安藤百福の知っておきたい8つの逸話!朝ドラのモデルになった生涯や名言など

更新:2018.10.11

NHK連続テレビ小説「まんぷく」のモデルとなった安藤百福。「チキンラーメン」や「カップヌードル」の生みの親であり、日清食品の創業者として知られる人物ですが、とんでもなく波乱万丈の人生を送っていたことをご存知でしょうか。この記事では、彼の生涯や名言、知っておきたい逸話と、おすすめの関連本をご紹介していきます。

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安藤百福の生い立ちと経歴。生まれは台湾!

1910年3月5日、当時日本の統治下にあった台湾で生まれた安藤百福(あんどうももふく)。「安藤」という姓は後に日本国籍を取得した際に名乗ったもので、元は呉百福という名前でした。

幼少期に両親を亡くし、繊維問屋を営んでいた祖父母のもとで育ったそう。高等小学校(現在の中学校)に入学する頃には自立して、自身と妹2人分の弁当を作っていました。グルメの宝庫として知られる台湾の食材を使い、試行錯誤しながらさまざまな料理に挑戦した経験が、後に活かされたとされています。

百福が実業家となったのは、1932年のこと。学校を卒業した後は祖父の繊維問屋を手伝ったり図書館の司書を務めたりしていましたが、資産家だった父親の遺産を元手に「東洋莫大小(東洋メリヤス)」を設立。22歳の時でした。

「メリヤス」とは、機械を用いて糸を編んだニットのようなもので、当時はまだ珍しいものでした。日本から製品を輸入して台湾で販売したところ大当たりで、事業は成功を収めます。

1933年になると、大阪にメリヤス問屋「日東商会」を設立。日本を本拠地とします。事業のかたわらで立命館大学の夜学に通い、勉学にも励みました。

1941年から1945年まで続いた太平洋戦争が終わると、日清食品の前身となる「中交総社」を設立。戦後の食糧難にあった世を憂い、栄養価の高い食品の開発を目指すこととなるのです。

その過程で、アメリカの余剰小麦を使った食品生産の研究をしている、厚生省の有本邦太郎という人物と知り合います。「パンやビスケットよりも、日本人になじみのある麺類を生産してはどうか」と進言すると、百福自身でその研究をするように勧められ、手軽に食べられるラーメンの開発に取り組むことになりました。

脱税の疑いで収監されるなど紆余曲折を経て、1958年に研究の成果が実を結びます。「チキンラーメン」という名前で販売が開始されました。

1966年には日本に帰化。1971年に「カップヌードル」を発売。さらに2002年には宇宙食ラーメンの開発に取り組むなど、飽くなき探求心を抱き続けました。

2007年に急性心筋梗塞のため96歳で亡くなりましたが、なんとその前日まで仕事をしていたそうです。長寿や健康の秘訣を聞かれると、必ず「毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」と答えていました。

ではここからは、彼の人生を追いながら、知っておきたい逸話を紹介していきます。

安藤百福の逸話1:戦時中にひどい拷問を受けた

 

安藤百福は太平洋戦争中に、厳しい拷問を受けたことがあります。

当時、軍用機のエンジン部品を生産する軍需工場の経営に携わっていた百福。ある日、国から支給されていた資材が何者かによって盗まれていることに気づき、憲兵隊に通報します。しかし彼自身が横流ししたという疑いをかけられ、逮捕されてしまったのです。

憲兵隊は百福を自白させようと棍棒で殴ったり、正座させた足の間に竹の棒を挟んだりといった拷問を加えました。元陸軍将校だった知人の口添えによって解放されるまでの45日間、満足に食事も与えられない環境で、耐え抜いたのです。

後にわかったことですが、憲兵隊のなかに横流しをした犯人の親戚がいたのだそう。この拷問により百福は内臓疾患を患い、後に2度の開腹手術を余儀なくされています。

 

安藤百福の逸話2:「日本マクドナルド」「日本トイザらス」創業者との交流

 

彼が大阪で事業をおこなっていたころに住んでいたのは、高級住宅地の千里山というところ。

この時隣家に住んでいたのが、後に「日本マクドナルド」や「日本トイザらス」を創業した藤田田(ふじたでん)の一家で、両家の間には交流があったそうです。
 

1926年生まれの藤田は、当時10代の多感な時期。安藤百福から受けた影響も大きかったのではないでしょうか。

藤田田といえば、無名の一高校生に過ぎなかった孫正義に「今のコンピュータはこの部屋ぐらいの大きさだが、これからはもっと小さくなる。そしてもっと必要になるので、アメリカでコンピュータの勉強をするといい」と助言したことでも有名です。このような先を見通す目も、百福から学んだのかもしれません。

 

安藤百福の逸話3:日清食品の企業理念「食足世平」

 

太平洋戦争の終戦を、疎開先の兵庫で迎えた安藤百福。翌年、大阪に戻ってきた彼が目にしたのは、戦後の食糧難にあえぐ人々の姿でした。

食べるものがなく、1杯のラーメンを求めて長蛇の列ができている状態。これを見た百福は、「衣食住と言うが、食がなければ衣も住もあったものではない」と感じたといいます。

人間にとって食は何より大切なものであり、文化も芸術も思想も、まずは食が足りてこそ生まれるのだと考えたのです。

彼がこの時抱いた思いが、現在の日清食品が掲げる企業理念のひとつとなっている「食足世平(食足りて世は平か)」という言葉に引き継がれています。

 

安藤百福の逸話4:妻へのプロポーズは1度断られた?

 

NHK連続テレビ小説「まんぷく」で、主演の安藤サクラが演じる今井福子のモデルとなったのが、安藤百福の妻・安藤仁子です。

彼女の父親の安藤重信は、大阪で人力車の会社を経営する実業家でした。しかし会社が倒産してしまうと、仁子は家計を助けるために京都の都ホテル(現在のウエスティン都ホテル京都)で働きに出ます。

ホテルでの勤務時代には、複数の男性から好意を寄せられていたとか。なかには仁子に振られたことが原因で自殺未遂をした人もいたそうです。

百福と出会ったのは、大阪の財界人が集まる社交場「大阪倶楽部」の受付をした時のこと。元陸軍中将・井上安正の紹介でした。

百福は7歳下の仁子に惚れ込み、熱烈にアプローチしますが、仕事に生きがいを見出しつつあった仁子は彼からのプロポーズを断りました。

それでも百福は諦めずにアタックを続け、大阪が空襲を受けている真っ最中の1945年3月21日に結婚しました。

なお安藤百福は台湾に居た頃に2人の女性と結婚しており、仁子は3人目の妻でしたが、戸籍上正妻として扱われています。

千里川での新婚生活は、第1夫人との間の子である安藤宏寿と、仁子の母である須磨を含めた4人でスタートしたそうです。

 

安藤百福の逸話5:「中交総社」を設立した後も災難続きだった

戦後の食糧難を目の当たりにし、「中交総社」を設立した安藤百福。まずは自宅近くの軍需工場跡地の払い下げを受け、そこに鉄板を並べて製塩業を営んだり、漁船を借りて漁業をしたりしていました。売れ残りの塩やのりを加えて作ったふりかけを近所の人々に配っていたそうで、そんな彼を慕って多くの若者たちが集まってきます。

百福は彼らの育成のために学校を作り、事業を手伝ってもらう代わりに奨学金を払っていました。しかしこれが、当時日本を占領統治していたGHQに目を付けられる要因となってしまうのです。奨学金は所得であり、源泉徴収して納税すべきであるのにそれをしなかったとして、脱税とみなされてしまいました。

裁判の結果、4年間の重労働の刑となり、巣鴨拘置所に収監。さらに個人名義で所有していた不動産などはすべて没収されてしまいました。

この処置は、GHQが実業家たちに納税の義務を果たすよう促すための「見せしめ」だったといわれています。

釈放された後も、百福には災難が襲い掛かります。収監中にこれまで営んでいた事業を整理し、ビジネスが振り出し状態に戻っていた彼は、大阪に新設された信用組合からの懇願を受ける形で理事長に就任しました。しかしこの信用組合の経営があまりにもずさんで、経営が破綻してしまったのです。

妻子を抱えて、文字通り無一文となった安藤百福。この時すでに47歳でした。当時の平均寿命を考えれば残された時間は多くはありません。

しかしそんな状況でも彼は絶望しませんでした。「失ったのは財産だけ。その分、経験が血や肉となって身についた」と語っています。強がりだったのかもしれませんが、このどん底の状況から百福の逆転劇が幕を開けるのです。

安藤百福の逸話6:チキンラーメンは自宅の小屋で開発された

 

再スタートを切った安藤百福は、インスタントラーメンの開発に着手します。

インスタントラーメンを考案するうえで、成功のためには「飽きのこない味」「常備できる保存性」「手間がかからずに調理できるもの」「安価」「安全かつ衛生的」という5つの条件をクリアする必要があると考えました。

そして大阪府池田市にある自宅敷地内に小屋を作り、早朝から深夜まで研究に没頭。睡眠時間がわずか2~4時間という生活を1年間も続けたそうです。そんな苦労と試行錯誤のすえ、1958年に「チキンラーメン」が完成しました。

ちなみにインスタントラーメンの味をチキンにした理由は、安藤百福の家族にまつわるエピソードがあります。

ある日、庭で飼っていたニワトリを絞めて食べようとしたところ、ニワトリが暴れてしまいあたりに血と羽毛が飛び散りました。その光景は、まだ幼い彼にとってはトラウマになるのに十分なものだったのでしょう。以来、鶏肉を食べることができなくなってしまったのです。

しかし鶏がらでとったスープだけは飲むことができたそうで、そのためラーメンの味はチキンになりました。

「チキンラーメン」が完成した頃の日本は、スーパーマーケットが大量に商品を販売する流通システムを確立させていた時期。またテレビでコマーシャルの放送が始まるなど、大きな変化が起きていました。

そんななかで、より簡単で便利な食事を求める消費者の心に「チキンラーメン」はぴったりはまったのです。うどん1玉6円の時代に1つ35円という強気の価格設定であったにもかかわらず、飛ぶように売れました。

また日本だけでなく、アメリカでも好評を得ます。これに手ごたえを感じた百福は「日々清らかに豊かな味を作りたい」との願いを込めて、社名を「日清食品」へ変更しました。

 

安藤百福の逸話7:「カップヌードル」開発のヒントはアメリカで

 

日清食品の製品のなかで、いまや「チキンラーメン」を凌ぐ存在になっているのが、「カップヌードル」です。

その開発のヒントとなったのは、安藤百福が海外視察で訪れたアメリカで見た光景でした。

日本と違い、アメリカには丼がありません。そのため彼らは「チキンラーメン」を食べる際、紙パックに入れて食べていたそうなのです。それを見た百福は「最初から容器に入っている」インスタントラーメンの開発に取り組みます。

こうして、容器が包装材料・調理器具・食器の3役を果たす画期的な商品「カップヌードル」が誕生しました。

「カップヌードル」が日本で売れるきっかけとなったのが、1972年に起こった「あさま山荘事件」です。この事件では、連合赤軍が人質をとって立てこもっている山荘を、機動隊員が包囲する様子がテレビ中継され、多くの国民が固唾を呑んで見守りました。

その際、機動隊員たちが「カップヌードル」を食べる姿がくり返し放送されたことで、大きな話題となったのです。

もうひとつ、世界の歴史を変えたかもしれないという噂もあります。

東西冷戦の最中、ソ連の人々は政府の情報統制により、自分たちの科学力は西側諸国よりもはるかに優れていると信じていました。しかしある日「カップヌードル」を食べて、びっくり仰天。日本がこんなに凄い技術をもっているのならば、西側諸国の方が優れているのではないかという考えが生まれ、ソ連の崩壊につながったともいわれています。

この話に関しては真偽のところは不明ですが、「カップヌードル」が世界の人々にどれほどの衝撃を与えたのかがよくわかるエピソードではないでしょうか。

 

安藤百福の逸話8:名言を紹介

 

波乱万丈の人生を送った安藤百福。96年の生涯のなかで、数々の名言を残しています。今回はそのなかから代表的なものをいくつかご紹介します。

「明確な目標を持ったなら、あとは執念だ」

目標を見定めたら、後はどんな困難や誘惑にも屈することなく執念を燃やし続けるのみ。進み続けていれば、アイデアやひらめきが生まれる時は来るのだという、安藤百福の経験にもとづく言葉です。

「転んでもただでは起きるな!そこらへんの土でもつかんで来い!」

無一文になったことさえ経験になった、と前向きに捉えていた百福。どんな状況でも、何かを得ることができるという教えです。

「人生に遅すぎるということはない。50歳でも60歳からでも新しい出発はある」

遅い出発だったといわれることに対する言葉です。即席麺の開発に成功した時、百福は48歳でした。人生はいくつになってからでも新しい夢をもつことができるという教えです。

「5年間必死で働く意志と体力さえあったら、年齢に関係なく必ず成功できる」

努力をすれば必ず一筋の光明を見出すことはできるという、安藤百福ならではの言葉です。成功に5年はかかるという意味ではなく、目標に向けて集中することの大切さを語っています。

目標はいくつになってももてるし、努力をすれば報われる。何度でも挑戦できるし、回り道をしたってかまわない……いずれの言葉も、安藤百福が人生のなかで磨きあげたものであり、強い説得力があるでしょう。

 

百福自身が語る「私の履歴書」

安藤百福 私の履歴書 魔法のラーメン発明物語 (日経ビジネス人文庫)

2008年08月01日
安藤 百福
日本経済新聞出版社

 

日本経済新聞から「私の履歴書」の執筆を依頼された時、安藤百福は断ったそうです。「自らの人生の浮き沈みを世の中に語って、果たして何の意味があるのか」というのがその理由。しかし担当者から「何か人に言えない具合の悪いことでもあるのか」と言われたことに反発して、執筆を決意したんだとか。

年齢を重ねてから誰も見たこともないインスタントラーメンの開発に挑んだ安藤百福。周囲からあれこれ言われたであろうことは容易に想像がつきます。

しかし、何を言われても目標に向けて執念を燃やすことを曲げなかったからこそ、未曽有のラーメンが誕生したのです。

百福自身が語る、彼の人生。開発に込められた想いを知ると知らないとでは、実際に食べた時の味わいも変わるかもしれません。

 

安藤百福の人生を漫画で読む

著者
出版日
2011-07-05

 

日本を代表する実業家を漫画で描く伝記シリーズの第2弾、安藤百福を取りあげています。

現在、世界中で年間950億食が消費されているというインスタントラーメン。世界の食文化を変えたといっても過言ではないでしょう。

その始まりは、大阪にある百福の小さな小屋でした。ガレージから始まったアップルのように、小屋から始まって世界を変えた彼の挑戦が描かれています。

憲兵による拷問やGHQによる逮捕、巣鴨プリズンへの拘置など、まさに波乱万丈な安藤百福の人生。漫画で読むと、よりいっそうリアリティをもって感じることができるでしょう。

 

インスタントラーメンを食べたことがないという方は、ほとんどいないのではないでしょうか。それほど日本の食文化に定着し、我々の生活になくてはならない存在となっています。開発者の安藤百福は、台湾から日本へと渡り、激動の時代を生きながら己の目標に執念を燃やし、実現させました。その人生から学べる教訓は、たくさんあるのではないでしょうか。興味をもった方は、ぜひ紹介した本を読んでみてください。

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