1918年から、日本はシベリアにたびたび軍を派遣しました。ロシア革命の混乱に乗じて始まったこの「シベリア出兵」ですが、軍隊が何をしたのかはあまり知られていません。今回は、目的などを簡単に説明したうえで、おすすめの本を紹介していきます。
シベリア出兵は、1917年に起きたロシア革命に干渉するため、1918年から数年にわたり、日本・アメリカ・イギリス・フランスなどの各国がシベリア地域に軍を派遣し、駐留した事件です。
ロシアの社会主義革命が成功した直後から、西欧の帝国主義列強は革命の拡大を危惧し、それを圧殺するために着々と準備を整えていました。日・米・英・仏は足並みをそろえ、1918年7月に共同出兵を提唱し、日本軍は1万2千人の連合軍を極東シベリアに送る内容の協定を結びます。
当初アメリカは、対ソ干渉そのものには積極的でしたが、シベリアにおける干渉は日本を主力とせざるを得ず、その成果を日本に独占されることを恐れてシベリア出兵に反対していました。
しかし日本は、アメリカ国内でチェコ軍救援の世論が高まった8月2日、協定で定められた全兵力をウラジオストクに送り込みます。さらには協定を無視してザバイカル方面に二個師団を派兵、その後も増兵して、11月にはのべ7万3千人の規模になりました。
その後各国が撤退しても日本は駐留を続けます。1921年にワシントン会議の席上で撤兵を宣言し、同年10月にシベリアから撤退しました。しかし北サハリンに派遣した軍が撤退するのは1925年5月で、その期間はおよそ7年間にわたっています。
ロシア革命が起こった当時、イギリスとフランスは、対ドイツとの第一次世界大戦の戦闘が続いていました。その状況を好転させるため、ロシア革命に干渉することを計画します。
シベリアにおいて干渉戦争をはじめることでドイツに東部戦線を意識させ、同時にロシア革命政府を打倒する目的でした。
しかし兵力に余裕がなく地理的にも離れていることから、シベリア鉄道の共同占領の必要や、ウラジオストクにある60万トンの軍需品がドイツに渡らないようにするために、日本とアメリカに対して兵力派遣を要請します。
当時の寺内正毅内閣は、ロシア革命の圧殺、東部シベリアへの日本の勢力の拡大、中国本土への圧力を強める機会であるという認識でいました。陸軍参謀本部でも「居留民の保護」を名目に出兵論が高まります。
日本の大陸進出の機会となることを恐れていたアメリカでしたが、ロシア軍によるチェコ軍の殲滅が伝えられると、アメリカ大統領ウィルソンが日米共同での出兵を決定します。そして日米で7千兵ずつの陸軍がウラジオストクに上陸し、シベリア出兵が始まりました。
日本政府は、当初この出兵の目的を、チェコ軍の救出とロシアの領土の保全とし、内政には干渉しないとしていました。しかし陸軍参謀本部は、統帥権の独立を理由として独断で増派し、1918年11月までに7万3千人を派遣します。これは当時の日本軍の約半数におよぶ規模でした。
日本軍は、連合国と行動をともにしたウラジオストクとは別に、北満州からもシベリアに進軍します。中国の承認は得ていたものの、アメリカ政府との約束は反故にした形となりました。
陸軍参謀本部は、軍事的な勝利がありさえすれば、日本国内ではすべてが不問になると確信して行動したのです。
日本軍は現地の反革命勢力を支援し、革命政府と戦いを続け、ついには親日政府の樹立を工作します。これにはシベリアでの鉱山資源や鉄道を日本のものとし、シベリアの大部分の支配権を確立する意図がありました。
戦線の状況により出兵の大義名分は二転三転しましたが、陸軍参謀本部には、当初から「シベリア分割」に有利な立場を築き、満州におけるロシアの影響を排し、権益を独占したいという真の目的があったのです。
本書ではシベリア出兵を1918年から1925年までの7年間と定義し、その全期間を俯瞰的に解説しています。
日本国内の政治状況においては、陸軍の動きを支持する明治の元老たちと、大正デモクラシーをリードしていた政治家の綱引きがありました。本書では、日本の内政は当然のこと、革命直後のロシアの状況や連合国側、特にアメリカの事情などについても詳しく解説しています。
本書を読み進めると、歴史の教科書では軽くふれられた程度のシベリア出兵でしたが、大正時代にあったこの限定的な戦争が、次の昭和の大戦争への入り口であったことがわかります。この時代にはまだ政治が軍部を抑える力があったのです。
日露戦争の勝利の自信が、シベリア出兵で軍部だけで独走できるという経験をさせたことにより、第二次世界大戦への拡大につながった流れが明確に整理できるので、一読に値する本だといえるでしょう。
- 著者
- 麻田 雅文
- 出版日
- 2016-09-16
戦線の拡大が国際的な非難につながることや、国内での政争の激化を懸念した人がいたとしても、戦争がはじまり勝利が宣伝されれば、止めることが困難になってしまった当時の状況がよく再現されています。
統帥権の独立と講和の方法が戦争を終わらせる障害となり、また戦争から何かを得なくては死んでいった者に顔向けできないという心理は、日本の戦争指導者たちが明治時代とは本質的に変わってしまったことを表しています。
野心だけが暴走し、理性的な判断がついていかないことが、シベリア出兵時にはすでに事象として起こっていたことを再認識し、歴史の教訓として学べます。断片的にとらえるのではなく、大きな歴史の流れを認識するためにおおいに役立つ本です。
シベリア出兵に関しては、日本国内では2つの主張がぶつかり合い、激しい主導権争いが起こりました。それは「自主的出兵論」と「協調的出兵論」の対立です。従来の研究では、出兵に関する時期とその段取りに違いがあるだけで、大陸進出の足掛かりを作るという目的は同じであったという結論でした。
この見方に対して本書の著者は、「協調的出兵論」には、出兵を主眼としたグループと、対米協調という外交戦略を主眼にしたグループに分類することが可能で、後者は大陸進出に関して抑制的に考えていたと主張しています。
このグループのリーダーは平民宰相として名高い原敬(はらたかし)で、著者は高く評価しています。
- 著者
- 細谷 千博
- 出版日
- 2005-01-18
連合国各国それぞれの思惑の違いや、各国で発生していた路線対立の様子が丁寧に再現されており、シベリア出兵の目的であったはずの革命政府への干渉は大義名分に過ぎなかったという結論に達します。
本書で取り上げているこの思惑の違いを理解することは、戦間期から第二次世界大戦までの国際政治を理解する際にもおおいに参考になるはずです。
文庫本で全8巻の大作。圧倒的な情報量と平易な筆さばきで、明治天皇の崩御から、シベリア撤兵と日ソ基本条約成立までの15年の間に起こった、政治・外交・文化を幅広く再現しています。完読すれば大正時代そのものに精通できることはもちろん、前後に位置する明治、昭和の時代を俯瞰し、日本近代史の全体構造を把握することができるでしょう。
大正時代になったとはいえ、明治を支えてきた元老と藩閥政治の時代が続いており、憲法にもとづく政治はまだまだ確立されていませんでした。そのような現実に対して、大正デモクラシーとも呼ばれる自由主義運動に寛容な風潮が起こり、普通選挙に象徴されるような民主主義の実現を望む民衆の声は強くなって、それに応える政治家も登場してきます。
- 著者
- 児島 襄
- 出版日
平民宰相と呼ばれた原敬が多く取り上げられ、首相の座にまでのぼりつめた政治的技量を高く評価しています。同時期には尾崎行雄や犬養毅もいましたが、対英米協調主義と内政における積極政策を推進するにあたり、山縣有朋(やまがたありとも)をはじめとする明治の元老たちからの信頼を得て進める懐の深さが見受けられます。政党勢力を強化すると同時に、反政党勢力を懐柔することに成功した軌跡は大変興味深い内容です。
シベリア出兵に関しては、政財界の思惑や動きを丹念に描くとともに、石橋湛山(いしばしたんざん)や中野正剛(なかのせいごう)、与謝野晶子らのような、一貫して反戦、撤兵を訴えていた言論人の活動にも多くのページが費やされています。また当時の新聞記事の引用も多く、言論人とマスコミがどのような世論形成をおこなっていたかを詳しく知ることができる内容です。
シベリア出兵で日本軍は、ロシアの反革命勢力とともに革命政権と戦いました。正規軍ではないパルチザンとの戦闘は日本軍を疲弊させましたが、さらに不利だったのはシベリアの極寒です。戦死者は3~4千人だったのに対し、凍傷による死傷者は1万人だったといわれています。
出兵から20年後には「シベリア抑留」という事態が起き、ソ連軍は日本軍を極寒の地に拘束しました。ソ連の軍人たちには、シベリア出兵の復讐という意識が働いていたとされています。
今回紹介した本をとおして、この惨禍に目を向け多くを学ぶことは、祖国から遠く離れた雪と氷の中で命を落とした同胞たちへの弔いになるのではないでしょうか。