妊娠中の驚きについては、前回のコラムでネチネチ書いたが、やはり一番の驚きは出産そのものだ。どの瞬間を切り取っても、驚きっぱなし。驚くことがたくさんあるのだろうと予想はしていたが、どちらかと言うと神秘的で美しいそれを想像していた。しかし、訪れる驚きの数々は現実的で…何というか、生々しかった。そして、もっと驚くことにあんなにもリアルだった驚きを既に忘れかけている自分がいる。すべては夢だったんじゃないかと思うくらいに。
実家では母が義理の息子にビールとたけのこの里を振る舞い、何やらのんきな様子が伝わってくるのだが、私は一人病室で痛いと痛くないを繰り返していた。相変わらず、陣痛なんだか何なんだかわからないままに時間だけが過ぎていく。痛くなったらベッドに正座、マシになったら横になって眠ろうとするが、すぐにまた痛くなる。これ、いつまで続くんやろうと不安になっていた。
実はこの辺りから記憶が途切れ途切れだ。(どう考えてもここからが大事なのに)とにかく気付いた時には私は病室で絶叫しており、トイレの中でも看護師さんが大丈夫ですかと見に来るほど叫んでいた。骨盤が砕けるかと思った。生理痛の一億倍くらい痛くて、絶対もう産まれる気がするのに、助産師さんにはまだだと言われる。
そうして、二時間ほど部屋で唸っていただろうか。実際にはもっと短かったかもしれない。夜中の3時を過ぎてようやく「まだ早いと思うけど、分娩室いこかー。そこから旦那さんに電話してもいいから、もう来てもらったら?」と言われた。神の声かと思った。分娩室に携帯持って行っていいんや。しかも電話していいんや。と驚きながら、這うように分娩室に移動して旦那さんに電話する。
さすがに眠りも浅かったのだろう。待ってましたと言わんばかりのテンションで、すぐにタクシーを呼んで向かうと言う。電話を切って分娩台に寝転んだ。痛みはさらに激しくなり、ぎゃあぎゃあ騒ぎまくった。しかし助産師さんは準備するわねーと、いたって冷静。叫ぶ私に見向きもしない。この辺りから私は、助産師さんにかまって欲しくて叫んでいたような気がする。
旦那さんが到着した。分娩台に横たわり絶叫する私に驚いている。横に来て「大丈夫?痛い?」と声をかけてくれるが、全然大丈夫じゃない。「イタイィィィッ!」と涙目で訴える私の手を取るか取らないかぐらいのところで何かに気が付いたようで、助産師さんに何やら話しかけている。分娩について聞いてくれているのか。ここまで痛がる私を見て、心配になったのかもしれない。
少し話した後、そのまま出て行ってしまった。どうしたんだろうと思っていると、しばらくして「病室にかばん置いてきたー」と、呑気にホカホカ再登場。・・・・・・呪う!
ここからはもう地獄だった。ゆっくり息をしなさいと言われるも、できるわけがない。いっそのこと気絶したかった。後は何とかしてくださいと目を閉じ、全てを委ねたくなるが、痛みがそれを許してくれない。いきむなと言われても『いきむ』が何なのかよくわからないし、力を入れたら少しは楽になるこの感じを我慢しろと言うのなら、そんなものは無理だ。
子供のように「ムリーーーー!!!!」と叫んだ。誰に伝えているのか、伝えたところでどうなるのか、何もわからぬままにムリムリ駄々をこねた。
ふと旦那さんの方に目をやる。彼は、真っ白だった。顔面蒼白とは少し違う。存在が薄い。そして白い。それは、この状況を予習し過ぎていたせいに違いなかった。つまり、こういうことをしたら奥さんにキレられたり、嫌われたりするという情報を先輩方から聞き過ぎていた。
安易に「頑張れ」とか言うと、既に頑張っているから怒られる。むしろ下手に声をかけないほうが良い、もう手とかも握らない方が良い、ストローさした飲み物持って黙っているが吉。みたいなことを教わり、その結果彼はどんな顔をして何をしたらいいのかわからなくなったようだ。それで、何とか導き出した答えが『どうとでも捉えられる顔をして座っておくこと』だったのだろう。ほとんど仏像と同じような表情をしていた。無表情を越えた無表情。それは、白。
それから、どれくらいの時間が経ったのか、今どんな状況なのか全くわからなかった。痛みの波は激しくなる一方だ。真っ白だった旦那さんは、助産師さんにここを押してあげてだとか、さすってあげてと指示されて、少し色を取り戻したかのように見えたが、さすろうと伸ばした手を私に払いのけられて(ごめん)ますます居場所を失っていた。
私は相変わらず、自分でも驚くような声で叫んでいた。舞台に出演した時にここまでお腹から声を出せていたら、お褒めの言葉でも頂戴できただろうが、今は力むなと叱られた。
しばらくして、次の痛みが来たらいきんでもいいとの許しが出た。分娩室の空気が少し変わったような気がした。いよいよだ。
再び仏像化していた旦那さんは「はい!座ってないで!立つ!」と急かされ、慌ててぴょこんと立ち上がった。私の頭を押さえておくように言われて、そそくさと指示に従う。(いきむ時に頭をあげるのだが、これがなかなか難しいからだ。)私はやっぱり『いきむ』がどういうことなのかよくわからず、それでも何とか自分の叫び声に合わせ、思いっきり力をこめてみた。「そうそう!」と褒められ、いきめたことに少し嬉しくなる。しかし「声を出したら、いきむ力が弱くなるから」と、黙っていきむよう言われる。
だ・・・だまられへん・・・!と泣きそうになるが、もはや文句を言う元気もない。言われるがまま、歯を食いしばり、黙っていきむ。この間も壮絶な痛みが押し寄せては引く、を繰り返していた。痛くない瞬間は寝落ちしそうなくらい、限界に近かった。寝落ちなのか、気絶なのか・・・。痛いのタイミングで、またいきむ。
「上手上手~!あと何回かで産まれるよ!」
明るく言われたこの言葉にハッとする。・・・あと何回かで?なんかいか?1回じゃないの?それ以上は無理よ!2回は無理!もう無理!と思っていると、また痛みがやってきた。いきむ。もう死にそうだし、泣くことすらできない。痛すぎて。
助産師さんの声が大きくなった。頭が出たと言われる。確かにそんな感じがするが、頭だけ?まだそこ?頭より身体の方が長いよねぇ!ねぇねぇ!と気が遠くなる。また痛みが・・・いきまなきゃ・・・・・
・・・力強い泣き声が聴こえた。泣いている。声を震わせて。全身で泣いている。痛みがサーっと引いていくような感覚があった。身体から力が抜けていく。助産師さんの「産まれましたよ」という声。その時間を告げる声も聴こえた。5時3分。
小さくて、見るからに温かそうな赤ちゃんが私の胸の上にポンと置かれた。おそるおそる抱いてみる。想像していたより、ずっとずっと小さい。今にも壊れそうなくらい小さいのに信じられないような大きな声で泣いている。そして、それはとても人間だった。頭に思い描いていた赤ちゃんより、もっともっと人間で、『生きる』の塊のようだった。
感動はあまりしなかったように思う。だから、涙を流すこともなかった。ただただ、驚いていた。33年間生きてきて、一番びっくりした。自分から人間が産まれたことに。ひとつの人生が始まったことに。
後から聞くと、その時私は驚いたような、嬉しいような『わぁ!』という何とも言えない顔をしていたそうだ。それがいい顔だったと話す旦那さんも、同じだった。絶対泣くだろうなと思っていた彼も泣かなかった。驚きと喜びに、ただ目を輝かせていた。自分の顔を見たわけではないけれど、きっと彼と私は同じ顔をしていたんだと思う。このときの旦那さんの顔を私は決して忘れない。
しかし不思議なことに、私はこのときの痛みを既に忘れかけている。あんなに痛くて『いたい』なんて三文字で表せない!と思ったほどなのに、どんな種類の痛みだったのかイマイチ思い出せない。彼女が産まれてから、いろいろあったし、日々忙しいし・・・で忘れていくものなのかもしれないが、もっと根本的なところ・・・そう。忘れるというよりは、忘れ“させられて”いるような感覚なのだ。
彼女がそうさせるのか、神様がそうさせるのかはわからない。ただ、痛みなんて忘れてしまった方がいい気がする。何となくだけど、その方がイーブンに彼女と向き合っていけるような。
その後についても書きたいことは山ほどある。しかし、これも本当にキリがないのでまたの機会にしよう。“忘れなければ”だ。
ただひとつ、最近になってわかったことがあってそれだけは記しておきたい。チョコレートを食べる私の隣で、旦那さんが娘にデレデレと話しかけていた。
「パパもあのチョコレート、食べたんだよ~!きみが産まれる前に!」
・・・たけのこの里!食べたんかい!ということは、ビールも飲んでるやろ!人が陣痛で唸ってる時に!このことは、忘れようにも忘れられなさそうだ。
- 著者
- ["最相葉月", "増崎英明"]
- 出版日
- 2019-01-29
羊水とはどこからくるのか。胎児はなぜ頭を下にしているのか。何をしているのか。人間は、誰しも胎児だったことを経験しています。それなのに、誰もそのことをはっきりとは覚えていません。(たまに覚えてる子供がいるとは聞きますが)これだけ医療が発達していて、胎児を治療することだってできる(これも知らなかった…!)のに、まだまだ謎に包まれている胎児のことを、産婦人科医である増﨑英明先生と、ノンフィクションライターの最相葉月さんの対話から、覗き見ることができます。
難しい言葉もでてきますが、お二人が楽しく柔らかくお話されている様子は、ラジオを聴いているようで親しみやすいです。女性はもちろん、男性にも読んで頂きたい一冊です。
- 著者
- 西 加奈子
- 出版日
- 2016-11-30
子供を育てる上で、しつけや叱り方の本とか、そういう育児の専門書にも興味はあるのですが、まずは自分の好きだった本を読み返したいなと思いました。あまのじゃくな私は「こうしなさい」と言われるよりも、読んだ物語から何かしらヒントを得る方が性に合っている気がするのです。
そこで真っ先に思いついたのは西加奈子さんの描く世界。多様性を認めることができる物語の数々に、今までは自分が許されたような気になって読んでいましたが、これからは子供を許すきっかけになりそうな気がしています。腹立たしいニュースや悲しいニュースが多い中、凝り固まってしまう頭や感覚を柔らかくしてくれます。
小塚舞子の徒然読書
毎月更新!小塚舞子が日々の思うこととおすすめの本を紹介していきます。