植村直己にまつわる8つの逸話!世界初の五大陸登頂者となった冒険家

更新:2017.10.3

植村直己は、世界で初めて五大陸の最高峰を登頂した冒険家です。そんな彼の素顔とは、いったいどのようなものだったのでしょうか。今回は、彼の人物像に迫ることができる本をご紹介します。

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五大陸登頂を実現した日本の冒険家、植村直己

植村直己(うえむら なおみ)は、1941年2月12日に兵庫県の農家の家に生まれました。

少年のころから、彼と同じ兵庫県出身の登山家、加藤文太郎に憧れていた彼は、学校行事で蘇武岳に登ったことをきっかけとして、兵庫、岡山、鳥取にまたがる山岳地帯への山行を始めるのでした。
 

高校を卒業後、彼は運輸会社で働き、その1年後の1960年には、明治大学農学部へ入学し、山岳部に入部します。
 

山岳部へ入ってからは、登山に没頭する日々を送ります。ある日、部活仲間からアラスカ旅行で氷河を見てきたという話を聞いた植村直己は、海外の山を登頂することへのあこがれを抱くようになるのでした。

1964年に就職試験に失敗してしまった彼は、ヨーロッパのアルプスの氷河を見に行こうと考えます。しかし、資金が足りなかったため、渡米して職を探し、資金をためてからヨーロッパへ行く計画を立てました。
 

周囲の反対を押し切り、渡米を決めた彼は、とび職の仕事で稼いだお金を元手に、移民船に乗り、ロサンゼルスへ向かいます。彼の兄である植村修は、その時の渡航代を援助してあげたそうです。

アメリカ到着後、不法就労で捕まる

到着後、彼は苦労して職を手に入れますが、不法就労で捕まってしまいます。日系人の通訳に、なんとか登山のための資金を貯めるためのことだったと説明してもらい、強制送還は免れました。

しかし、アメリカに留まることは許されなかったため、今度はフランスへ向かいます。その年の11月10日に、彼はシャモニーのモンブランの登頂を試みます。

最初の登頂ではクレバスに落ちてしまったため、失敗に終わってしまいました。

しかし彼は諦めませんでした。その後、フランスのモルジヌのスキー場でジャン・ヴュアルネと出会い、彼に雇われてからは、そこで住み込みで働いて資金を稼ぎながら、登山活動を行います。

1965年には、明治大学のヒマラヤ山脈のゴジュンバ・カン登頂隊に途中参加し、4月23日に登頂を成しとげます。

それから、モルジヌに戻った彼は、黄疸を患って1ヶ月闘病。その後、再びモンブランへの登頂を試みるのでした。

1966年7月、ついにモンブランの登頂に成功した彼は、同月マッターホルンへの単独登頂に挑戦し、成功をおさめます。そして、同年の10月には、アフリカ最高峰のキリマンジャロの単独登頂にも成功しました。

1968年には南米最高峰のアコンカグア、1970年にはエベレスト、そして同じ年の8月にはマッキンリーへの登頂に成功し、彼は世界初の五大陸最高峰登頂者となったのでした。

植村直己にまつわる8つの逸話

1:本来なら名前は「直己」ではなく「直巳」だった

名前の「直己」は、もともとは「直巳」という字で命名されましたが、戸籍担当の職員が字を誤って直己と登録してしまったために、戸籍上で直己という表記になったそうです。

大学時代になると、「へび(巳)よりも、おのれ(己)」のほうがかっこいい」という本人の思いから、直己と名乗るようになります。

2:大学時代は誰よりも体力がなかった

今でこそ、五大陸最高峰登頂者で知られる植村直己ですが、大学の山岳部に入部したての頃は、新入部員のなかで1番小柄で体が弱かったそうです。

山岳部に入部した年の新入歓迎山行では、列から遅れたり、足を滑らせて転んだりして、何度も上級生に怒鳴られたり叩かれたりしたのだとか。
 

3:ヒッチハイクや物乞いをしたこともあった

ゴジュンバ・カン登頂後、無一文になってしまった彼は、スキー場へ戻るまでにとても苦労しました。

時には、人の食べ残したものを保存食として持ち帰ったり、ヒッチハイクをして道行く人に乗せていってもらったりすることもあったようです。
 

4:とにかく幸運の持ち主だった

彼が、世界初の五大陸最高峰登頂者になれたのは、多くの人の親切心や彼の運の強さのおかげもあるのではないのでしょうか。

アメリカで、不法就労で捕まった際に、強制送還を免れられたのは、話を熱心に聞いてくれて、官吏の友人であった通訳官のおかげでした。

さらに、ゴジュンバ・カンからスイスへ帰る際に、フランス行きの船に乗れたのは、ボンベイの親切な農場の人たちのおかげだったようです。

5:日本を北海道から鹿児島まで縦断した

南極大陸単独縦断という新たな目標を達成するため、1971年8月に、彼は南極大陸と同じ距離である北海道稚内市から鹿児島県までを徒歩で縦断しました。

その距離はなんと3000kmもあったそうですが、かかった日数はわずか51日でした。

6:国民栄誉賞を受賞した

五大陸最高峰の登頂や南極大陸の単独縦断など、数々の偉業を成しとげた彼は、1984年の4月に国民栄誉賞を受賞します。

さらに、同年の6月には、彼がグリーンランドを縦断した時に到達点であったヌナタック峰を、ヌナタック・ウエムラ峰と改名することがデンマーク政府によって決定されました。

7:亡くなったのも山だった

1984年の2月12日に、冬のマッキンリーへ単独で登頂することに世界で初めて成功した彼でしたが、翌日の13日以降、連絡が取れなくなってしまいました。

その後、明治大学山岳部が2度にわたって行方を捜しましたが、遺品や彼が立てた日の丸の旗が見つかったのみで、未だに死体は見つかっていないそうです。

8:記念館や学校が建設された

1994年には、地元である兵庫県富岡市の神鍋高原に、植村直己記念冒険館が開館しました。また、妻の植村公子らによって記念館と植村直己自然学校というものも設立されたそうです。

植村直己の登山の記録、そして思い出

本格的に登山を始めた大学生時代の話や、苦労した海外での生活など、登頂してきた山々の記憶とともにふり返った1冊です。
 

著者
植村 直己
出版日
2008-07-10

植村直己自身が山に対する思いを、過去を振り返りながら語っています。

五大陸最高峰登頂という偉業を成しとげるまでの壮絶な苦労話や、山に対する彼の情熱というものが、本書にはぎっしり詰まっています。

夢を諦めそうになった時や、努力することに疲れてしまった時、この本を読めば、勇気や元気をもらえることでしょう。

旅の苦労や心情が生々しく綴られた1冊

彼が人生をかけて挑んだ山行や、それにともなう海外への旅、その時々に味わったさまざまの苦労が、当時の心情とともに詳しく書かれた作品です。

著者
植村直己
出版日
2014-01-24

本書から、私生活と仕事の狭間で苦悩する、1人の男としての植村直己を知ることができます。

また、日記のように日々の行程が書かれているので、彼がどのように困難を乗り越え、どのような気持ちで山行に挑んでいたのかということも知ることができるでしょう。

身近な人から見た、植村の姿

これは、植村直己がマッキンリー山で行方不明になるまで、16年近く彼と親しくしていた編集者である湯川豊によって書かれた作品です。

親しい間柄から見た植村とは、いったいどのような人物だったのでしょうか。

著者
湯川 豊
出版日
2017-01-06

この本は、植村直己の死後に書かれたものです。植村本人が書いた本がたくさん出ているなか、彼自身の言葉では語られることのなかった言葉や気持ちというものが、この本から知ることができます。

これを読めば、植村本人も知りえなかった、彼の一面を垣間見ることができるでしょう。

植村直己のもうひとつの夢に焦点を当てて語られた1冊

この本は、植村直己の南極大陸単独縦断という夢に焦点が当てられたものです。山行の記録とは一味違った面白さを感じられることでしょう。

著者
植村 直己
出版日
2011-02-10

五大陸最高峰の登頂に焦点が当てられがちな彼ですが、彼には南極大陸の単独縦断というもうひとつの大きな目標がありました。

本書には、他の作品ではそこまで深く語られていない、この大きな目標について詳細に語られています。

夢を追い続ける植村についてもっと知りたい!というあなたにおすすめの1冊です。

いかがでしたか。偉大な冒険家で知られている彼の人生は、努力と苦労の日々だったようです。彼が目標達成のために懸命に努力する姿勢は、私たちに勇気を与えてくれることでしょう。

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