名前もよく知らない男の人が口の中に指を入れ、ペンチに力をかけて歯を一本抜くというのは医療行為でなければただただおそろしい暴力だ、これは許可された暴力だ、と思いながら頭の奥に砂漠のようなジャリジャリとした音を聞いているうちに奥歯は綺麗にポロリと抜けた。
砂漠に咲く花のことをいっぱい考えよう、と思っていたけれどつぶった目に浮かぶのは粉々になる歯ばかりだった。
わたしが許可した、わたしの望んだ暴力は寸前までわたしを後悔させる。
清潔なタオルで視界をシャットダウンさせれ、金属を置いたり口のなかの体液を吸ったりすると音だけがとても鮮明に聴こえるので、わたしは両手で膝掛けをぎゅっと掴んでただただ口を開ける。
打たれるたびになにも感じなくなる麻酔でわたしの口のなかがどうなっているか、わたしにはわからない。
始まってしまえば終わるまでストップをかけられない、こんな時に地震が来たらどうしようと怖くなる。地震やその他の天変地異はせめてすべての歯科医院の営業時間外に、と、つい思ってしまう。
歯を抜くと妙な高揚と疲労があり、歯医者に行った後は必ず小一時間眠り込んでしまう。
抜いたばかりの歯についた自分の肉片を爪で削り取りながら、ゆっくり歩いて家へ帰り、その日も昼過ぎから夕方まで死んだように眠った。
今日の朝までたしかに一緒に生きていた歯は、わたしが望んだ暴力によってあっけなく死んだ。
粘膜のなかで潤っていた奥歯はいま、血と肉を失くしかさかさと白く乾いて骨らしくなっていく。
一週間後、ふたたび歯医者へ行った。
抜歯してから腫れはなかったものの、常にどんよりとした鈍痛が左顎にあり、笑ったり怒ったりすると地味にいたいのでしばらくはできるだけポーカーフェイスで過ごしていた。
親知らずのあった穴にはもうすっかりかさぶたができて塞がり始めている、はずだったのに依然として歯茎には深めの穴が空きっぱなしだった。
名字しか知らない歯科医のひと曰く「かさぶたができていないから骨が露出している」とのことだった。硬いものと辛いもの、お酒をしばらく控えて、痛み止めを飲んでいれば大丈夫という程度だったので、穴に軟膏を塗ってガーゼで塞いだあと、薬をもらって帰った。
下の親知らずを抜歯した友達が、一週間後くらいにお酒を飲んだら頰がぱんぱんに腫れて三日くらい入院していたのを知っていたのでこの一週間、それはそれは慎重に過ごしていた。
米どころ、酒どころ新潟へ行ってもお酒には触れもせず、元々予定されていた飲み会も(仕事で行けなかっただけだけど)行かなかった。
気づけばもう10日以上お酒に近寄っていない。
そしてそれは、友達と会っていない日にほぼ相当する。
愕然とした。酒呑みの人間関係は健康と飲酒によって繋がっていたのか。
寂しくなって親知らずで入院した先の友達にビデオ通話をかけた。
彼はその日も胃腸炎で死にかけていた。画面越しの彼は冴えない顔色で、飲むヨーグルト片手にどうでもいい話にちょうどいい茶々をいれまくった。
気づけば1時間以上経っていた。喋りすぎた。笑いすぎて地味にいたい。
痛み止めを飲んで寝た。
親知らずを抜いてから歯のことや、合意の上での暴力のことを考えていたら思い浮かんだ本をご紹介いたします。
- 著者
- 川上 未映子
- 出版日
- 2010-07-15
奥歯といえばこの本。中学のころ図書室で借りて読んでうわあああ、と揺さぶられました。怒涛の文体が、詩とか落語とか演劇の言葉のように強く体の奥へなだれ込んできます。
- 著者
- 谷崎 潤一郎
- 出版日
- 1951-02-02
親密なふたりの間に認められた暴力は、読んでいるだけで目をつぶりたくなるようなシーンもなんだか美しくもの悲しく、ページをめくりながらうっとりしてしまう瞬間があります。
電線読書
趣味は電線、配線の写真を撮ること。そんな女優・石山蓮華が、徒然と考えることを綴るコラムです。石山蓮華は、日本テレビ「ZIP!」にレポーターとして出演中。主な出演作は、映画「思い出のマーニー」、舞台「遠野物語-奇ッ怪 其ノ参-」「転校生」、ラジオ「能町みね子のTOO MUCH LOVER」テレビ「ナカイの窓」など。