朝鮮半島を二分し、韓国と北朝鮮を隔てている「北緯38度線」。多くの悲劇を生み出してきた場所でもあります。この記事では、2つの意味をもつ38度線の概要や成立の経緯、板門店の状況などをわかりやすく解説していきます。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。
第二次世界大戦時、日本に併合されていた朝鮮半島。アメリカやソ連などの連合国と敵対していました。戦争の末期に「ヤルタ会談」が実施されると、アメリカとソ連の間で朝鮮半島を分割して統治する取り決めがなされます。当時は暫定的に北緯38度線が境界線とされ、南側をアメリカ、北側をソ連が占領しました。
北緯38度線を境界線としたことは、アメリカの官僚ディーン・ラスクと、軍人のチャールズ・H・ボーンスティール3世が決めたそう。朝鮮半島の地図を見ながらちょうど二分する場所を探し、なおかつ首都のソウルをアメリカ側に組み込めるため、理想的だったのです。その後1950年に「朝鮮戦争」が始まるまでは、韓国と北朝鮮の「国境線」とされていました。
ちなみに「朝鮮戦争」が停戦した後の両国の境界も38度線と呼ばれていますが、こちらは「軍事境界線」で、あくまでも実効支配地域の境目です。
つまり朝鮮半島において「北緯38度線」とは、「朝鮮戦争前の国境線」と、「朝鮮戦争停戦後の軍事境界線」という2つの意味をもっているのです。
太平洋戦争末期の1945年8月9日、「ヤルタ会談」にもとづき、ソ連は日本との間で結んでいた「日ソ中立条約」を破棄して日本に宣戦布告。満州国および朝鮮半島北部への侵攻を始めます。
このままだとソ連が単独で朝鮮半島を占領しかねないと危惧したアメリカ。8月10日から11日にかけて「国務・陸軍・海軍調整委員会」を開き、「北緯38度線で暫定分割する」という案を策定。ソ連側に提示をし、8月16日に同意を得ました。
そして「ポツダム宣言」を受諾した日本に対し、北緯38度線以北の日本軍はソ連に、以南の日本軍はアメリカに降伏するように命令が出されたのです。
ポツダム宣言では、南北朝鮮半島を米ソの軍政下に置いた後、時期を指定せずに統一朝鮮政府を選ぶ自由選挙をおこなうことが決められていましたが、立候補資格を巡って米ソの利害が対立。特に、選挙がおこなわれた場合に不利になると考えられたソ連側は、設立した朝鮮労働党を中心にボイコットをし、結果的に南北が別々に選挙をすることになったのです。
最終的に1948年、北側には金日成を首班とする朝鮮民主主義人民共和国、南側には李承晩を大統領とする大韓民国が建国されました。
米ソによる分割統治の境界線だった北緯38度線は、両国の国境となったのです。
北朝鮮の金日成は「国土完整」、韓国の李承晩は「北進統一」を掲げ、いずれも相手を屈服させることによる朝鮮半島の統一を目指します。
一方の中国では、毛沢東率いる中国共産党が、蒋介石率いる国民党との内戦に勝利し、1949年に中華人民共和国を建国しました。敗れた国民党は台湾に逃れます。
第二次大戦中は日本と戦う国民党を支援してきたアメリカですが、1950年に中国人民解放軍が国民党を追撃しても台湾に介入しないとする声明を発表。結果的には国民党を見放してしまいました。
アメリカのディーン・アチソン国務長官は、1月に「アメリカが責任を持つ防衛ラインは、フィリピン・沖縄・日本・アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任を持たない」と発言。北朝鮮の金日成はこれを「アメリカによる韓国放棄」と受け取りました。3月にはソ連を訪問し、スターリンに開戦の許可を求めます。
スターリンは「毛沢東の許可を得ること」を条件に容認。ソ連軍の軍事顧問団に韓国を侵略する「先制打撃計画」を立案させ、数百両の戦車を含む大量の武器と、ソ連軍に所属する朝鮮系軍人の朝鮮人民軍移籍などを認めます。
金日成は5月に中華人民共和国を訪問し、毛沢東から「北朝鮮による韓国への侵攻を中華人民共和国が援助する」というお墨付きを得ました。
そして6月25日、北朝鮮は宣戦布告をしないまま韓国への攻撃を開始。当時の軍事力は北朝鮮の方が優位であったこと、農繁期であったため韓国軍の大半が警戒態勢を解除していたこと、前日に宴会があって軍幹部が気を抜いていたことなどがあり、各所で韓国軍は敗退を重ね、滅亡寸前にまで追い込まれます。
アメリカ軍を中核とする国連軍が実行した「仁川上陸作戦」をきっかけに息を吹き返した韓国は、10月1日、北緯38度線を越えて北朝鮮領への侵攻を始めました。10月26日には元・日本陸軍曹長だった林富澤大佐率いる部隊が、中国と北朝鮮の国境である鴨緑江に達するなど、朝鮮半島統一を間近とする情勢まで持ち込みます。
この状況に、中国は中国人民解放軍を「義勇兵」という名目で派兵。約30万もの大軍が鴨緑江を渡りました。彼らは志願軍とも呼ばれ、最終的には100万人規模に達したそうです。中国軍の介入によって戦線は押し戻され、やがて北緯38度線付近で膠着状態となりました。
1953年7月27日、板門店にて北朝鮮と中国両軍、国連軍との間で休戦協定が結ばれます。この時に軍事境界線として設定されたのが、北緯38度線です。
軍事境界線には、南北に幅2kmずつ、計4kmの「非武装中立地帯」が設定されています。長さは、朝鮮半島東部の漢江河口部右岸から西部の金剛山付近の海岸まで、約248km。
この境界線は海上にも延伸し、北方限界線(NLL)と呼ばれてますが、韓国側と北朝鮮側で主張するラインが異なり、たびたび衝突が発生する要因にもなっています。
報道などで耳にする機会が多い板門店は軍事境界線上にあり、この場で停戦協定が調停されたことから、朝鮮半島の南北分断を象徴する場所です。
1953年10月には、停戦を監視する「中立国監督委員会」と「軍事停戦委員会」が設置され、協定の遵守状況を監督してきました。
「中立国監督委員会」は、朝鮮戦争において中立を宣言したスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの4ヶ国によって設置され、それぞれの国から将校が派遣されています。冷戦後はチェコとポーランドが脱退し、2019年現在はスイスとスウェーデンの2ヶ国が、毎週火曜日に最新情勢について韓国と北朝鮮に送付する報告書を作成しています。
「軍事停戦委員会」の会議場は、板門店の中心にある施設です。会議場の中心にテーブル、その中心にマイクが置かれ、韓国側と北朝鮮側の双方の見学者は、会議室内では軍事境界線を越えることが可能になっています。
会議場周辺には休憩施設として、韓国側に「自由の家」と「平和の家」、北朝鮮側に「板門閣」が設置されているのも特徴です。
板門店と、その周辺800m四方の「共同警備区域」には、韓国軍とアメリカ軍を中心とする国連軍と、北朝鮮軍の双方が境界線を隔てて警備についています。かつては区域内であれば両軍の兵士の往来は自由に認められていましたが、1976年8月に起きた「ポプラ事件」をきっかけに、区域内での軍事境界線も厳格化されることになりました。
「ポプラ事件」とは、北朝鮮が共同警備区域内に植えたポプラが国連軍の監視所の視界を遮るほどに成長したため、国連軍がこれを剪定しようとしたところ、北朝鮮は作業の中止を勧告。国連軍側がこの勧告を無視して作業を続行したため北朝鮮軍が襲撃し、アメリカ軍のアーサー・ボニファス大尉とマーク・バレット中尉が殺害された事件です。
自国の将校を殺害されたアメリカは強硬にポプラの伐採を主張。ヘリコプターや戦闘機、爆撃機、空母をはじめとする機動部隊まで出動させて、ポプラを伐採したのです。一時は「朝鮮戦争」の再開も危ぶまれる事態となりました。
朝鮮軍は自動小銃を装備した兵士150名を派遣したものの、木が倒されるまで静かに見守り、武力衝突は回避。その後、金日成主席が謝罪し、全面戦争に発展することはありませんでした。
これ以降、板門店の共同警備区域では、原則として南北両兵士は軍事境界線を越えてはならず、「境界線を越えた者」や「相手兵士と会話した者」は死刑と厳しく定められています。
「朝鮮戦争」はあくまでも停戦中で、戦争が終結しているわけではありません。そのため両国の最前線となる板門店には、常に緊迫感が漂っているのです。
- 著者
- 初沢亜利
- 出版日
- 2018-05-16
日本にとって、近くて遠い朝鮮半島。特に北緯38度線で隔てられた北朝鮮については、その内実がほとんど伝わってきません。
本書は写真家の初沢亜利が訪朝をくり返し、北朝鮮の市井の人々を写した写真集です。もちろん北朝鮮側の案内人が同行しているので、被写体とできるものに制限はありますが、人々の表情をうかがうこと自体が珍しい現状を考えると、貴重な一冊だといえるでしょう。
北緯38度線によって多くの悲劇が生まれた朝鮮半島。今後どのような道を歩むことになるのかを考えるきっかけになる一冊です。
- 著者
- 五味 洋治
- 出版日
- 2017-12-20
いまだ休戦中の「朝鮮戦争」。韓国と北朝鮮は朝鮮半島を分断する北緯38度線を挟んで睨みあっている状態です。
本書では「朝鮮戦争」の全体像を解説しつつ、韓国とアメリカの関係が、日本とアメリカの関係に酷似していると主張。韓国の軍事状況を見ながら、「朝鮮戦争」と日本の安全保障を関連付けて考察していきます。
日本には憲法9条がありますが、仮に北朝鮮もしくは韓国のいずれかが北緯38度線を越えて戦火が起これば、何も影響を受けないわけはありません。「朝鮮戦争」と朝鮮半島の情勢から、日本の未来を考える一冊です。