「異文化・多文化」を受け入れ理解するために、私たちができること 

「異文化・多文化」を受け入れ理解するために、私たちができること 

更新:2017.10.31 作成:2017.10.31

皆さんは異文化というと、どういったイメージを持つでしょうか。おそらく「移民」や「外国」を連想する方が多いのではないかと思います。しかし、例えば「高齢者」や「子ども」も異文化を生きる人と解釈できるでしょうし、自分がよく理解していると思い込んでいる「隣人」も実は、自分には想像もつかない異文化を生きているかもしれません。年齢や性別といった点で自分と違う文脈で生きる人とどう通じ合い、どのように理解すればいいのか。その過程が描かれている漫画を紹介します。

富永京子プロフィール画像
立命館大学准教授
富永京子
1986年生まれ。日本学術振興会特別研究員などを経て、現在、立命館大学産業社会学部准教授。社会学的視角から、人々の生活における政治的側面、社会運動・政治活動の文化的側面を捉える。著書として『社会運動のサブカルチャー化』(せりか書房)、『社会運動と若者』(ナカニシヤ出版)。個人ウェブサイトは kyokotominaga.com
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自分と違うものをどう受け入れ、どう理解するのか

この夏はウィーンで仕事をしていました。オーストリアのみならず、ヨーロッパをめぐるホットでセンシティブな主題として「移民」の人々に関するものがありますが、街頭のデモや選挙で主張されるマニフェストからもそれを強く感じました。

だから、というわけではないのですが、今回のテーマは多文化共生・異文化理解です。実は、「異文化」は外国人や移民と言った人々に限りません。世代や出自、職業などの点で、自分と異なる背景を持つ「他者」との共生は大きな課題ですし、私たちがよく理解していると思い込んでいる「隣人」もまた、異文化の担い手でありえます。

自分とは違う文脈で生きる人々とどう通じ合い、どのように理解するか、こうした過程が描かれている漫画を5つ選びました。

女性、 移民労働者、アジア人――多様な人々をつなげる「抵抗の音楽」

著者
石塚 真一
出版日
2017-03-10

サックスプレーヤーを目指す青年、宮本大が仙台、東京といった都市を舞台に活躍する『ブルージャイアント』の続編。地元である仙台を出て東京へ、さらに続編『ブルージャイアント シュプリーム』ではドイツへと進出しますが、上京した時以上の困難に晒されつつも活躍の場を少しずつ広げていく、というストーリーになっています。

前作との大きな違いとして、舞台がドイツという異国の地であること、ミュンヘンという交通の要衝であることが挙げられるのではないでしょうか。実際に大は、到着した印象を「色んな人種」がいる「面白そうな国」という言葉で表現していますが、もちろん面白いばかりではありません。

最初に彼が「お金」に加えて「言語」に関する問題に直面することからも、その困難が見て取れます。また、アジア人であることを理由にライブハウスでのプレイを断られるという事態も、東京では経験し得ないものです。

たとえ貧困で資源的に恵まれていなかったとしても、「日本人の男性」というマジョリティーであった大は、ミュンヘンに来ることでマイノリティーとしての立場を経験するのです。

一方で、言葉が通じないからこそ、言葉以外のコミュニケーションが強調されることもまた確かでしょう。なかなかライブハウスでプレイする機会を得られなかった大は、路上での練習中、「グリーン・ドルフィン・ストリート」をリクエストする中年女性と出会います。

リクエストに応えて演奏したところ、防寒のためのグローブを贈られ、ハグを交わす……という短いエピソードですが、言葉が全く通じていないにもかかわらず、相互に意思が通じ合っているシーンは感動的です。

また、大は居候先の大学生・クリスの助けを得ながら、徐々に演奏の場を得て、コンビを組むメンバーを探し求めてミュンヘンに加え、ハンブルクへと移動します。そこで繋がる人々にもぜひ注目して欲しいと思います。

大がやりとりをする人々は「女性」であるために周囲の人々とうまくやっていけず、思うようにプレイできないベーシスト・ハンナや、移民労働者のドライバーといった人々といった、この土地や職業において「マイノリティー」とされる人々なのです。

こうしたさまざまな点で、前作に比べ今作は、まさにカウンターカルチャーとしての「ジャズ」の本領を発揮している、ということができるでしょう(この点について興味のある方は、ぜひ佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』なども参考にしてみて下さい)。このような時代だからこそ、多くの人に読んで欲しい一作です。

「生きる」ことに共通の問題を老いという目線から描く

著者
おざわ ゆき
出版日
2016-11-11

80歳のおばあちゃんが主人公、というセンセーショナルな設定で話題となった本作ですが、悲劇的な要素や問題性が強調されすぎず、誰でも楽しんで読みながら「自分だったらどうするか」「こんな事態をどう受け止める」といった点に想像を巡らせることができます。描き方や言葉遣いが優しさや丁重さに満ちているところも好ましく感じられます。

かつての人気小説家であったまり子さんは、同業者であった友人の孤独死や、四世代にわたり同居している自宅の改築をきっかけに家を出る決意をしますが、「外の世界」はまり子さんにとって生きやすい世界とは言えません。

彼女の最初の住処はネットカフェですし、行動をともにする猫・クロは飼い主に先立たれてしまっています。幸いにしてまり子さんは手に職があり、恋愛の相手も八百坂さんという資産家ですが、かといって若い頃の仕事や恋愛ほどうまくいくわけではありません。

八百坂さんとまり子さんは、お互いに伴侶を亡くした独身者同士、倫理的には何も悖ることのない恋をしているのですが、高齢者同士というだけで相手の親族からは「色気づく」「何考えてんのよ」と責められてしまう、つまり「無理解」に直面しているのです。

実際に高齢者同士の恋愛に対する社会的偏見は根強く、そのような報道をテレビや新聞記事などで目にしたことのある方もいるかと思います。しかし、家族が変わっていく中で八百坂さんとまり子さんが孤独を感じ、新たな伴侶を求めたいと考えるのも至極自然なことでしょう。

熟年層は若年層に比べて高い孤独感を抱えているにも関わらず、恋愛による充足がままならないという点で課題を抱えた存在であり、二人の恋愛はこうした状況を如実に反映していると捉えられますが、彼らより若い人々には理解されていない状況があります。

さらに、まり子さんが直面する最初にして最も大きな問題として「居住」があります。いつまでもネットカフェに住むわけにもいかない彼女は、貸ビルのオーナーである女性の力を借りながら家を探そうとするものの、それも困難を極めます。

オーナーは「いろんなものが足りてない」まり子さんに、保証人である家族の署名を要求しますが、これもまたすんなりと解決しません(さらに言えば、現在もまり子さんは八百坂さんやちえぞうさんの家を転々としているため、居住に関する問題は未だ解決していないことになります)。

こうした課題は高齢者のみならず、貧困状態にある人々や血縁・地縁を持たない海外からやって来た人にも共通の問題と言えます。

「老いる」ことは私達共通の課題ですが、それと同時に、社会の周縁で生きざるを得ない人々が、どのような課題に直面し、私たちはそれにどう対処するのか、そういった問いに想像を巡らせることのできる作品です。

危機に直面したとき、ほんとうの「異文化」が立ち現れる

著者
真造 圭伍
出版日
2016-02-12

「地球移住計画」の先発隊としてやって来た宇宙人である器用な弟・冬之介と、不器用な兄・夏太郎が「トーキョー」で織り成す日常を淡々と、どこか爽やかに描いた漫画です。

著者である真造圭伍氏は、映画化もされた『森山中教習所』、また『ぼくらのフンカ祭』など、友情や青春といったモチーフをドラマチックすぎず描く作風で知られていますが、この漫画に関しても東京の日常風景を背景に、兄弟の生活が綴られています。

宇宙人による「侵略」漫画というと仰々しい印象を持ってしまいがちですが、主人公たちの生活はとにかく淡々としています。日々の些細なエピソードを通じて、彼ら(主に冬之介)が移住者として人間たちの暮らしに溶け込み、なじもうと意識していることが分かります。

さらに、彼らが地球に「溶け込む」「なじむ」ことを目的として行動している点も興味深いところです。彼ら宇宙人の移住計画は、不器用なダメ兄である夏太郎に「仕事」と「彼女」が見つかれば成功。見事、ふたりは先発隊としての役割を果たし、本格的に移住計画が始まるはず、なのですが……。

彼らの移住計画がどうなるかはさておき、ここで「仕事」と「彼女」が「移住」の条件として挙げられている点は、非常に重要。移住者が異文化の適応に障害を抱える点として、行政手続や居住を挙げる声は多くありますが、「就労」に関する議論も数多く見られます。

実際に夏太郎は休憩中、スライム化している姿を顧客に見られたり、猫よけのペットボトルの水を飲んでしまったりと、東京での労働に適応できているとは言えません(ほか、移住者が抱える行政手続や居住の課題を冬之介と夏太郎がどう切り抜けているのかも著者としては気になります)。

しかし、社会学の視点から見てより興味深いと考えられるのは、彼らの身に危険が起きてしまう最終巻です。人間社会に適応し、それなりに人間との関係をエンジョイしていた冬之介は、ある事件を境に、人間の「男」に対する危機感をより強めることになります。

「事件」(逆境)が、それまで不可視化されていた属性的な差異や格差(ここでは「男」「女」)を明確にし、その社会の問題を可視化するきっかけになるという事実は、実はアメリカの災害研究などで明らかになっています。では、地球と人間の問題を可視化した彼らは、その後どう生きていくのか? それはぜひ、本作を読んでみて下さい。

バックステージとフロントステージが生み出す葛藤が理解を生み出す

著者
坂井 恵理
出版日
2017-02-17

「子育て漫画」というと、東村アキコ『ママはテンパリスト』や西原理恵子『毎日かあさん』といった漫画家自身によるルポルタージュを想像する人が多いのではないかと思いますが、一方で『セブンティウィザン』や『うさぎドロップ』といった出産・子育てのストーリーを描く漫画もあり、『ひだまり保育園おとな組』もそのひとつです。

とりわけ群像劇形式になっており、特定の主人公を設定せず、「子育て」をめぐる様々な役割――例えば「パパ」や「ママ」と呼ばれる、家庭内で養育を担う人々や、子どもを預かる「保育士さん」、パパ・ママの「同僚の人々」といった「おとな」の役割を強調して描く点が個性的な漫画だといえるでしょう。

私たちはこの作品を通じて、一見すると上述したような「役割」に隠れてよく見えない隣人の「異文化」性を垣間見ることができます。その理由は、この漫画が持っている仕組みにあります。

この漫画の特徴は、登場人物の「フロントステージ」と「バックステージ」が複数のエピソードから多面的に見られること。フロントステージ/バックステージとは、人々をドラマの「パフォーマー」と見なし、他者(オーディエンス)の前で社会的役割を演じる場(フロントステージ)と、パフォーマーがフロントステージでの役割から解き放たれるオーディエンスなき場(バックステージ)の二つに社会を区分する概念です。

例えばこの物語には一貫してゲイであり保育士である「まさと先生」というキャラクターが出てきます。彼は自宅の中では、同性と同居し、同じく同性のパートナーを持つ女性との間に子供をもうけた存在でありつつ、一方でそうした側面を見せず淡々と働く「男性」保育士でもあります。

この両面は、二つの話を読むことでしか分からない(さらにキャラクター同士も分からない)わけですが、二つの姿を見せることにより、「表」だけでも「裏」だけでもわからない、その二つを行き来する人々に想像をはせることが可能になるのです。

多くの場合、自宅や親しい人間関係の中で見せる「裏」と、公共の場や労働の中で見せる「表」の間には葛藤があり、自分の理想と違ったり、倫理観に反するような振る舞いでもやらなくてはならないときがあります(社会学者のゴフマンはこれを「役割葛藤」と呼びました)。それは子育てや労働といった多面的な場をもつ「おとな」であればなおさらそうでしょう。

そして、マイノリティーと呼ばれる人々かそうでないかによらず、こうした「葛藤」は共通して抱かざるをえない感情でもあるでしょう。誰でも持ちうる感情を通じて他者への理解を作り出す、長く続いて欲しい漫画です。

「日本文化はハイコンテクスト」は本当か?

著者
瀧波 ユカリ
出版日
2006-04-21

異文化コミュニケーション論で多く見られる概念として、「ハイコンテクスト/ローコンテクスト」があります。実際に、日本社会では空気を読まなくてはいけない、曖昧なコミュニケーションから成り立っている、言語で明示されない意志が数多くある……といった議論は、専門的な研究に携わっていなくても一度は聞いたことのあるものでしょう。

こうした議論を文化人類学者のエドワード・ホールは「ハイコンテクスト/ローコンテクスト」という概念から整理し、その上でいくつかの国々を「ハイコンテクスト文化」「ローコンテクスト文化」へと分類しました。

日本は典型的な「ハイコンテクスト文化」として分類されますが、果たしてそれが実際に検証されているのか? という点には、多くの疑義が呈されています。

ハイコンテクスト文化/ローコンテクスト文化を捉える際に興味深い漫画として、瀧波ユカリ氏の傑作ギャグ漫画『臨死!!江古田ちゃん』が参考になります。24歳の独身女性「江古田ちゃん」は、東京都練馬区でユニークなアルバイトに首を突っ込みつつ、本命(?)彼氏「マーくん」との恋愛関係に身をやつし、ときに愛らしく獲物を射止める「猛禽」女子に呪詛を浴びせながら都市生活を楽しんでいます。

江古田ちゃんの周囲もまた、個性的な友達揃いでやりとりを見ているだけでも楽しめますが、彼女にはフィリピン人の「リンダ」やイラン人の「モッさん」、白人の「サム」といった海外から来た友人もいます。

江古田ちゃんの振る舞いで興味深い点は、日本文化がハイコンテクストではないという証明のみならず、日本文化をハイコンテクストだと思い込む日本人自身を客体化することによって、よりメタ的にハイコンテクスト文化をめぐる認識を捉えようとしている点です。とりわけ、イラン人のモッさん(モハメド)の居酒屋で行われるコミュニケーションは興味深いものです。

多くの場合、モッさんの出てくるシーンにはもう一人キャラクターがいて、江古田ちゃんとモッさん、そのキャラクターの三名で対話するのですが、モッさんがまじめに働いているのを見て「日本人より日本人らしい」と褒めるキャラクターに対してモッさんが怒ったり、「イランは人が沢山亡くなるので危険」という言葉に対してモッさんが「日本だって毎朝人身事故で人が死んでる」と言ったりと、「日本人は真面目」「イランは危険」といったステレオタイプに対抗しようとします。

中でも、「何かにつけて『日本人だけ』って言ってんのも、日本人だけだろうな!!」という台詞は、ある種こうしたコミュニケーションの核心を突くものでしょう。

ここでは紹介できませんが、白人の彼氏(?)サムと江古田ちゃんのコミュニケーションも、ある意味「日本」にこだわることの不思議さを別の角度から論じた興味深いものです。面白い「あるある」満載の漫画ですので、ぜひ手に取ってみてください。

今回は以上です。明確に、国籍や性別が「違う」人だけでなく、あなたの隣にいる、いつも「同じ」ように感じる人々でも、当たり前ですが全く異なる背景を持って過ごす「異文化」の人と言えます。今回紹介したような漫画を読みながら、「異なる」こととは何なのか、理解しあう/共生することとはどういうことなのか……と考えてもらえると、とてもうれしく思います。

この記事が含まれる特集

  • マンガ社会学

    立命館大学産業社会学部准教授富永京子先生による連載。社会学のさまざまなテーマからマンガを見てみると、どのような読み方ができるのか。知っているマンガも、新しいもののように見えてきます。インタビューも。