時代は表層一般的には、東西の宗教対立と定義づけられています。しかし実際には、敵味方入り乱れての領土合戦という様相を呈していたのです。序盤半世紀はヨーロッパ側が一方的に戦線を支配していました。
ふがいないアラブ側領主たちに庶民たちは不満を募らせ、しだいにキリスト教徒への対抗心が高まっていきます。なかには敬虔なイスラム教徒として戦う領主たちが現れだし、やがて登場したのがサラディンでした。
本書は、アラブ側からみた十字軍の時代について、ジャーナリストという立場から公平に解説されています。
十字軍攻防の最中でも、セルジューク朝、ファーティマ朝、マムルーク朝、そしてサラディン率いるアイユーブ朝など、各王朝は乱立し、互いに覇権争いにしのぎを削りあっていました。
当時のムスリム社会の実情、王朝の内幕、さらには軍装、戦術までを鮮やかに、詳しく解説しています。
- 著者
- デヴィッド ニコル
- 出版日
当時アラブ世界に割拠していた各王朝の軍隊構造が一目で分かりやすく描かれている作品です。
年表から挿絵までふんだんに織り交ぜられ、非常に系統だってまとめられているため、視覚的に楽しめる1冊となっています。
英雄として描かれている作品が多いなか、本書では権力を求めず、いたって平凡に暮らすことを願った彼の姿が描かれています。
鬼の王者ザンギーをはじめとして、一癖ある英傑たちに取り囲まれ、取り立てて特徴もない一小領主の息子だったサラディン。やがてはイスラム世界を結集し、強大な十字軍に立ち向かい、名を残す男になるまでを独創的なタッチで追っています。
- 著者
- 小林 霧野
- 出版日
彼がまだ若き頃、詩歌を愛する文人気質でエジプトへの出征を心底いやがっていた、という逸話も残されています。
まるで今まで誰も思いつきもしなかったような歴史にふれることができる1冊です。
いかがでしたでしょうか。サラディンの生き方から、悲しみや苦しみを断ち切るためのヒントが得られるかもしれません。気になった本からぜひ読んでみてください。