家族のなかでも、母と娘は1番近い存在でありながらこじれやすい。その関係の在り方は十人十色で、解決方法もいまだはっきりとしたものは提示されていない。だが「しんどい」と口に出すことでなにかが変わる、ということはわかってきた。本記事では『母と娘はなぜこじれるのか』という本を紹介しながら、母娘関係の複雑さを具体的な事例とともに見ていく。
もうここ最近ずっと、母の目を見ていない。
簡単な、共同生活を送るうえで必要最低限の会話しか交わしていない。
「今日は夜ご飯いらない」「お布団干しておいて」とか「いってきます」「わかった」とか。
「おやすみ」は言わない。私が、母の寝た後に帰宅するから。
そんな家庭の状況を、私は誰に話す気も起きない。「どうしてそんなことになっちゃったの?」と聞かれても、ひと言では到底答えられないからだ。
私と母の間には、何か決定的な事件があったといえばいくつもあったし、けれどそれだけではなくこの20数年間で積もり積もった無数の小さな出来事が横たわっている。きっと誰も、私と母以上に2人の関係性を理解することはできないだろう。
ずっと、自分の家庭だけが異常だと思っていた。というよりも、「異常」だと思うのは自分があまりに出来損ないだからだと思っていた。
生まれつき出来損ないだから、母が求める理想に追いつけない、だから怒られる、それは結局私が悪いってことなんだ、どうして私はこんなにも駄目なんだろう……こんな思考回路を堂々巡りしていた。
だが同時に、なぜこんなに干渉されなければいけないんだろう、こんなのは「私」の人生じゃない、と心の奥底で叫んできた。母への罪悪感を抱きながら、それでもどうしても納得しきれない違和感とともにに生きてきたのだ。
大人になるにつれ、飲み会でぽろりとこぼれたひと言を拾って、たくさんの本や雑誌を読んで、SNSを覗いて、「母との関係に悩んでいるのは私だけじゃないんだ」と知った。
親子関係のなかでも、母と娘の関係性は歪になりやすい。その在り方は千差万別で、万人にあてはまる型などはない。だから難しい。
それでも、なぜそうなったのかを考えることはできるし、「しんどい」と口に出すことはいけないことではない。
母という存在もまた、完全な人間ではないのだから。
それを教えてくれるほんの一例として、母娘関係を読み解いたある対談本を紹介したい。
最近、さまざまなメディアで「毒親」という言葉が頻出するようになった。
この言葉に明確な定義はない。だが一般的には暴力や暴言、ネグレクトや過干渉といった、大きく括ると「児童虐待」と呼ばれる行動によって、子どもに毒のような影響を与える親のことを指す。
精神科医の斎藤環が、母娘関係について5人の著名な女性と対談した『母と娘はなぜこじれるのか』。第一章では、毒親に育てられた経験を描いた『母がしんどい』の作者、田房永子さんとの対談が収録されている。
- 著者
- ["田房 永子", "角田 光代", "萩尾 望都", "信田 さよ子", "水無田 気流"]
- 出版日
- 2014-02-22
母は「永子のものは私のもの」という振る舞いを常にしていました。学校、友達、先生、仕事、人生……。私に何の相談もなく突然習い事が決まっていたり、かと思えば急にやめさせられて中学受験することが決まっていて、受ける学校も決まっている。(中略)
私はそういったことに「おかしい」と反発する子どもでしたが、「誰が学費を出してやってんだ」「イヤなら出て行け、温泉宿に住み込みでもして働け」とよく言われました。
そう言われると何も言い返せないから、母の言いなりになるしかなくて、いつも心に怒りが満タンに入っているような状態でした。(『母と娘はなぜこじれるのか』より引用)
毒親の在り方はさまざまだが、田房さんの母は過干渉の支配型だ。
田房さんは、今でこそこうして母のおかしな点を指摘している。しかし、大人になるまでずっと「母はおかしい」ということを他人と共有できなかったと言う。
母は定期的に「うちは離婚してないし、借金もないし、ギャンブルもしないし、お父さんは働いているし、本当に幸せよね」と笑顔で言ってくるので、「うちはとても恵まれているんだ、ありがたいと思わなくちゃ」とも思っていました。(『母と娘はなぜこじれるのか』より引用)
母娘関係を語る際の難点のひとつは、どの体験談も数値化しがたいところだ。
「○○がつらかった」「母の○○が嫌だ」「どうしても許せない」
こうした声はあくまで主観で語られるし、極めて個人的な話になる。家庭内というプライベートな空間は目撃者も少なく、客観的目線が入りづらい。
だから、たとえ身近な人間に話しても「よくあることだ」というひと言で片づけられることが少なくないのだ。
確かに、母という存在が子どもの成長のために負荷をかけてくるというのは、「子育て」という局面において多々ある光景だ。大きな例として、受験勉強のように、強制的にやらされることで将来のためになることも多い。
母の行動が結果的に「毒」になるのか「薬」になるのか、判断が難しいのだ。
本作では、母親からの悪影響を「呪詛」と称して分析している。
斎藤:田房さんのなかで、同じ影響と言っても呪詛とそうでないものの区別はどこで付けていますか? 今困ることと、今困らないこと?
田房:そうです。
斎藤:それを考えると、結婚も成立して、職業がちゃんと立派に成立しているのも、お母さんのおかげと言うと嫌かもしれないけれど、それはいい副産物というかいい影響であって、呪詛と言うまでもないということになりますかね。
田房:そうなんです。皆さん悩んでいるのは、そうやってお母さんに言われたことの中にいい影響もあるからなんです。(中略)結局、最終的にお母さんに感謝しなくてはいけないという苦しさがあるんですよね。
斎藤:そこなんだよね。だから、母親の嫌な部分だけ殺せれば、本当にいいんだけど、生き方に対する影響はみんなセットになっていて、全否定も全肯定もできないというところがあるので、そこらへんの選り分けが難しいですよね。(『母と娘はなぜこじれるのか』より引用)
これらの話からは、「母は毒親だ」と認識すること自体の難しさが浮かび上がる。これまで親という存在は、社会のなかで絶対的な立ち位置にいた。「よそはよそ、うちはうち」と、家庭の在り方の違いは無条件に肯定される。そのうえ、育ててくれる、食べさせてくれる、家事をしてくれる、学校に行かせてくれる……。恩を数え上げればキリがない。
「○○されるのがしんどい、つらい」という理由だけで親を非難していいのか、わからないのだ。異常性に気付かなければ、抵抗もできない。
その意味で、「毒親」という言葉が登場したこと、彼らを扱ったコンテンツが出はじめたことは、大きな1歩だったといえる。「毒親」の存在が明確に浮き上がってきたことで、子どもが自分の親を判断する材料が増えたからだ。
実際に、私も田房さんのエッセイ『母がしんどい』を読んだときは衝撃を受けた。「ああ、言っていいんだ」と気づいたのだ。
- 著者
- 田房 永子
- 出版日
- 2012-03-23
「母がしんどいです」と、私もずっと言いたかった。しかしそもそも家庭の悩みは言いづらく、話したとしても「よくあるって」「それはしんどいね」と返されるだけだった。
そうして、母の悩みを口に出すことをやめた。あれはきっと母なりの愛情表現だし、今さら変わってはくれないだろう。このまま大学卒業まで耐えて、逃げよう。そう無理やり納得して、小さくて孤独な抵抗をくり返して生きてきた。
けれど大人になった今、彼女がかけた「呪い」に気付き始めている。母は怒りが最高潮の時によく「お前は本当になんにもできねえなあ」とくり返し叫ぶ。私はいつしか、ああそうか、自分はなんにもできないんだ、と思うようになった。
でも大学に入っていろんな経験を積んで、小さな自信を拾っていくことができた。私にも、なにかできるんじゃないか。
そんななか、就職活動が始まりつつある。私は今、「やっぱり自分にはなにもできないんじゃないか」という不安で立ち竦んでいる。こんな私がどこかの業界を志望することすらおこがましいのではないか、と。我ながら病的なものを感じるし「ああ、これは確かに呪いだ」と思う。
『母がしんどい』を読んでから、私は母と闘うようになった。これまで受け入れてきたいろんなことを拒否するようになり、反論するようになり、距離をとるようになった。
母との楽しい会話も苦しい罵倒も享受してきたあの頃と、会話もなく波も立たない現在と、どちらが幸せなのかはわからない。今は心穏やかな日々だけれど、あの頃を思うと少し泣きそうになる。
田房さんの母との闘い方は、私とはまた少し違う。『母と娘はなぜこじれるのか』に登場する、母に悩まされた娘たちの闘い方は、どれも一様ではない。
ほんの一例として、田房さんの闘い方をここに抜粋しておきたい。
田房:二十九歳になって、自分の結婚式をしたとき、母の要求に応えられない自分を反省することに疲れ果ててしまいました。応えても応えても、母は満足してくれない。だけど私の「こうしてほしい」という要求には一切応えてくれない、ということに気付いたのと、父の言動がきっかけになって、両親と決別することを決めました。ベランダに侵入されたりしてから、両親に引っ越し先の住所を教えないようにしていたので、行動としては電話の着信に出ないくらいで済みました。(中略)
決別してから二年くらいは罪悪感で苦しくて、精神科のクリニックに行ったり、催眠療法を受けたりしました。(『母と娘はなぜこじれるのか』より引用)
ここまでくり返してきたように、母娘関係および毒親問題は、最近話題に出はじめたテーマだ。その性質上、客観的に語ることが非常に難しく、まだまだ議論の余地がある。
だから、いまできることは「しんどい」と認識することだ。そのために議論を続けていくことだ。
『母と娘はなぜこじれるのか』は、精神科医かつ男性である斎藤環をぶつけ役に、母娘関係にさまざまな立場から対峙してきた女性たちの声が詰まっているバランスの取れた一冊である。
母娘関係に悩む人、興味のある人はぜひ手に取って、1ページでもいいからめくってみてほしい。