世界妖怪研究会の一員としても名高い小説家・京極夏彦の人気作品「百鬼夜行」シリーズ。シリーズの第2弾であり、京極作品でもっとも有名であるのが本作『魍魎の匣』です。2007年に映画化され、さらに2008年にはアニメ化もされた本作は、ミステリーの傑作にして、日本の誇る妖怪小説。 しかし妖怪といっても、実体のある化け物としての「妖怪」ではなく、人間の闇を描いた概念として「妖怪」が描写されているのが、本作の興味深いところでしょう。その妖しい魅力を、ご紹介します。
女子中学生・楠本頼子(くすもと よりこ)と柚木加菜子(ゆずき かなこ)は、あるきっかけで一緒に帰宅したことから友人同士となります。そんな2人は、夏休みに入る頃、夜中に家を抜け出して湖に行く計画を立てるのです。それが、悲劇の始まりになるとも知らずに……。
時を同じくして、警視庁の刑事・木場修太郎(きば しゅうたろう)は終電で帰ろうとしていました。しかし武蔵小金井の駅で、電車が急停止してしまいます。
駅に降りた彼が周囲を見回すと、1人の少女がへたり込んでいました。それは、頼子でした。そして、線路の中には加菜子が……。湖へ出かけようとしていたところ、加菜子が何者かによって線路へと突き落とされてしまったのでした。
彼女にはまだ息があり、大急ぎで病院に運ばれます。付き添った木場は、そこで彼女の姉・柚木陽子(ゆずき ようこ)と出会うのです。彼女は、木場が憧れていた女優・美波絹子(みなみ きぬこ)でした。木場は、予想外の出来事に驚くこととなるのです。
加菜子の事故からしばらく経った後、巷では武蔵野連続バラバラ殺人事件が発生。
小説家・関口巽(せきぐち たつみ)は、懇意にしているカストリ雑誌(戦後の日本にあった大衆向け雑誌)の編集者・鳥口守彦(とりぐち もりひこ)より、バラバラ殺人事件の被害者の足が相模湖で発見されたと聞かされ、取材に同行することになりました。
しかし途中で道に迷い、巨大な箱のような建物に遭遇。そこの警備をしていた木場と出会います。その場所は、加菜子が治療のために転院した研究施設「美馬坂近代醫學研究所(みまさかきんだいいがくけんきゅうじょ)」でした。
加菜子は、とある財閥の人間の血を引いていたがために誘拐予告状が送られ、彼女の周りは多数の警察官によって警備されていたのです。しかし、周囲の人間がほんのわずかに目を離した隙に、彼女は誘拐されてしまいます。
その後、研究所の所長・美馬坂幸四郎(みまさか こうしろう)の助手・須崎太郎(すざき たろう)が殺され、さらに加菜子の保護者・雨宮典匡(あめみや のりただ)までもが行方不明となってしまい……。
いくつもの謎が複雑に絡み合った事件は、どういった展開を迎えるのでしょうか。
- 著者
- 京極 夏彦
- 出版日
- 1999-09-08
本作は京極夏彦の妖怪をテーマとしたミステリー「百鬼夜行」シリーズのなかでも、最高傑作に該当する作品です。作者の京極は世界妖怪協会の一員で、かの有名な水木しげるの弟子でもあり、名実ともに日本で著名な妖怪研究家の1人。
本作は実写映画化、アニメ化もされるほど人気を博し、映画では主人公の中禅寺役に堤真一、彼の妹の敦子役には田中麗奈、そして本作の需要人物・頼子役は谷村美月が演じました。
1950年代の日本を舞台にしたストーリー。探偵役は、古本屋にして拝み屋、「京極堂」のあだ名で呼ばれる中禅寺。ワトソン役は、小説家の関口です。今回の物語の中心的人物となる刑事・木場、彼の幼馴染で探偵の榎木津礼二郎(えのきづ れいじろう)、そして敦子が物語の基盤となっています。
本作は、加菜子が電車に轢かれて重体となるところから始まります。彼女は巨大な箱のような施設「美馬坂近代醫學研究所」で治療を受けて一命をとりとめますが、その直後に謎の失踪を遂げてしまうのです。
そして事件の背後には、研究所の所長で医学博士の美馬坂や、関口の知り合いで若手小説家・久保竣公(くぼ しゅんこう)も関わっていて……。
結末では、旅行に行っていた京極堂の友人・伊佐間一成(いさま かずなり)が、旅先であるものを目撃します。それは一体、どういったものなのでしょうか。
加菜子が行方不明になった後、木場は友人の川島新造(かわしま しんぞう)に聞き込みをします。その際、美馬坂が戦時中、フランケンシュタインの怪物を創る科学者、と言われていたということを聞きます。
木場の部下である青木文蔵(あおき ぶんぞう)の捜査によると、あの研究所では大型類人猿を買い付けて実験台にしているという噂があり、地元の人たちは気味悪がって「箱」と呼び、あそこに怪我人が入ったら2度と戻れないと話しているらしいのです。
実は美馬坂は、戦時中から人体の一部を人造物に変えることで、死なない人間を創りだすという研究をしていたのです。それが、フランケンシュタインの怪物を創るという噂話に繋がっていたのでした。
一見ホラーのように思える話ですが、美馬坂の視点からだとSFの要素の強さを感じられます。しかし、どちらにせよ、薄気味悪いことには変わりありません。
一方バラバラ殺人事件でも、遺体の発見された場所で礼服を着た箱を抱えた幽霊を見た、という奇妙な怪談話が発生。そして頼子は、黒い服を着た男に加菜子が突き落とされたと証言するのです。情報は錯綜し、謎は深まっていきます。
犯人や事件の真相がわからないがゆえに恐怖は勝手にふくれあがり、怪奇性が増していくのが本作の興味深いところでしょう。
しかし、本作の探偵役・京極堂は、その恐怖の根源である謎を解体して、こう言うのです。
「この世には不思議なことなど何も無いのだよ」
(『魍魎の匣』より引用)
加菜子は電車に轢かれた時、身体を激しく損傷していましたが、研究所に連れていかれて一命をとりとめます。しかし、その後、彼女は誘拐されてしまうのです。誰が、なぜ、拉致したのか。
本作では、謎の男が彼女を連れている描写があります。しかし、その時の彼女には手足がなく、箱に収まった状態で生き続けているのです。
美馬坂は、彼女にいかなる治療をほどこしたのでしょう。想像するしかありませんが、きっと手足の損傷が激しかったために、切除せざるをえなかったのでしょう。しかし、彼は人体を人造物に代える研究をしていたはず。切断した手足の代わりは、用意できなかったのでしょうか。
彼は不死の研究をしていたようですが、その「不死」とは何を意味しているのでしょう。人体を人造物に代える研究は、やはり成功しなかったのでしょうか。
一方、バラバラ殺人事件の被害者達の遺体は、とある建物の中で発見されます。彼らは手足を切り取られ、箱の中にみっしりと詰まった状態で死んでいたのです。
検死をおこなった医師・里村紘市(さとむら こういち)は、犯人は実験をしたかったのではないか、と言うのです。女の子をさらって、手足を切り落として、胴や首を何かに使いたがっていた。つまり、胴や首を何かの実験に使っていたということです。
さらに酷いことに、犯人は被害者が生きているうちに、手足を切り落としていたということが判明します。
犯人は、加菜子のような状態で生きられる人間を造りたかったのでしょうか。そうだとしたら、同じような実験をおこなっているこの犯人と美馬坂の間には、いかなる関係があるのでしょうか。
攫われた加菜子は、誘拐犯らしき人物と一緒にいるところを1人の男に見られています。その男は、この時このように思っていました。
匣の中には綺麗な娘がぴったり入ってゐた。
日本人形のやうな顔だ。勿論善く出来た人形に違ひない。
人形の胸から上だけが箱に入ってゐるのだらう。
何ともあどげない顔なので、つい微笑んでしまった。
それを見ると匣の娘もにつこり笑って、「ほう。」と云った。
ああ、生きてゐる。
何だか男が酷くうらやましくなつてしまつた。
(『魍魎の匣』より引用)
「ほう」とは基本的に、感心したり安堵したりした時に出る声なので、笑ったときに出るような声ではありません。ここから考えられるのは、加菜子は手足だけではなく臓器まで損傷してしまったがために、声が出せなかったのかもしれないということでしょう。
匣の娘を見た男は、ひどく羨ましく思います。彼は几帳面な気質で、箱のようなものがあると、何かをみっしり入れないと気が済まない性質だったようです。
そんな彼から見て、箱にちょうどよく収まった加菜子の姿は、まさに「理想」だったのかもしれません。そして、「匣の娘」が喉から手が出るほど欲しくなってしまった彼は……。
本作に登場する事件は、4つあります。
1つ目は加菜子を線路に突き飛ばした殺人未遂事件、2つ目は研究所で起きた加菜子の誘拐事件、3つ目は武蔵野市で起きた連続バラバラ殺人事件、そして最後は謎の新興宗教「穢れ封じ御筥様」の事件です。
穢れ封じ御筥様は三鷹に本部を構えており、修行僧である山伏の恰好をした男が教主。彼は、背中に背負った箱の中に魍魎を封じ込めて、お祓いをするというのです。
しかし鳥口の調査により、信者の関係者に、バラバラ殺人事件の被害者が多くいることが判明。京極堂達は、教主が事件の犯人ではないかと疑いを持ちます。
そして事件には、関口の知り合いの小説家・久保も関わっていることを突き止めるのです。さらに彼には、他の重要人物との関わりもあって……。彼はこの事件に、どのように絡んでくるのでしょうか。
一方、頼子の証言によると、加菜子を突き飛ばした男は黒衣の服を纏った男のよう。研究所でも、黒衣を身に纏い、手袋をはめた男が目撃されていました。その男は、バラバラにされた女の子が生前会っていたと言われている人物の姿とも、一致しています。
そして、本作の最大の謎である加菜子の誘拐ですが、彼女は木場を含む周囲の人間が、ほんのわずかに目を離した隙にいなくなってしまいました。実は、この独立しているように見える事件も、他の事件と関係があったのです。
一見無関係なように見える、今回の事件。普通に考えてしまうとそれぞれが別の犯人で、計4人の犯行に思えますが……。謎が謎を生んで、物語が複雑さを帯びてゆくのが本作の醍醐味。これらの事象を整理して真相を解き明かすのが、本作の見所でもあります。
「百鬼夜行」シリーズに出てくる妖怪は、いわゆる怪談やホラー小説に出てくる妖怪ではなく、人がある事件に遭遇した際に抱く先入観や、思い込みなどを妖怪になぞらえた、概念のようなものを指します。
「魍魎」とは、本作で引用されている江戸時代の妖怪画家・鳥山石燕の『今昔画図続百鬼』によると、
形三歳の小児の如し、色は赤黒し、目赤く、耳長く、髪はうるはし。
好んで亡者の肝を食ふと云。
(『魍魎の匣』より引用)
と記されています。元来は中国の妖怪で、墓の四方に出てきて死体を漁ると言われている存在なのです。ここから伝わってくるように、決して人から好まれる妖怪ではないことがわかるでしょう。
しかし「魍魎」は、上記のような存在である他、水の神、山や川に住む妖怪ともいわれています。「魑魅魍魎(ちみもうりょう)」という言葉からもわかる通り、どんな存在なのかはっきりせず、その正体は不明なのです。
つまり本作における「魍魎」とは、姿形のはっきりわからない存在である、犯人のことを指しているのでしょう。さまざまな事件、実体の掴めない犯人像、その得体の知れない不気味さは、まさに「魍魎」です。
そんな「魍魎」に翻弄されるなか、やがてその輪郭が見えてくることになるのです。
「百鬼夜行」シリーズは、コミック化もされています。作画を手掛けているのは 『怪・力・乱・神 クワン』『夜刀の神つかい』などの代表作で有名な、志水アキです。
- 著者
- 志水 アキ
- 出版日
- 2007-12-01
流麗なタッチで描かれる漫画版は、キャラクターのビジュアルが非常に個性的。関口は冴えない男、京極堂は痩せぎすな気難しい男、木場は怖面のいかつい大男という具合に、原作のイメージを崩すことなく再現しています。ファンにとっては、とても嬉しい逸品といえるでしょう。
さらに、戦後の日本特有のざらついた空気感がうまく出ており、原作ファンだけでなく、昭和の日本に興味のある方にも読んでいただきたい作品です。
志水アキは、他の「百鬼夜行」シリーズの漫画化も手掛けていますので、ぜひチェックしてみてください。
物語の後半に向かうにつれ、徐々に真相が明るみになっていきます。
加菜子の殺人未遂事件の犯人は、なんとも意外な人物だったのです。しかもその動機は、実に身勝手なもの。その人物は、加菜子を神聖化しておりそれゆえにこの犯行を犯したのでした……。
さらに「穢れ封じの御筥様」の事件も、京極堂によって打ち破られます。そして、加菜子誘拐事件とバラバラ殺人事件についても、明らかになっていくのです。そこにはさまざまな人物の思惑が複雑にからみ合い、それぞれが動いた結果、大きな悲劇を招いたのでした。
そして、研究所でおこなわれていたことも、ついに判明します……。
しかし、そんな事実が判明するなか、木場は憧れの陽子を思うがあまり、美馬坂が加菜子を実験台に使ったのだと思い込むようになります。ついには研究所に乗り込んで、美馬坂に銃を向けてしまうのです。
- 著者
- 京極 夏彦
- 出版日
- 1999-09-08
そこへ、榎木津と関口、そして陽子が駆けつけます。そして榎木津は、木場を一喝して正気に戻らせると、高らかにこう言いました。これは、事件の終わりを告げる、本作を代表する名言でもあります。
「今日これからー物語に終わりを齎すために、
ある陰気な男がここに来ることになっているのです」
(『魍魎の匣』より引用)
そして事件の関係者が集まってくると、黒衣の衣装に身を包んだ京極堂が現れ、美馬坂にこう言うのです。
「今日は、魍魎退治に伺いました」
(『魍魎の匣』本文より引用)
そして、この研究所で、人々の思い込み、先入観、誤解、概念を取り払う「憑き物落とし」が開始されることになります。京極堂は持ち前の博学さと論理、そして巧みな話術によって、事件の謎を解き明かしていくのです。
「百鬼夜行」シリーズにおける最大の見せ場、京極堂の「言葉の格闘戦」ともいうべき事件関係者達との舌戦は、まさに必見でしょう。
そして、ついに明かされる真実。点が線になり、事件の全貌が明らかになります。この事件に関わった人々がとり憑かれた、「魍魎」の正体とは……。
「百鬼夜行」シリーズは通称「レンガ本」と呼ばれるほど分厚いのですが、本作『魍魎の匣』も例外なく分厚い書籍です。しかし読んでみると、ページをめくる手が止まらなくなってしまうほど面白い作品。ぜひ、この機会に!