美術や建築、音楽などについて論じた本、興味はあるけど何から読んだらいいかわからない。専門書は高くて手がでないし、難しそう。 本当の「はじめの1冊」は、廉価で、わかりやすく、それでも折に触れ読み返せるような、その度にたくさんのヒントをくれる本だと思います。 知らない名前がたくさん出てくるかもしれません。それでも、それを暗記してわかったふりをするようにあなたをいざなう文章はひとつもでてきません。 ボロボロになるまで繰り返し読んでいける、そんな「はじめの1冊」を選びました。
- 著者
- エルンスト・H. ゴンブリッチ
- 出版日
ゴンブリッチの『美術の物語』は、1950年に出版されてから、世界中で愛読されながら何度も何度も版を重ね、ついに数年前日本語にも訳された1冊です。この本の素晴らしい魅力のひとつは、同じ図版を繰り返し参照し続ける点にあります。その時代の人々が、過去の何を参照し、自分たちの生きる現在をどう自覚し、引き受けたのか。うねるような複数の「運動」が説得力をもって、そして柔らかな文体で描かれています。
そしてもう1点、本書の魅力を挙げるとすれば、それぞれの章が建築の描写から始まる点にあります。それぞれの作り手たちが、それぞれ勝手に生きていたのではなく、同じ時代に生きる者として、互いにどう影響を与えあっていたのかもうかがい知ることができます。
それはまさに美術を鑑賞する姿勢そのものと言えるかもしれません。
- 著者
- 松井 みどり
- 出版日
『美術の物語』は何度も増補がつけられ、現代の美術までの流れを追っていますが、本書は1980年代から1990年代の現代美術の動向を端的に辿った1冊となっています。考えてみれば、2000年以後に生まれた10代の人たちにとっては90年代はまるまるすっぽり歴史になってしまうのだなと気づかされます。
私たちは、自分が今生きている時代について「よくわかっている」と思っています。もちろんある面ではそれは間違いのないことですが、それゆえに、説明を省いてしまった結果、後で振り返るとイマイチよくわからない、ということは往往にしてあると思います。1980年代や90年代は「多様性」「多文化社会」「ポストモダン」と言った言葉で語られがちですが、本書はそこから一歩踏み込んで、当時の現代美術の趨勢を、ハル・フォスターやクレイグ・オーウェンスらアメリカの批評家たちの理論を紹介しながら考察した1冊です。
- 著者
- 五十嵐 太郎
- 出版日
- 2006-11-17
「形態と機能」「バロック」「斜線とスロープ」「全体/部分」「レム・コールハース」「住宅建築」「身体」「日本的なるもの」「戦争の影」「スーパーフラット」「歴史と記憶」「場所と景観」「ビルディングタイプ」「情報」「メディア」「透明性と映像性」の16章からなる、現代建築について考えるための一冊です。
章立てを全て掲載したのは、むしろ本書が出版された2006年の時点で、どのような問題が「現代」の問題として引き受けられていたのか、がありありと見えるからです。松井みどり『アート:“芸術”が終わった後の“アート”』と本書の2冊は、20世紀の後半部分という比較的現代の動向を丁寧に押さえた優れた入門書であると同時に(だからこそなのですが)、2000年代前半という、これらの本が執筆された当時の息遣いが浮き彫りになっている点もまた重要だと思っています。そこから、私たちは私たちの「現在」を考えることができるはずです。
- 著者
- 渡辺 裕
- 出版日
- 2012-02-23
『聴衆の誕生』ははじめ1989年に出版されましたが、数年前中公文庫のラインナップに加わり、手に入りやすくなりました。この本が書かれたころ、「自分たちが当たり前だと思っていることが実はつい最近作り上げられたものだった!」ということを明らかにしていく研究が盛んに発表されたように思います。(たとえば、北澤憲昭の『眼の神殿―「美術」受容史ノート』という本は、『聴衆の誕生』と同じく1989年に出版されていますが、「美術」という言葉が「近代」において入ってきた新しい概念であることを示した非常に重要な1冊です。)
『聴衆の誕生』もまた、「厳格な、物音ひとつ立ててはいけないコンサート」といった私たちの「当たり前」を掘り崩していく1冊となっています。この「当たり前は当たり前ではない」という態度はとても大切な身振りだと思いますが、一方で、「価値観は人それぞれ」「正解はない」「日本は特殊だからしょうがない」といった考え方に安易につながってしまう恐れもあります。渡辺裕や北澤憲昭、そして次に紹介する高山宏の本は、むしろその細部をじーっと見つめていくことが、とても大切なのだと感じます。彼らの本から味わえる知的興奮を、もっと健やかな地平へと開いていくことが何より重要に思っています。
- 著者
- 高山 宏
- 出版日
- 2007-07-11
『近代文化史入門 超英文学講義』はニュートンから始まります。それは奇をてらった「仕掛け」でもなんでもありません。彼はニュートンが18世紀における英文学において決定的に重要だと確信しているのです。「文学」を研究して閉じていくのではなく、むしろ文学を研究し尽くそうとすることで、文学の範囲を超えでていく、そういう姿勢が彼の本には常にあります。
例えば、「演劇を観ること」と「劇作を読むこと」、さらにそれが「音読」から「黙読」へと変化していくことについて考えてみると(このシェイクスピアの登場と排斥、個室の誕生、黙読や日記の習慣の定着までの流れは白眉です)、『聴衆の誕生』とも繋がり始めます。こうして少しずつ、過去の時代の解像度が上がっていきます。繰り返しになりますが、それは「閉じる」ためではなく「開く」ためにあるのです。もっとカッコつけて言えば、「未来」のための「細部」だと思います。
- 著者
- ["椹木野衣", "五十嵐太郎", "蔵屋美香", "黒瀬陽平", "新藤淳", "松井茂", "荒川医", "石崎尚", "遠藤水城", "大森俊克", "金井直", "川西由里", "菊池宏子", "櫛野展正", "窪田研二", "芹沢高志", "竹久侑", "土屋誠一", "筒井宏樹", "中村史子", "成相肇", "橋本梓", "服部浩之", "藤川哲", "保坂健二朗", "星野太", "桝田倫広"]
- 出版日
- 2015-02-27
自己紹介が遅れましたが、私はキュレーターという職業をしています。今回ひょんなことから執筆を依頼され、恐る恐る記事を執筆しています。最近では「キュレーター=展覧会を作る人」という大まかな理解に加えて、キュレーションメディアにおいて、いろんな情報を編集して伝える人という意味も加わっているようです。というわけで、今私は「キュレーターがキュレーションメディアで文章を書いている」という極めて現代的状況にいます。
本書はたくさんの実践者たちそれぞれのキュレーションの「現在」が掲載されています。現代美術は見方がよく分からない、と言われます。スポーツなどと違って明確なルールもないですし、おぼろげながらあるルールめいたものも、数が多すぎる上に例外が過ぎます。
私たちはあまりにたくさんのことをすぐ忘れ去ってしまいますが、一方で私たちはあまりにたくさんのことを忘れることができません。「過去」は「引き伸ばされた現在」として今もそこにいるようです。そしてどんどん予定は増えて、「未来」は「現在」へと含まれていきます。この、物理的な時間としては一瞬だけれども、人生においてはどうやら「ある程度の長さと質量」を持っているようである「現在」を、どうすればいいのか。どうやらヒントは、すべての人類は常に現在を生きていた(る)という事実にあるようです。それはゴンブリッチが『美術の物語』で全力で伝えようとしていた魅力に他なりません。そして、本書の執筆者たちが全力で伝えようとしていることでもあるのです。
※この記事は2016年11月16日に公開されましたが、いったん取り下げて再アップしたものです