トロツキーにまつわる逸話7つ!スターリンのライバルだった男を知る

更新:2021.11.10

20世紀の歴史を語るうえで外せない社会主義の動き。レーニンやスターリンについて知っている人は多いのではないでしょうか。今回は、彼らと同時代に生きた、もうひとりの社会主義者、トロツキーについてご紹介します。

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トロツキーとは

トロツキーは、本名をレフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテインといいます。1879年に現在のウクライナで、ユダヤ人の両親のあいだに生まれました。

1896年頃からマルクス主義に傾倒し、政治活動に参加しています。1897年に南ロシア労働者同盟の組織化に協力し、これによって逮捕され、投獄を経験しました。1900年には4年間のシベリア流刑判決を受けます。

1902年にシベリアから逃亡した後は、ロンドンに移住します。ロシア社会民主労働党の「イスクラ」紙に寄稿し、すぐに主要な執筆メンバーになりました。編集者たちの間にはプレハーノフに代表される古参とレーニンとマルトフに代表される若手の間で対立があり、トロツキーは若手編集者のリーダー的立場であったレーニンに見出されます。

1905年に起きた「血の日曜日事件」の混乱に乗じて、彼はロシアに戻ります。サンクトペテルブルク・ソビエトの議長になり活動しますが、ストライキに関与したことで12月に逮捕および投獄され、シベリアに終身流刑を宣告されました。

しかし、シベリアへの護送中に脱走した彼は、ロンドンを経てウィーンに亡命し7年間過ごします。この間、雑誌「プラウダ」に「永続革命論」を提唱した記事が掲載されました。

1910年代はロシア社会民主労働党内の緊張が高まった時期でした。彼は党内の異なるグループ間の調停に務めますが、レーニンや他のメンバーと衝突して終わってしまいます。

1914年に第一次世界大戦が開戦し、オーストリア=ハンガリー帝国がロシア帝国と交戦状態になると、スイスやフランスに亡命しました。しかし1916年3月、反戦活動のためにフランスから国外追放され、その後スペインを経由してニューヨークに移りました。

1917年の二月革命を受けて、彼はロシアに帰国します。帰国後、彼はレーニン率いる左派のボリシェヴィキに賛同し、十月革命を経た1917年末には、レーニンに次ぐ地位になっています。

ボリシェヴィキが権力の座に就くと、外務人民委員になりました。ドイツとのブレスト=リトフスク条約締結の際は代表を務めています。その後1918年2月に外務人民委員を辞任し、軍事人民委員・最高軍事会議議長に就任しました。そこでトロツキーは赤軍の組織に着手し、赤軍の指導者として内戦における反革命軍の撃破や、外国の干渉の排除に大きな功績を残します。

しかし1924年にレーニンが亡くなると、台頭したのはスターリンらでした。トロツキーはしだいに政策決定の場から離れ、1929年にはソ連から追放されてしまいます。トルコ、フランス、ノルウェー、メキシコなど各地を転々としながら、生涯革命運動を続けました。

トロツキーにまつわる逸話7つ!

1:優秀な学生だった

教育熱心な両親のもとで育った彼は、8歳のときにオデッサの有名校に入学しました。当時は教育機関へのユダヤ人の受け入れが制限されており、その状況でも入学できたことは、彼が優秀な生徒であったことを示しているといえるでしょう。

また彼自身は、流暢に話せるのはロシア語とウクライナ語だけだった、と述べていますが、フランス語も流暢に話していたという証言があります。

2:最初の結婚は獄中だった

1898年に初めて逮捕、投獄された彼は、マルクス主義の仲間のアレクサンドラ・ソコロフスカヤと獄中結婚しました。その後シベリアへの流刑中、娘を2人授かります。すぐに離婚してしまいますが、彼女とは友好的な関係を維持しました。

ロンドンへ移住してすぐ、1903年には2度目の結婚をナターリアとします。彼女とは死別するまで結婚生活が続きました。彼女との間にも2人の子どもを授かっています。

3:演説で自分の身を守った

革命中に地方を巡っていた彼は、途中、乗っていた車が反対派に包囲されたことがありました。銃を突き付けられ絶体絶命でしたが、即興の演説で敵を説得し、味方にしてしまったそうです。

4:政敵スターリンが称賛した著書がある

1920年に発表した著作『テロリズムと共産主義』のなかで、革命のためのテロを擁護している箇所があります。この本はスターリンの蔵書の一冊に含まれており、彼はテロの擁護をしている箇所に「同感!」「的確!」などと書き込みをいれて賛同していたそうです。

5:「敵を殺せ」という歌をやめさせた

赤軍を率いていた際、「白い虫(白軍)を殺せ」という歌が兵士たちの間ではやっていました。それを聞いたトロツキーは、「白軍を殺すことではなく武装解除することが目的だ、組織するつもりで戦おう」と訴え、その歌を禁止にしました。

6:政敵スターリンと同じく、武力弾圧をおこなった

上記のように敵に対して柔和な態度をとっていた彼ですが、他方でスターリンと同じような武力弾圧も数多くおこなっています。たとえば、1922年に発生したクロンシュタット軍港の水兵たちの蜂起と、それに呼応したストライキの鎮圧、ウクライナ地方の農民アナーキズム運動の圧殺支持などがあげられます。

7:避難訓練は愛人に会いに行くためだった

スターリンとの後継者争いに敗れメキシコに亡命したトロツキーでしたが、メキシコにもスターリンの魔の手が迫ります。彼の住居は襲撃された後に要塞化され、彼は秘書らとともに避難訓練をくり返すようになりました。しかし、この避難訓練は、実は愛人宅に行くための脱出訓練だったそうです。
 

トロツキーによるロシア革命の評価

トロツキーが、当時のソ連のスターリン主義を批判した作品です。

スターリンによって革命はいかに歪んでしまったのか?歪んでしまった革命の行きつく先は?本来の革命の成果に戻るためにはどうすればいいのか?……などの疑問に迫ります。

著者
トロツキー
出版日
1992-02-17

当時スターリンに敗れ、ノルウェーに亡命中だったトロツキーが、レーニン死後のスターリンによる政策を検証し、ソ連が直面するであろう問題をあぶりだしていきます。

革命の理念であったはずのマルクス主義から見て、当時のソ連やスターリニズムがいかに「正当」なものから外れているのかが詳述されています。トロツキーの思想はもちろん、当時のソ連の状況も把握することができ、ロシア革命や社会主義史を知るうえで欠かせない一冊です。

トロツキーの自伝

トロツキーが自分自身を分析し、まとめた一冊です。彼の誕生から中心的役割を果たした二月革命までの姿が描かれています。

著者
トロツキー
出版日
2000-12-15

本書は、1930年に執筆されたトロツキーの自伝を翻訳したものです。上下巻からなり、上巻では誕生から1917年の二月革命前後までが収録されています。

彼がどのように成長したのか、どのようにしてマルクス主義に触れることになったのか。革命家としての彼を語るうえで欠かせない時代が、本人の視点から鮮やかに描かれています。

激動の時代を生き抜いた人だからこそ記せた本作は、小説のように読み進めることができるでしょう。

天才革命家の伝記の決定版

ダフ・クーパー賞を受賞した、トロツキーの全貌に迫る大作です。思想、行動だけでなく性格や人物像なども含め、彼のすべてを精査して、等身大の姿が描いています。

著者
ロバート サーヴィス
出版日
2013-03-23

上巻ではトロツキーの誕生から十月革命までが書かれています。

著者であるロバート・サーヴィスはオックスフォード大学教授で、ロシア近現代史が専門です。本書のほかに『レーニン』、『ロシア革命1900-1927』なども執筆しています。

ロシア近代史を語るうえで欠かせない人物の評伝を上梓している著者は、彼らが生きた同時代の緻密な資料読解によって、従来の伝記にはないようなイメージのトロツキーを描き出しました。

各巻400ページと読みごたえ抜群の作品です。本書と合わせて『レーニン』など他の著作も読めば、激動の時代のロシア・ソ連を多面的に理解する一助になるでしょう。

トロツキーから見た人物たち

ニーチェからスターリンまで、トロツキーが彼らをどう捉えていたのか、その思想をたどることができる一冊です。

著者
レフ トロツキー
出版日
2010-03-01

本書によれば、トロツキーは生涯で大小合わせて200近い人物論を残しています。そのうちの16本が厳選され、本書に収録されています。

同じマルクス主義者のプレハーノフやスターリン、マルクス主義や共産主義を敵視していたナチスのヒトラーをはじめ、実にさまざまな人々についてトロツキーは評論しました。書かれている人物についてだけではなく、各人物の評論を通して彼自身の思想にも迫ることができる貴重な資料です。

また、レーニンについて書かれた人物論は、別の本として一冊にまとめられているので、こちらも一読してみてはいかがでしょうか?

権力闘争に敗れながらも、自身の思想を信じて活動を続けた彼の人生を感じてみてください。

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