5分で分かるロシア革命!概要を簡単に分かりやすく解説!

更新:2021.3.9

世界最初の社会主義革命だった「ロシア革命」。歴史上の大事件であり、後の世界に大きな影響を及ぼしました。概要と、革命が起こった背景や影響をわかりやすく解説し、さらに理解を深めることができるおすすめの関連本も紹介していきます。

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ロシア革命とは。概要をわかりやすく解説。

 

ロシア革命は、資本主義の発展の遅れたロシアの、皇帝専制政治の打倒から社会主義国家が建設されるまでの連続的な革命のことを指します。1905年の革命を第1次革命、1917年の革命を第2次革命と呼び、ロシアはそれまでとは別の統治体制に移行していきました。

第1次革命は日露戦争のさなかの1905年に起こります。「血の日曜日事件」と呼ばれる民衆のデモ隊と軍の大規模な衝突が起こると、全国で農民の反乱が相次ぎます。その混乱を収めるため、皇帝は議会の設立の勅令を出し、立憲主義に移りました。さらに、信教、言論、集会、結社の自由など市民的自由を認める譲歩をしたことから、自由主義者と一部の社会主義者が革命勢力から離脱し、事態は鎮静化しました。

社会主義革命を目指したリーダーたちは国外に脱出し再起の時期を探りましたが、第一次世界大戦が勃発すると、ロシア全土は愛国的熱狂に沸き、それにより内政の不満は解消されていきます。

しかし、長引く戦争は国民生活に打撃を与え、しだいに皇帝は国民からの支持を失っていきました。

そして第2次革命が起こります。1917年2月(ユリウス暦)に反戦と平和を訴える大規模なストライキと暴動が全国に広がり、軍隊にも大きな反乱が生じました。皇帝ニコライ2世は捕らえられ、ロマノフ朝が倒れたのです。これを「二月革命」といいます。

政権を握ったのは自由主義的市民を中心とする臨時政府で、労働者と兵士はこれを支持しました。二月革命は民衆が団結した成果でした。

その後、海外から社会主義者たちが帰国してくると、臨時政府に反対する「ボリシェヴィキ」と呼ばれる勢力が台頭してきます。彼らは臨時政府を倒して、自らが政権を奪取して、プロレタリア独裁を実現しようとしていました。

レーニンが指揮したボリシェヴィキは、臨時政府と対立し、二月革命の結果に不満をもつ労働者からの支持を獲得します。また軍隊の一部が同調することによって闘争に勝利し、世界史上初の社会主義政権を樹立しました。これを「十月革命」と呼んでいます。

ロシア革命が起こった原因。日露戦争のまっただなかに勃発!

 

19世紀半ば、クリミア戦争での敗戦をきっかけに、ロシアは近代化を推し進めるため、農奴解放令をはじめとする「大改革」を始めます。

工業化を進め、西欧の社会制度を導入しましたが、専制的な政府と自由を求める国民の対立は改善されることはありませんでした。資本主義の進展は、経済成長が活発化し貴族や資本家たちに恩恵をもたらす一方で、労働者と農民の生活水準は改善されなかったのです。

1905年の第1次革命が起こった背景には、労働者が労働条件の改善と権利の制定、農民が地主に対して権利の拡大を求めても、皇帝が何もしないことにありました。

労働者と農民が立ちあがったことに呼応して、自由主義者とブルジョワジーが自由を求めて加わり、全国規模の動乱になります。憲法の制定、国会の開設、政治的自由の保証、労働者の権利の制定などの要求に対し、皇帝は大幅に譲歩し、実行を約束しました。

1917年の第2次革命のきっかけは、第一次世界大戦の戦費のため、国内の経済がインフレに陥り、生活物資がいきわたらないことで、民衆の怒りが爆発したことです。

皇帝ニコライ2世は国民生活の窮状には関心が薄く、皇后や大臣たちに任せていました。国民の生活よりも、戦争に勝つことに力を注いでいたのです。

国民生活の困窮には何ら手をうたず、戦争に没頭する皇帝に対し、食料を求めた暴動が起こります。それを契機に、全国で労働者とブルジョワジーが同時に専制権力に対して抗議運動を起こしました。この運動が激化し、第二次革命に進展していきます。

二月革命とは。「ソヴィエト」の結成、指導者レーニンの台頭。

 

1917年、国際婦人デーの2月23日の朝、首都ペトログラードの工場の数ヶ所で、女子労働者が食料を要求し一斉にストライキに突入します。これが「二月革命」の始まりでした。

男子労働者もそれに続き、3日後には首都全体がストライキに入ります。さらに、鎮圧に向かった軍の部隊も反乱を起こして、労働者とともにストライキに合流しました。労働者・兵士の「ソヴィエト(評議会)」が結成し、団結したのです。

国会は停止され、その代わりに国会の議長と各党代表たちは、ブルジョワジーの臨時政府を樹立し、皇帝の意向に関わりなく行動することを決めます。各省庁も接収しました。

労働者と兵士のソヴィエトはブルジョワジーの臨時政府を認め、臨時政府は内閣を組織して皇帝に退位を求めました。皇帝ニコライ2世はこれを受け入れ、帝位を弟のミハイルに譲ることを表明。しかしミハイルがこれを拒否したため、300年に渡るロマノフ朝が幕を閉じたのです。

臨時政府は、これまで制限されてきた政治的自由を実現させます。言論の自由、労働者の権利の保障、差別の撤廃、普通選挙の実施などを政府の活動の原則としました。

しかしその一方で、「勝利に終わるまで戦争を遂行する」と表明し、ソヴィエトと対立していきます。

4月になるとボリシェヴィキのレーニンが亡命先から帰国します。「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げ、臨時政府に対して不信任、非協力の立場を明確にし、戦争については継続の中止を訴えました。

強引に戦争を続ける臨時政府は、内部でも分裂が生じ、しだいに国民のからの支持を失っていきます。

ソヴィエト内部では「平和、土地、パン」を明確に唱えるボリシェヴィキが指示を得て、少数派から多数派へと変化していきました。

十月革命とは。ボリシェヴィキが多数派に。

 

臨時政府が信頼を失いつつあるなかで、ソヴィエト中心の臨時政府樹立を求める声が強くなっていきます。

ソヴィエト内で力を持ちはじめたボリシェヴィキは、武装蜂起して臨時政府を打倒し一気に全権力を掌握するプランを練りあげました。ボリシェヴィキのトロツキーがソヴィエトの委員長になり、ソヴィエト防衛を掲げて軍事革命委員会を設置します。

これに対し臨時政府は、軍事委員会に反撃を試みますが、10月23日、ソヴィエト派の労働者と兵士からなる「赤衛隊」が首都を制圧しました。

翌25日、軍事委員会は声明を出し、臨時政府が打倒され、国家権力を掌握したこと発表。その後ボリシェヴィキが樹立した臨時政府には他の社会主義勢の参加は拒まれ、ボリシェヴィキの単独政権が樹立されます。

十月革命は反議会、反自由主義の立場をとるボリシェヴィキが設置した軍事委員会による武装蜂起であり、クーデターでした。二月革命のような、熱狂した民衆が路上に溢れる光景はなかったのです。

ロシア革命の最期

ボリシェヴィキ政権により休戦協定が締結されると、戦争から離脱することができた兵士が故郷に帰ります。その大半は農民でした。ボリシェヴィキの支配は農村にまでは届いておらず、彼らはボリシェヴィキ政府に反対し、武力蜂起をしました。

これに対して1918年1月、トロツキーは反ボリシェヴィキ軍に対抗するために、赤衛隊に代わる軍隊として赤軍を組織して軍事力を強化しました。

しかし、かつてのロシア帝国の将軍たちが指揮する反ボリシェヴィキ軍に対し、急ごしらえの赤軍は思うように戦うことができません。しだいに押されるようになり、赤軍の勢力範囲はモスクワを中心とするロシア中央部の地域に包囲されてしまいます。

一方でロシア革命が再び起こることを恐れたイギリス、フランスをはじめとした列強各国も、軍隊を派遣します。反ボリシェヴィキの連合国は、3月にはイギリス・フランス軍がフィンランドに近いムルマンスクに上陸、8月にはアメリカと日本が共同でシベリアに出兵しました。

この内戦と干渉戦争は長期化し、しだいに農民たちはボリシェヴィキ側に傾いていきます。農民から食料を徴発する赤軍は嫌われていましたが、地主が再び力を持つよりはましだと考えるようになったからです。

赤軍は明確な土地政策を示し、農民の支持を取り込むことに成功。反転攻勢に打って出て、1919年10には各地を占領していた反ボリシェヴィキ勢力は撤退を余儀なくされます。これ以降、大規模な戦闘はなくなり、1920年10月には内戦が終結します。

内戦の最中、ソヴィエト政権は国内の秩序回復のため、警察の権力を強化し、「戦時共産主義」という経済政策に移行していました。チェカと呼ばれる警察権力は強化され、ボリシェヴィキの政敵を一掃する政治テロが平然とおこなわれるようになります。1918年7月には、監禁されていたニコライ2世とその家族を銃殺します。

戦時共産主義は、農民から強制的に食料を供出させ、食料危機からの脱出を図ったものですが、農民から激しい反発を招きました。しかしチェカがそれを抑え込み、ロシア全土から自由な空気は薄れていきました。

ロシア革命の世界への影響

ロシア革命の影響が最初に見られたのは、ドイツの政治団体「スパルタクス団」の反乱です。
 

1918年11月に起きたキール軍港での水兵たちの反乱を発端としたドイツ革命により、皇帝が退位し、ドイツ共和国が誕生しますが、その翌年、スパルタクス団を中心としたドイツ共産党が社会主義革命を起こそうと蜂起したのです。しかし革命は失敗し、指導者のローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトらは殺害されています。

ドイツ以外にも、ロシア革命に影響を受けて、社会主義運動や独立運動、反帝国主義運動が起こりました。代表的なものとして、ハンガリーの社会主義革命(1919年)、エジプトの反英独立闘争(1919年)、インドのガンディーによるの反英不服従運動(1919年)、トルコ革命(1922年)などがあります。

またロシアでの革命を世界へ波及させることを目的として、1919年3月に「コミンテルン」が結成され、各国で共産党の設立が相次ぎました。中国共産党の成立(1921年)、日本共産党の成立(1922年)、モンゴル人民共和国の成立(1924年)、インドシナ共産党の成立(1929年)が代表的な事例です。

ロシア革命とスターリン

 

革命以降のロシアについて語る際に欠かせないのが、ヨシフ・スターリンという人物です。

1878年に生まれ、15歳のころから革命運動に参加しています。レーニン率いる十月革命にボリシェヴィキとして関わり、その後ソヴィエト連邦政府およびソヴィエト連邦共産党の成立にも深く携わりました。

1924年にレーニンが亡くなると、トロツキーとの後継者争いに勝利。「一国社会主義論」を唱え、国の指導者として独裁体制を築いていくのです。

彼のやり方に反対する者に対しては「大粛清」という摘発をし、政府軍人であろうとも処刑あるいは追放をしていきました。

実は彼の本名はジュガシヴィリ。スターリンは「鋼鉄の人」を意味する筆名で、その名を体で表していた人物でした。

ロシア革命の入門書として最適な、ビジュアル満載の本

本書には、当時の写真やポスター、新聞と、それに掲載されていた風刺画がなど多くの画像が収録されています。

ロシア国民のさまざまな層の目線を意識して資料が引用されているので、文章を読むより先に、感覚的に革命当時の雰囲気が伝わるように編集されています。

著者
ニコラ ヴェルト
出版日

二月革命の章では、群衆の様子を写した写真と、兵士たちの記念写真が多く、民衆と軍隊が一致団結して二月革命を成功させたことがわかります。

強力な指導者がいわたけではなく、本当に切羽詰まった民衆が、自然発生的に革命を起こしたことが想像できるのです。

ページをすすめると十月革命の章になりますが、二月革命の章と比べると民衆の影が薄く、目立つのはレーニン個人の姿です。レーニンが皇帝や貴族たちを箒で掃除している風刺画や、彼が演説をしている絵などがあります。

このことは同じ年に起こった2つの革命の性格の違いを端的に表しており、著者の意図が伺えます。ソビエト崩壊後に書かれていることから、ロシア人自身もあの革命を以前のように礼賛することができなくなっていることがわかる点も、興味深いところでしょう。

革命の実相をわかりやすく解説した本として、一読をおすすめします。

トロツキーが語るロシア革命

本書は全2巻からなり、1巻では、主として二月革命の様子が、2巻には十月革命の様子が描かれています。

著者のトロツキーは、十月革命で大活躍したレーニンの同志です。ロシア革命にはボリシェヴィキとして参加。レーニンに影響を与えていた人物として知られています。十月革命ではその雄弁さでペテルブルグ要塞の守備隊の兵士をボリシェヴィキ側につかせ、レーニンを喜ばせました。

著者
トロツキー
出版日
2000-07-14

そのようなトロツキーは、本書で二月革命のことを「不思議な革命」だと評価しています。

当時のロシアは、第一次世界大戦が起き、一部の資本家を除いて、ロシア国民のほとんどは窮乏生活を強いられていました。皇帝は求心力を失い、労働者と兵士による反乱が起きて、専制を続けていた皇帝が退位して臨時政府が発足します。

しかしその臨時政府は、資本家や地主を中心としたものでした。これでは皇帝がいなくなっただけで、依然とあまり変わらないようにトロツキーには見えたのです。

トロツキーの目線が勤労者や農村出身の兵士などの立場に近く、客観的に時の権力闘争が描かれています。

ロシア革命で挫折した人々に、光を当てた労作

ロシア革命から100年後に出版された本書は、最終的な革命の勝利者である社会主義者たちが排除し、表舞台から追い出されてしまった人々について書かれています。

歴史は、勝者側が語る物語であるという側面は否めません。本書のように別の角度から光を当てることは、その当時を生きた人々を甦らせ、私たちを真実に近づけてくれます。

この本の素晴らしいところは、そのようなアプローチを試む労を惜しまず、できるだけ多くの人々に光を向けていることです。

著者
池田 嘉郎
出版日
2017-01-21

立憲主義者・自由主義者の存在は、社会主義者側から見れば、革命運動にとって障害になる存在でした。彼らは二月革命では熱狂した民衆の支持を集め、二月革命後の臨時政府では立憲主義者が首班となり、自由主義者の資本家や知識人も参加しています。

この臨時政府は自由主義だったので、さまざまな党派の寄り合いで動き出します。話合いで物事を決めようとしたうえに、資本家や民衆の意向にも配慮しなければならず、運営はきわめて困難でした。首班は早々に辞任してしまいます。

後を継いだのは社会革命党のケレンスキーでしたが、ボリシェヴィキの勢力拡大を抑えることはできませんでした。そして十月革命が起き、ボリシェヴィキの独裁政権が樹立されます。

議会での議論による調和を重視する民主的な人々が、実力行使により政権を奪取する者たちにやすやすと征服されてしまった悲劇の歴史を、本書では丹念に調べあげています。
 

ロシア革命の裏に隠された秘密を探る

この本では、なぜボリシェヴィキの革命が成功したのかについて、さまざまな資料を再検証し、巧みな手法によって彼らが民衆の支持を獲得していったことを明らかにしています。

レーニンは、第一次世界大戦への参戦によって困窮した労働者や農民、そして厭戦気分の兵士をソヴィエトに吸収するため、まずは反戦運動を展開する戦略を実施しました。

亡命先から帰国した彼は「4月テーゼ」を発表し「戦争をやめろ!」「臨時政府を倒せ!」「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げ、労働者と兵士の支持を得ます。戦争を倦んでいた民衆には理解しやすく、兵士たちのあいだにはすぐにでも蜂起したいという声が充満しました。

戦争を終わらせることができない臨時政府は信用を失い、レーニンの狙いどおりにスローガンは民衆に浸透し、彼らの希望はボリシェヴィキに移っていったのです。

一方でレーニンが目指す「共産主義革命」を民衆が理解していたわけではありません。その思想に共鳴したのではなく、現臨時政府に対する失望の強さから、臨時政府に強固に反対するボリシェヴィキを受け入れただけだったのです。

著者
広瀬 隆
出版日
2017-02-07

理念に賛同した「大衆」によってはじめられた解放への道のりが革命であるのならば、臨時政府を武装蜂起によって打倒した十月革命は、革命ではなくボリシェヴィキのクーデターだったのではないか。

つまり、社会的に現実的な基盤を持たないひと握りの狂信的な集団が、社会の混乱に乗じて政権を乗っ取ったといえるのではないかと、読者に問いかけています。

理想の国家を作り、民衆が生き生きと生活できる社会を作ろうという動機から始まったはずが、いつの間にか権力を持つための活動に変わってしまい、他の党派や宗教家たちを処刑するようになってしまう、なんという皮肉な結果でしょうか。

本書ではさらに 、革命期に暗躍した武器商人や軍人、政治家などの動きにメスを入れ、革命秘史、革命群像の実態を明らかにしています。ロスチャイルド家とロマノフ朝の関係が浅はかならぬものであったことも述べられており、歴史の闇の深さを感じないわけにはいきません。

教科書ではわからない、歴史の奥深さに興味をもてる、刺激的な一冊です。

2017年はロシア革命から100年にあたる年です。ロシア革命によるソヴィエト体制は、長期の停滞を経て、100年もたずに崩壊しました。現在は国名もロシアに戻っています。帝政から社会主義を経て、現在のロシアはさらに複雑な社会になっているようです。

ロシア革命を知ることをきっかけにロシアに興味をもったら、ソビエト時代から今に至るまでの歴史に関する本も読んでみることをおすすめします。そうすることで、さらにロシア革命の歴史が面白くなるはずです。