5分でわかるヤルタ会談!秘密協定の内容や北方領土についてわかりやすく解説

更新:2021.11.11

第二次世界大戦後の世界の枠組みは、アメリカ・ソ連・イギリスの3巨頭が数日間、密室で協議して決めたといわれています。多くの地域で争いが続いていた時期でしたが、その裏で彼らによって運命が決められていたのです。 この記事では、三国が協議した「ヤルタ会談」について、その内容や戦後への影響をわかりやすく解説し、さらにおすすめの関連本もご紹介していきます。

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ヤルタ会談とは?簡単に説明。

 

1945年2月4日から11日にかけて、ソ連領クリミア半島のヤルタという場所で開催された、連合国側の戦争政策および戦後処理の問題についての話し合いを「ヤルタ会談」といいます。

参加したのはアメリカの大統領ルーズベルト、ソビエトの首相スターリン、イギリスの首相チャーチルです。

当時のヨーロッパ戦線は、ポーランドにいるドイツ軍を駆逐したソ連軍がドイツ国境付近にまで進出し、アメリカとイギリスをはじめとする連合軍はドイツ西部のライン川の西岸を目指し進軍していました。

対ドイツの勝利がほぼ確実という情勢だったため、ヤルタ会談では戦後のドイツ占領地域の処理と、極東の戦略に関する具体的な合意、「国際連合」の設立について協議されています。

会談が終了した2月12日に「ヤルタ宣言」が発表されています。

ただここで発表された内容は、戦後ドイツの管理体制とポーランドの再建、そして国際連合についてのみ。そのほかに協議していたソ連の対日参戦、戦後の日本周辺の領土についても合意されていましたが、秘密協定とされました。

ヤルタ会談の具体的な内容は。北方領土問題の発端に。

 

ここからは、会談で協議された内容についてより詳しくみていきます。大きく3つのテーマが議論されました。

1:ドイツの戦後処理問題

戦後のドイツの占領地域の管理については、まずその領土を縮小し、戦前のドイツ領東部をポーランドに割譲することと、首都ベルリンは英米仏ソの4ヶ国が共同で統治することが決定されました。

またドイツの戦争犯罪人を処罰するため、裁判を開くことも決定。賠償金問題は継続して協議していくことが合意されています。

2:ポーランド問題

ポーランドの国家再建に関しては、イギリスで存続している亡命政府と、ポーランド内でソ連が樹立した臨時政府があり、どちらを正統な政府として戦後の再建を進めるかが問題になっていました。

イギリスとソ連が激しく対立したため、アメリカから戦後に国民投票を実施して決めることとする妥協案が提示され、3ヶ国で合意されます。

国境については、ソ連に接している東側はソ連に領土を割譲し、その分ドイツに接している西側ではドイツの領土をポーランドに割譲することが決まりました。

3:秘密協定となった極東の問題

スターリンは、南樺太、千島列島、満州での権益と引き換えに対日戦に参戦することを約束します。これは、ドイツの降伏後2~3ヶ月以内に「日ソ不可侵条約」を破棄し、日本領土に侵攻するというものでした。

満州国へのソ連の侵入は、実際にはドイツの降伏から3ヶ月後の8月9日に始まり、日本の敗戦を決定づけたのです。

またこのことが、2018年現在も続く北方領土問題の発端にもなっています。

台湾は中華民国への返還、また朝鮮は連合軍による信託統治、中国は蒋介石政権を認めるという方針が確認されました。その一方で曖昧なまま秘密協定になったことも多く、戦後の領土をめぐる対立の原因となる事例もありました。

ヤルタ会談の影響は?「ヤルタ体制」はマルタ会談まで続行。

 

ヤルタ会談でアメリカ、ソ連、イギリスの3ヶ国が合意し戦後の国際秩序の枠組みは、そのまま各国の政治体制の再建、国際外交や民族問題の解決指針となり、広範囲に影響を及ぼすことになります。

地図上で東西ドイツの国境から地中海に達するヨーロッパの真ん中を境に、西側陣営と東側陣営が分かれる構造となりました。西側はアメリカを中心とした資本主義国陣営が、東側はソ連を中心とする社会主義国陣営が支配する「ヤルタ体制」が形成されます。

この境界線をイギリスのチャーチルは「鉄のカーテン」と表現しました。

二大国の対立は軍拡競争を引き起こし、アジアなど他の地域では代理戦争が発生。ただアメリカとソ連の直接対決となる事態には至らず、この争いは「東西冷戦」と呼ばれています。

ヤルタ体制は、ソ連が弱体化し1989年に冷戦終結宣言がおこなわれるまで続きました。アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が地中海のマルタで会談したため、「マルタ会談」「マルタ宣言」といわれています。

ヤルタ会談でのルーズベルト、スターリン、チャーチルの関係は

本書では、会談で米英ソの首脳陣が話した内容が生々しく再現されています。

主張を通しやすかったのはソ連のスターリン。ドイツの猛攻を退け、本土内から撃退し、ポーランドを開放してドイツ本国に迫っている勢いがありました。アメリカのルーズベルトはスターリンを信頼していましたが、イギリスのチャーチルは彼が独裁者であること見抜いていたのです。

その後の歴史を見れば、この会談が大きなターニングポイントとなったことは言うまでもありませんが、第二次世界大戦の末期とはいえ、個人レベルの関係で会談が進められていたことは驚きを隠せません。

特にルーズベルトは体調が悪く、この会談から帰国した後すぐの4月に亡くなります。無理をおしての会談は、対日戦争の勝利にソ連の首相であったスターリンの協力がどうしても必要だったため、秘密裏におこなわれたのでした。

著者
アルチュール コント
出版日
2009-03-01

対日戦への参戦を渋っていたスターリンに、その見返りとして日本の領土を提供することをルーズベルトは独断で決めてしまいます。これは密室で2人だけでの話し合いで決められ、チャーチルは不在でした。またポーランド問題で英ソが対立すると、ルーズベルトはスターリンが納得するような妥協案を提案し、チャーチルとルーズベルトの信頼関係は壊れてしまいます。

それでもチャーチルは一矢を報いて、ドイツを米英ソで占領するスターリンの案を修正し、フランスを加えて4ヶ国での管理としました。スターリンはフランスを敗戦国として完全に見下していましたが、チャーチルとしては英仏の関係に期待するほかなかったのです。

本書を読み終えると、ヤルタを舞台にした3大国のパワーゲームではなかったという事実に混乱するかもしれません。ソ連にすり寄るアメリカがソ連の有利な決定をアシストし、さらにその事実をルーズベルトはトルーマンには共有しないという真相は奇妙とすら言えます。歴史の意外な事実にふれることのできる興味深い一冊です。

ヤルタ会談とポツダム会談

本書のタイトルにある「ヤルタ・ポツダム体制」とは、ヤルタ会談によって決められた戦後の国際社会の秩序と、ポツダム宣言により戦勝国が決めた戦後の日本の秩序が、戦後日本の国内外の政策の基本になっていることを指しています。

ヤルタ体制は民族自決権を封殺し、大国の利害の一致によって決められた体制という批判が根強くあります。またポツダム宣言を受け入れた日本は、アメリカに憲法を押し付けられたうえ、アメリカに従属しなければ国際社会での地位を得ることができない国となってしまったという批判です。

著者
芦田 茂
出版日
2015-08-01

戦後に起こった国際紛争を丁寧にふり返り、それらがヤルタ・ポツダム体制の矛盾によって導かれたことを指摘しています。その一方で、第二次朝鮮戦争や第五次中東戦争を回避するために、アメリカが外交力と軍事力を駆使している事実を明らかにします。著者の目線は現実的で冷静であり、イデオロギーに偏ることなく多面的に戦後世界を思考しているのです。

本書はこれからの国際社会での日本がどのように舵を切り、何を優先課題として取り組むべきかを考える際の指針を示しています。

東欧の歴史からみるヤルタ会談

本書はヤルタ体制によって、民族の自決権を奪われ、戦後は東側に組み入れられ共産主義政権に支配されてしまった東欧の諸国の苦難が描かれています。第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国とオスマントルコが崩壊し、東欧の諸民族は独立国となったものの、経済的には大きく立ち遅れ、ナチスの台頭とともに、ドイツの勢力下におかれてしまいます。

その結果、独ソ戦が始まると各国も枢軸国として参戦し、ソ連と戦闘状態になりました。ドイツの勢力が敗退した後、つかの間それぞれが戦後の新しい国家を構想しますが、ヤルタで決定されたとおり、ソ連が指導する共産党により社会主義国家が建設され、独裁者の支配が続くのでした。

著者
小沢 弘明
出版日
1991-06-13

そしてそれから40年以上が経過すると、ソ連の弱体化とともに共産党政権は崩壊し、次々と新たな民主的な政権に移行していきました。たび重なる共産党の弾圧にもかかわらず、民族の伝統を守り、ついに自国民の意思による政府を打ち立てたのです。経済的にも自立し、EUの加盟も果たし、ソ連に政治経済を依存していたころを完全に払拭しています。

この本の最後で、著者は東欧の戦後と日本の戦後を対比させています。日本はアメリカの庇護のもと、経済成長を成し遂げ、世界有数の豊かさを手に入れたとされていることに対して、その真偽を問いているのです。

日本という国家のこれからを考えるうえで、参考になる他国の歴史があることを教えてくれる一冊です。

ヤルタ会談について探ってみると、意外な事実が多く隠されていることがわかりました。第二次世界大戦で崩壊した世界の秩序を、戦勝国の都合のいいように、多様性を無視して短時間のうちに決断されたというのがヤルタの真相だったのです。矛盾に満ちた冷戦の世界はヤルタから始まり、長期にわたり社会主義の害悪に苦しんだ国は今はもう解放されています。それでは西側に属した日本はヤルタ体制以後の展望に立てているでしょうか。今回紹介した本がそのことを考えるために役立つことを願っています。

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