文系学生が〈多様性〉について、生物学的な側面をふまえて考えてみる。

更新:2021.11.12

多様性の重要性が今日叫ばれている。そんなのいらないのではという声も聞く。多様性とは普遍性とは正反対の概念だ。しかし、唯我独尊的な現代人は自分の外の有象無象のものに興味を持ちにくい。つまり、個人と普遍の中間の多様性の重要さが理解されにくい。

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阪大、オセアニアの授業より

阪大外国語学部 箕面キャンパスの授業で、オセアニアの生物の映像を見た。色とりどりのサンゴ礁、魚と貝、鳥と昆虫、そうして繰り返す食物連鎖・・・。食い入るように映像美を見つめた。しかし、こうした映像が作られるのは、自然環境が破壊されてきていることを警鐘する目的である。

なぜ現代では生物多様性が軽視されがちなのだろうか。そして、なぜ「多様性」は大事なのだろうか。生物学者である本川達雄氏の『生物多様性』を読みながら考えてみた。

著者
本川 達雄
出版日
2015-02-24

科学(とくに物理学)においては、1回きりだったり特定の地域限定のものは普遍的ではない特殊なことであり、無価値であるという。

各生物に歴史があり、特定の場所にしか住まないからこそ多様性が出てくるわけであるが、そういうわけで普遍の真理を求める科学と「多様性」は折り合いが悪い。科学的なものが重視される現代だからこそ、生物多様性の大切さを理解することが困難になるようだ。

ところが生物の場合、まったく同じ個体は存在しません。われわれ個々人はそれぞれ違う個性をもち、人間の定義など古来山ほどあってどれも言い尽くせてはいないわけで、そういうものを、どうやってまとめて種という生物学の基本の単位を決めるかは大問題です。そういう基本中の基本のところから、生物学は困難に直面してしまうのですが、これは、生物という存在は一つとして同じものがない、つまり生物は本質的に多様だということに由来します。(165貢)

著者によると「少々違っていても自分と同じだ」という面をひとつのものの中に持っているのが生物だそうだ。このようにして、そもそも生物とは何か?をダーウィンの進化論からメンデルの遺伝の法則〜という風に説明されてゆく。

そして、生物学は私たち人間自身について考える側面もある。だからこそ本書の副題が「「私」から考える進化・遺伝・生態系」なのだ。

どこからが私?

ところで、私自身が周りの人に私だというイメージを与えているのは体や思考の特徴、つまり個体としての特徴ばかりではない。持ち物、家族、友人、学校、過去の業績等、さまざまなものが統合されてひとりの人間のイメージが作られており、自分自身もそのようなものから自分は自分だと思い込んでいる。

自分から地位や持ち物すべてを取り除かれたら自分は自分だと思えるだろうか。

そのようにすべてを奪われてアウシュビッツ収容所に送り込まれ、人間の人格が崩壊していくさまは『夜と霧』の中で、精神分析学者の作者により描かれている。そして、老いるとともに思い出などもぼんやりしてきて、仕事もしなくなり、ますます「これが私である」という証拠は危うくなるような気もする。

著者
ヴィクトール・E・フランクル
出版日
2002-11-06

こうした観点から『生物多様性』の後半部で、著者は「私とは誰か」について西洋思想(主にデカルト、ニュートン)の欠点を挙げながら哲学的に考察し、科学信仰や数値主義について批判し始めるので、あれ生物学の本のはずだったのにと一瞬混乱する。

他方で、こうしてさまざまな論をもってせねば現代人にとって生物多様性は理解しずらい概念だということも納得できるし、著者も生物学の観点だけではこの「多様性問題」を語ることができないのは十分わかっているのだろう。

「利己主義は大いに結構。でもその己とは何かを考え直して欲しい。このままでは日本も地球ももたない。己の子どもたちの暮らしもあやうくなる。次世代も環境も〈私〉だとみなす、時間的にも空間的にも広い利己主義にすれば、まわりとも未来ともつながった豊かな己を実現できる。そして〈私〉も社会も永続できる」(276貢)

オセアニア諸国などの自然環境が破壊されている原因は、南北対立、つまり南の貧困、人口増加。そして世界の人口2割にすぎない北の資源の使いすぎだ。

南の生物多様性の減少と引き換えに作られている食物の多くは、自分たちのものではなく北への輸出用である。それゆえ「北は少し我慢しなさい」というニュアンスが生物多様性条約の条文に盛り込まれているのだが、さまざまな政治的対立で議論が紛糾し、なかなか合意に至らない。

いつの間にか、環境や生物の多様性の問題の話だったはずが、経済学や政治学、人間と人間の問題などに広げて考えなくてはならなくなっているのが、こうした「生物多様性」の話だ。国際会議の場に行けば、開発途上国と発展途上国の利害対立の話し合いが完全にまとまることはなく、善意に満ちた「環境保全」の取り組みはどこへやらとなってしまう。

著者は「いち生物学者にすぎない私がこれらの問題を決して解決できない」というが、誰もがやるべき行動として沖縄旅行を勧めている。沖縄の海に潜って圧倒的生物多様性との出会いを持っているうちに、自然観も人生観も変わるという。

オセアニアの授業でも、先生が1月あたりにフィジー旅行へ行かれて、そのときの写真を見たり、お土産の果物を食べたりしたのが印象的だった。私も今からフィリピンに行くところでこの文章を書いている。あと東南アジアに留学した同級生は口を揃えて世界観が変わったと言っている。

オセアニア、東南アジア・・・自分とは違う生活や価値観を持った世界に飛び込むことで、功利主義から脱出した豊かさの価値を見つけることができるのだろう・・・と、もっともらしく結び、PCを閉じて空港から違う世界へ発つことにする。

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