妊娠中の驚きについては、前回のコラムでネチネチ書いたが、やはり一番の驚きは出産そのものだ。どの瞬間を切り取っても、驚きっぱなし。驚くことがたくさんあるのだろうと予想はしていたが、どちらかと言うと神秘的で美しいそれを想像していた。しかし、訪れる驚きの数々は現実的で…何というか、生々しかった。そして、もっと驚くことにあんなにもリアルだった驚きを既に忘れかけている自分がいる。すべては夢だったんじゃないかと思うくらいに。
その日は、天気がよかったので散歩がてら喫茶店にでも出かけて、ゆっくりお茶を飲みながら本を読もうと準備をしていた。産休前の最後の仕事を終えたばかりで、あと数週間ほどで出産予定。いよいよ一人で過ごせる時間もあと少しだ。大したことはもうできないにしても、今しかできないことをやろうと考えていた。
さて、着替えたし出かけようかなと思った時、尿漏れしたような感覚があった。病院で、臨月に入るとそういうことがよくありますと聞いていたので、これなのかと思いつつも何となく自分には関係のない話かと思っていたので、ちょっとショックだった。トイレに行って確かめると、確かにそのようだ。一旦着替えて、改めて出かけようとする。しかし、また同じようなことになった。妊娠ってほんとめんどくさいなと思いながら、また着替える。出かけようとする。また・・・
・・・・・ん?これって・・・?
尿漏れの話をされたのは、破水の説明を受けていたときだった。破水と尿漏れは間違いやすいとのことだが、いや・・・まさか。だって予定日までまだまだあるし・・・。一応ネットで破水について調べてみる。該当するような、しないような・・・そこでネットを見るなと言われていたことを思い出した。わからないことは聞いてください、と。ドキドキしながら病院に電話をかけてみる。
「うん!それね、多分ね、破水です。」
・・・・・・なんと!ハスイ!これがですか!噂のあれですか!破水なのね、そうなのね!・・・・・・で、どうしたらいいの?
出産を予定していた病院は実家の近くで、私はまだ里帰りしていなかった。それどころか里帰りする準備もしていない。緊急時に対応してくれる病院なら近くにあるが、出産となると話は別だろう。妊娠が発覚したら、すぐに分娩の予約を取らないといけない病院が多いことには驚いた。とにかく予約した病院までたどり着かなくてはならない。
そういえば、赤ちゃんグッズの準備も中途半端なままだ。何もかもが準備不足だった。というか、何より心の準備ができていない。出産のスタートラインにすっぽんぽんで棒立ちしているような気分だった。謎の丸腰(使い方違うか)・・・初産って予定より遅れるんじゃないの!?
どうしようどうしようと考えながら、回らない頭を振り絞って、まず聞いたのが「えっと、一時間くらいで着くんですけど、電車って乗ってもいいんですか?」という質問だった。私があまりにも当然のように聞くものだから、電話に出た女性も『あれ?よかったっけ?』と思ったらしく、わざわざ先生に確認してくれた。もちろんダメだった。後から考えるとなかなかに恥ずかしい質問である。
とにかく早く来るように言われ電話を切った私はやっと冷静になり、母には電話を、出かけていた旦那さんにはメールをして、入院するための準備に取りかかった。これから産むんだという実感はなかった。下着、メガネ、歯磨きセット、赤ちゃんグッズ・・・と思いつくままにボストンバッグに詰め込んでいると、旦那さんから電話がかかってきた。
「は・・・は、はすい!?だいじょうぶ?どうするの?」
「とりあえずタクシー呼んで病院向かうわ!」
「・・・おれはどうしたらいい?」
「うーん。多分すぐ産まれるもんでもないだろうから、用事済ませてから夜病院くれば?」
「・・・そっか。ん?それでいいのか?・・・いや!帰れるようにする!」
「いや、いいよ。することないだろうし」
「・・・そうだよね。はい!」
慌ててるんだか落ち着いてるんだかよくわからない旦那さんとの電話を切って、準備を続けた。必要そうなものは一通りそろえて、バッグはパンパンになったが、入院、出産、退院してからの生活を考えると頼りない荷物量だった。しかし、足りないものは後から持ってきてもらうしかない。とにかく急ごうとボストンバッグを担いで家を出た。携帯を見ると旦那さんからメールが入っていた。
『動揺してしまってごてん!』
慌てていたようだ。いいのよ~と適当に返してタクシーに乗り込み、行き先を告げ、病院に向かっているとすぐにまた電話が鳴った。
「やっぱり帰る!タクシー乗った!」あぁ・・・ごてんにしっかり返信しておくべきだった。ごく近い場所にいるのに入れ違いになりかけている。タクシーの運転手さんに無理を言って何とか合流し、そのまま二人で病院へと向かった。
病院につくと、すぐに診察してもらい、やはり破水していることがわかった。両親もサンドウィッチやらお菓子やらを買い込んで駆けつけてくれた。いくつかの診察を終え、助産師さんに「朝までには産まれるね。そんな顔してる」と言われてもまだ実感はなく、とにかく病室で休むことになった。
父は病室へ入るや否やソワソワしだして「俺かえるわ」と、帰っていった。母はしばらく残ってくれたのだが、急に暇そうな顔をしたかと思うと、「私、おっても仕方ないから明日の朝にまた来るわー」とやはり帰ってしまった。分娩室の前でウロウロしながら出産を待ってくれる家族の図は、テレビドラマの中だけのようだ。
病室には私と、私以上にソワソワしている旦那さんの二人。父もそうだったが、こういうときの男性のソワつき方は半端ない。身体のどこかしらから「ソワソワ」という音が出ているようだ。ベッド横の椅子におとなしくちょこんと座ってはいるものの、心ここに在らず。気持ちがふわふわと宙を舞っているような感情がよくわからない表情をして、手をモゾモゾさせ、ついには「落ち着かねぇなあ」と口に出してしまっている。そして、そんな姿を見れば見るほど女は冷静になるのだ。
ここから何時間くらいで産まれるのか、何がいつどうなるのかわからない。今やれることをやらなくてはと、事務所や、産休中に約束をしていた友人に連絡を入れ、入院中や退院後の生活に足りないものをリストアップし、母が差し入れてくれたサンドウィッチを食べた。もしかしたら夜ご飯に在りつけないかもしれないのだ。食べられるうちに食べて、体力をつけなくてはならない。旦那さんにも勧めてみると、よくわからない表情のまま、むしゃむしゃ食べた。・・・食欲はあるようだ。
夜になった。まだ何も変化はない。夜ご飯もしっかり出てきて、しっかり完食した。面会時間がもうすぐ終わってしまう。朝までに産まれるわねと言ってくれた助産師さんは帰ってしまい、別の助産師さんがやってきた。まだまだ産まれないんじゃないかと言われた。
そこで旦那さんは泊まってもいいけど、疲れるだろうし、一旦帰って休んでもらった方がいいんじゃないかと提案された。明らかに帰りたくなさそうな顔をした旦那さんだったが、泊まるとなると部屋を変わらなくてはならない。面会時間を過ぎてもしばらくいてもいいことになったので、とりあえずギリギリまでここにいて、私の実家に帰ってもらうことにした。引き続き、ソワソワとした音が病室に流れていた。
何となく、腰が痛くなってきた。腰と言うか、骨盤と言うか。それが痛くなったり、おさまったりする。
・・・これか!これが、陣痛か!少し興奮しながら何分おきに痛くなるか測ってみる。あれ?いつ測り始めるんだ?と疑問に思いながらも、痛くなり始める時間、おさまった時間、また痛くなる時間・・・と確認していると、だんだん間隔が短くなっている。
おぉ!きてるきてる!陣痛!ナースコールを押すほど痛くもないけれど、自分が痛みに鈍感なだけで気付いたらもう産まれます的な状況になったらどうしようと、旦那さんと一緒にテクテク歩いてナースステーションに行って、痛みの感覚が短くなってきてることを伝えた。
助産師さんは「あぁ、はいはい」といった具合だった。時間なんて測らなくていいから、とりあえずもう寝るように言われ、病室に戻った。しかしやはり腰が痛い。痛いよう痛いようと訴えているうちに、旦那さんが病院にいられるタイムリミットが迫ってきた。もう一度、助産師さんにまだ産まれないか確認する。「まだです」ときっぱり言われ、旦那さんは寂しそうに病院を後にした。
いよいよ病室に一人きりだ。間もなく消灯時間になった。真っ暗な病室はしんと静まり返っている。興奮と不安と痛みで眠れない。痛み自体もさっきより増し・・ているどころか相当痛くなっている。とにかく骨盤が痛いので、いろいろ体勢を変えながら耐える。イタイ、イタイ、イタイ・・・
とぼとぼ帰って行った旦那さんは実家に着いた模様。都会育ちの彼は、田舎の夜道があまりにも暗くて一人で歩くのが怖かったらしい。ちゃんと着いたことに安心したのか、お風呂頂いたよー!と嬉しそうな報告がきたあと、お母さんからの差し入れ!と写真が送られてきた。
缶ビール(2本)とたけのこの里だった。すごい温度差だ。母よ、このタイミングにビールって。そしておつまみにチョコレートって・・・
陣痛がくれば、家族に囲まれて手でも握られているものかと思っていたが、やはり『余所は余所、うちはうち(小さい頃に母に言われた中で一番理不尽だと思ったセリフ)』だった。
小塚舞子の徒然読書
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