最近、Twitterのハッシュタグ#MeTooの動きなど、フェミニズムの論調が活発になっている。ジェンダー云々はごく一部の人々の話だと思っていた人もいるだろう。しかし、私たちの文化に根付いた、多分野に渡る知っておきたい学問なのである。
『お姫様とジェンダー』はタイトルからすると読者が限られるようにも見えるが、ジェンダー論の入門書として非常に適している。著者の若桑みどりが川村学園女子大学でおこなったジェンダー学の講義(主にディズニーのプリンセスストーリーを見て批評的に読み解く、といった内容)をもとにして書かれた本ではあるが、学問としての歴史から、丁寧に解説している。
- 著者
- 若桑 みどり
- 出版日
- 2003-06-01
人類が原始的なくらしを送っていた途方もなく長い間、生命の産み手である女性は部族の中で中心であり、尊重されていた。それが私有財産や国家などの権力組織ができた社会では財産、つまり「モノ」を生産する男性が、「生命」を生産する女性の上位にたって、女性の生産力を私有するようになったのである。エンゲルスはそのことを「女性の人類史的敗北」と呼んでいる。(17貢)
男女共同参画法が15年以上前である2002年に成立し、男女平等はとっくに意識されているようにも見えるが、じつはいまだに人々の意識下で男女差別は蔓延している。
それは文化にも表れていて、文化が描くステレオタイプな男女像が人々の意識や心性を想像しているので、文化での男女の表象されかたから手をつけていこうというのが、著者がディズニーのプリンセスストーリーを授業の教材にする狙いだ。序章の「プリンセス 世界の女の子の「かなわぬ夢」」は、古典的な、他力本願の幸福を望むプリンセスを「文化的詐欺」であると否定して始まる。
かわいくなる。素敵なドレスを着る。髪の毛を長くさらさらにする。[…] それはみな彼女が愛されるため、そして結婚とお金と地位を手に入れるため、つまりは幸福とは結婚とお金であり、そしてその幸福を手に入れるのは、彼女自身の身体の手入れによっているのだということを、それは彼女に教えるのである。しかし、どんなに彼女が努力したところで、その夢は絶対に実現しない。(43貢)
お姫さま物語は話が結婚式で終わってしまうが、このように結婚と家庭が女性にとって唯一最高の幸福だとおとぎ話が宣伝しても、実際はそれらが女性にとって最大の不幸でもあり得る。
そして、プリンセスが年とともに老いてしまう現実にも、著者は容赦なく切り込んでくる。若さと美しさだけを価値として教えられた女性たちが、年をとるとともに自分の価値観を見失ってしまう、というケースが世界中転がっているという。
プリンセス童話の中では、若いお姫さまと意地悪で年老いた魔女の対立という姿であらわれ、若い女性は自分を白雪姫の側においているが、その後の半生は魔女の側に入ってしまう。そして、じつはその変化の視線(魔女の鏡)は男性の視線だ。本書には、ディズニーアニメを見た後の学生とのディスカッションが載っている。
このステレオタイプ(型にはまった)の勧善懲悪(勧美懲醜)が、男性たちの「策略」であることを一人の学生は気付いている。「それは、男性からみて好ましいと言うことにすぎません。」つまり、男たちがジャッジになって、女たちの美を闘わせるのである。(96貢)
女性同士の戦いをセッティングして男性に都合の良い女性像を示してきた、というトリックには気づくべきであるが、「じゃあ男性が悪い」と男性ばかりを批判するのがフェミニズムではないと大阪大学の牟田和恵先生は述べる。
実際、フェミニズムやジェンダー論の類の話題が苦手な男性の気持ちはわかるという。フェミニズムの論調が進むにつれ、男性にかけられた抑圧や縛りも明らかになってきた。
卒業後安定した就職をし、サラリーマン生活に邁進しなければ「落伍者」の烙印を押されかねない男子学生たちにくらべて、女性たちには、人生の選択肢が広がっている。キャリアウーマンの道をめざし、男性と伍して企業社会に入るもよし(もちろんそれは簡単ではないのだが)「腰かけ」に甘んじつつ若い時代を旅行や趣味に打ち込むこともできるし、親の経済状態がゆるすならば「家事手伝い」と称して、優雅な高等遊民時代を楽しむことすらできる。
男性にとって女性が社会進出してくることは、既得権益の消失や仕事におけるライバルの増加とも映りやすいし、社会的にも上記のように、男性には不寛容で女性には寛容なジェンダー観もみられる。
しかし現代、「男女平等」「個人の自由」の実現が望まれるという潮流に歯止めをかけるのは難しいし、もう時代は戻らないだろう。だから男性たちも自身の自由のためにこそ社会を変えるのを目指そう、というのが本当のジェンダー差別の解消なのだ。
作中に、ジェンダーの哲学者ボーヴォワールが『眠れる森の美女』に言及している引用箇所がある。
変化・発展を望まないなら、死と眠りのなかにいるしかない。眠りにおいてヒロインの美貌は凍結されるが、そこには孤独なナルシシズムしかない。外界を排除するそのような自己陶酔のなかには、苦悩がないかわりに、知識の獲得もなければ、さまざまな感情の経験もない。
ボーヴォワールなどジェンダー批評家にかかれば、私たちが幼いとき憧れたおとぎ話もこのように強烈に批判されてしまうし、女性自身も変わろうとすべきだと彼女は言いたいのだろう。
そして、ジェンダー論を語るにあたっては、その人のバックグラウンドも重要なポイントであると認識されていることが多い気がする。
元気なのは、女性集団を抜け出して、男性と同じことをやろうと思っているエリートの女だけである。(22貢)
化粧やダイエットに命をかける子は「普通の」女の子なのだ。そしてこの「普通の」女の子が大部分だし、それが将来この国を支える女性たちなのだ。(45貢)
こうあるが、著者は決して特権階級の女性という視点でもなく、読み進めていくうちに、学生に対して温かい目線でジェンダー学を教育している姿が見えてくる。
「おわりに」の章で「お姫様、自分で目覚めなさい」と学生に対するメッセージのように綴っているのも印象的だが、専門分野は違うにもかかわらず、長らくこれからのジェンダー・女子教育と向き合ってきた人ならではの、経験に基づいた一冊だ。
斎藤美奈子の『紅一点論』は、『お姫様とジェンダー』がアカデミアの様式をまとっている文章なのに対し、独特の切り口、視点でアニメ・伝記のフェミニズムを批評している。
- 著者
- 斎藤 美奈子
- 出版日
- 2001-09-01
解説の姫野カオルコの文体まで独特なので、感性が強すぎて無理だという人も多いだろう。本書では、伝統的なアニメのジェンダー観への問題提起は多くなされているが、具体的な結論にまでは踏み込めていない。
しかし、ジェンダー論を体系立って学びたいという人には向かないにしても、ジェンダーをアニメから論じるにあたっては、避けて通れないのが『紅一点論』だ。アニメや伝記を、軍国主義的な「男の子の国」と幻想的な「女の子の国」に、女性キャラクターや伝記の人物を「魔法少女」「紅の戦士」「聖なる母」「悪の女王」と類型化した上で批評を繰り広げるのは若干強引ながらも、勢いからか説得力をもって読める。
著者の類型を用いて『セーラームーン』を
「男の子の国の枠組みをフルに活用し、女の子の国のディティールをすべて投入したアニメである」(140貢)
と歴史の上での斬新さを評価しつつも、
「そもそも、戦って→殺す、という男の子の国のコンセプトじたいが、女の子の国が伝統的につちかってきた「愛」(とは何だ)路線と矛盾する」(148貢)
など、人気が大きくなってしまったが故に生じてきた『セーラームーン』終盤の矛盾を指摘するあたりまでは勢いがある。しかし著者も「迷路にはまり込んだ「女の子の国」」と題しているように、セーラームーン後のアニメの流れは複雑さを増す。
似たような少女ヒロイン(ヒーロー?)ものを論じた本に『少女と魔法—ガールヒーローはいかに受容されたのか』(須川亜紀子 2013)があるが、そこでも『セーラームーン』後の議論は『まどマギ』などに移行するも、まとまりに欠けていた印象にあった。ちょうどそのあたりで時代も多様化、国際化したため、文化の表象を論じるのは難しくなったのかもしれない。
本書で『セーラームーン』の後に『ガンダム』『エヴァンゲリオン』に話を広げている部分は、多く語られ尽くされたアニメ論の分野ではあるが、著者独自の理念形としてまとまっている気がする。しかし、その後ジブリ作品に類型パターンをあてはめたのは無理矢理感があったし、伝記の登場人物のトリビアも蛇足な気がした。
『お姫様とジェンダー』『紅一点論』で惜しむべきは、出版年次が古いため情報が古いところだ。古典的なディズニー作品は確かにグリム童話を改変して「伝統的な女性像」を提示してはきたが、『アナと雪の女王』『ラプンツェル』などの主体的なヒロインが、現在は多く生まれている。
また、『紅一点論』の分類をもって現在のアイドルアニメなどを分析したら、新たな発見があって面白いだろう。ジェンダー論はTwitterで話題にはなったが、背景や知識を踏まえなければインターネットで簡単に拡散される扇動的な情報に乗っかってしまいがちだ。そういったものに対する批判的な視点をもつために、文化という切り口からジェンダー論を分析するのは、とっかかりとして意義があることだろう。
- 著者
- 須川 亜紀子
- 出版日
- 2013-04-24