1972年から1973年まで『ビッグコミック』で連載された、手塚治虫の作品『奇子』。「漫画の神様」の作品といえば、誰もが知る『鉄腕アトム』や『リボンの騎士』などが有名ではないでしょうか。しかし、実は子供向けではない大人向けの作品も数多く存在するのです。 本作もその1つ。古い因習の残る田舎の旧家を舞台に、ある事件から1人の少女を巡って、肉親同士のドロドロの愛憎劇がくり広げられていきます。 本作はスマホの漫画アプリに無料連載されているので、気になった方はそちらもお試しください。
第2次世界大戦で日本が敗北し、終戦をむかえてから4年後の昭和24年(西暦1949年)。日本軍として出兵して、マニラに収容されていた天外仁朗(てんげ じろう)が、横浜港に復員してきた場面から物語は始まります。
彼は迎えに来ていた母ゐば、妹の志子(なおこ)との喜びの再開もそこそこに、1人である場所に向かいました。
- 著者
- 手塚 治虫
- 出版日
- 2010-11-12
実は仁朗が横浜に着いてから1人向かったのは、東京GHQ本部でした。彼は収容所にいる間に、米国側の工作員になっていたのです。それは、国のために戦った仲間への裏切りを意味していました。
そうとはわかりつつ、彼はGHQ参謀本部の言いなりにならざるを得ませんでした。戦後日本で起こった「国鉄3大ミステリー事件」の一翼を担い、それがきっかけとなって天外の家を破滅に導いていくことになることも知らずに……。
また、それと並行して、仁朗は戦地にいる間に生まれた末の妹、奇子(あやこ)と対面します。彼女は仁朗の母ではなく、兄の市朗(いちろう)の妻すえとよく似ていました。仁朗は色狂いの父親と義姉の不貞に気付きますが、天外家の肉親の裏切りと自身の境遇を重ねて苦悩します。
『奇子』には多くの人物が登場します。またその関係も複雑なため、紹介を兼ねて関係を整理したいと思います。
話の軸になるのは、400年続く旧家である天外家の人間達です。
まずは、天外仁朗。天外家の次男です。物語上で一時的に姿をくらます中盤を除いて、前半と後半で重要な役割を担う実質的な主人公で、同時に狂言回しでもあります。復員後にスパイとなって江野正(えのただし)殺害事件に関与し、それがきっかけで闇社会の一員となりました。
そして、本作のタイトルにもなっている天外奇子。彼女は体面上は天外家の末っ子とされていますが、実際は天外の家長が、自身の長男の妻に産ませた私生児です。天真爛漫な少女でしたが、仁朗の事件の証拠を目撃してしまったために、一族の不名誉が露呈しないよう土蔵地下に幽閉されることに。数奇な運命を辿り、妖艶な女へと成長することになります。
くだんの天外の家長が、天外作右衛門(てんげ さくえもん)です。強権を握る独裁者ですが、奇子のことを溺愛しています。
天外市朗は一族の長男で、徐々に作右衛門に変わって力を揮い始めます。父と妻すえの不貞を黙認していました。しかし思うところはあったらしく、奇子の幽閉を提案します。
長女の天外志子は一族ではもっともまともで、聡明な女性ですが、保守的な志向の家柄に反して共産主義に傾倒してしまい、勘当されることになります。仁朗が殺害に荷担した江野正とは、不運にも恋人同士でした。
そして三男の天外伺朗(てんげ しろう)。一族で庇い立てする仁朗の罪を単独で告発しようとするほど、賢く正義感の強い少年でした。しかし挫折を味わい、徐々に天外のやり方に染まっていきます。
天外家には他に、女中として、そして奇子の遊び相手としてお涼という知的障害の娘が出入りしています。彼女の行動もまた、事態が泥沼化する一因となります。天外家小作人の嫁に、作右衛門が産ませた私生児であることが仄めかされます。
江野正は、話の契機となる事件の犠牲者です。俗に「アカ」と呼ばれる共産主義の革新政党に所属しており、当初は彼をはじめとした共産主義者の弾圧、すなわち「レッドパージ」に関する事件かと思われましたが……。
事件を執念深く追いかける下田(げた)警部。国鉄3大ミステリー(をモチーフとした一連の事件)の担当刑事ですが、手口が酷似した淀山事件=江野正殺害事件に関わる仁朗の行方を追っています。
また下田警部の息子、波奈夫(はなお)は後半になって奇子と深い関係となっていきます。
『奇子』の物語は仁朗の事件、天外家の衰退、そして奇子の成長が描かれています。徐々に少女から女性へと成長をすると共に魅力を増すその姿に、読者も惹き込まれていきます。
初登場は4歳頃の幼少期で、おかっぱ頭がよく似合う可愛い盛りの女の子。そこから小学校高学年となって成長期に差し掛かると、背も伸び、胸も膨らんでいきます。無垢なあどけなさと少女性が同居する時期です。
青年期には、純粋さと麗しさを兼ね備えた、誰もが振り返る美少女になっていくのです。髪も長く、体は丸みを帯びて、女らしさが強調されます。
そして成年期には、妖艶な魅力が完全に開花。作中では、まるで脱皮するかのように、と表現されます。長く地中で眠る蝉のように、あるいは煌びやかな蝶に生まれ変わる蛹のように、彼女は段階を経て見違えるように美しくなっていくのです。
見た目の美しさに反して、精神面では幼さをみせる奇子。そのアンバランスが彼女の危うさ、そして妖艶ともいえるある種の不気味な雰囲気をつくりだしています。
- 著者
- 手塚 治虫
- 出版日
- 2010-11-12
本作では倒錯的、背徳的な情事が、ありありと描かれます。義父と嫁の姦通、近親相姦、レイプじみた行為まで、まさに大人向けの描写がなされ、その中心に、奇子の存在があります。
妖艶な雰囲気を持つ女性に成長した一方で、精神的には無垢なままの彼女には、常識も通念もなく、ただ本能的に男との交わりを求めていくのです。たとえ相手が腹違いの兄であろうと、ゆきずりで知り合った男であろうと。それが理不尽に囚われた彼女の処世術であり、安らぎなのでした。
不義によって産まれ、不憫を囲った奇子が情欲にまみれていく陰湿なエロスが、本作の魅力のひとつです。
彼女は本編の大半で、薄暗い地下に監禁され続けます。読者はもちろん、登場人物の何人かは彼女に対して同情的になります。罪もない少女を自由にしてほしい、自由にさせたい。そういう流れになっていくのです。
しかし、何度か自由になるチャンスがあっても、奇子はなぜかそれを拒絶します。狭い地下に慣れた彼女にとって、外界こそが恐怖の対象となるのです。
手塚治虫本人は、この物語について「自由」がテーマであると語っています。おそらく極限の不自由を徹底することによって、かえって自由の概念が強調されると考えたのでしょう。
奇子にとっての唯一の慰めは、快楽による忘我。自由を拒否し、肉欲に溺れていく様子は、何かおぞましいものを目撃したかのように、読者を不安に陥れていくのです。
最初の事件の余波が、じわじわと天外家と関係者を蝕んでいきました。
一家は物理的にも、精神的にもバラバラになっていましたが、最後には全員が運命的に故郷へと集まってきます。その状況はくしくも、奇子を土蔵に閉じ込める決定を下した親族会議と酷似していました。
それを仕組んだのは、常に奇子の肩を持っていた三男の伺朗でした。彼は天外家を弾劾し、そしてついに……。
- 著者
- 手塚 治虫
- 出版日
- 2010-11-12
物語がある1つの点に集束していきます。すべての事象は複雑に絡まり合った因果の末に起こったものでした。
関東で財を成した仁朗は何者かに狙われ、命を落としかけます。その原因は、彼が片棒を担いだ江野正殺害事件にあったことが判明。巨悪の存在がちらつき、スペクタクルを感じさせます。
奇子が歪められたことも、最後に親族が集まってくるのも、すべて最初の事件が発端なのです。
悲劇の連鎖は、どこに行き着くのか。人間性を浮き彫りにする妖しいホラーが描き出すものはなんなのか。美しくも不気味な結末、そして天外家の末路を見届けてください。
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いかがでしたか?手塚作品に『鉄腕アトム』や『リボンの騎士』のイメージしかなかった方には、もしかしたらショッキングだったかもしれません。しかし、子供向けから大人向けまで幅広く手がけたからこその「漫画の神様」であり、手塚作品には現代にも通じる普遍性があるのではないでしょうか。