小さい頃の将来の夢は確かケーキ屋さんだったと記憶していたのだが、母が言うには、幼い私に将来の夢を聞いたところ「小説家と警察官」と答えたそうだ。どうなってそうなったのかはわからない。そしてケーキ屋さんの記憶は一体・・・。 そういえば、まんが家になりたいと思ってせっせとまんがを書いてみたこともあるが、絵が上手だった友達と自分の作品を比べてみて静かにペンを置いた。将来の夢を実際に叶えた人なんて、どれくらいいるのだろうか。
夢なんてものを考えるのはせいぜい中学生か高校生くらいまでで、その後は受験がどうだとか就職が何だとかでだんだん現実の世界に連れ出されていく。将来がまるで見えないからこそ夢を考えるのも楽しかったが、何となくレールが見えてくると今自分がやるべきことで手一杯になったりする。そうしてたどり着いた今がまさに将来であって、それが子供のときに思い描いていた自分なのかと問われると、ノーと答える人の方がきっと多い。
しかし今になって、また将来のことを考えたりすることがある。夢なんて可愛らしいものではないが、将来住む「場所」についてだ。今まで私は奈良で育ち、大阪で生活して、まぁそのまま一生を終えるんだろうと思っていた。しかし東京出身の旦那さんと結婚して子供が産まれて、違う可能性もあるんだなと考えるようになった。今はほとんど大阪にいるが、たまに東京に行くと、もしかしたら将来ここで暮らすことになるのかも・・・と思う。しかしあの大都会で暮らす自分は全く想像できないでいた。
そもそも私は微妙な田舎で育った。小学校の帰り道には、山なんだか小さい森なんだかわからない所でとってきたグミの実を食べたり、どんぐりやダンゴ虫を拾ってポケットに集めたりしていた。公園でカマキリの卵を眺めたり、知らない人に柿をもらったり、けもの道を探検したり。まさに道草を食うという言葉通りで、そういえば道端に生えていた謎の酸っぱい草も食べていたし、とにかくそこら中にあるものに興味をひかれて楽しかった。
家に帰ると近所の駄菓子屋さんに飛んでいき、毒々しい色のゼリーやよっちゃんイカを買った。夏休みは毎朝ラジオ体操に出かけて皆勤賞のお菓子セットを狙い、町内会の小さなお祭り(日本一小さいんじゃないかというくらいのサイズ感だった)で盆踊りをおど・・・るのは恥ずかしいから踊っている人を横目で見ながらサンガリアのラムネを飲み、家の前で花火をして遊んだ。夜は星がきれいで、カエルや虫の鳴き声が聴こえた。秋祭りでイナゴの佃煮を食べた。美味しくはなかった。
こうして思い出を並べてみると、微妙というか本格的な田舎のようにも思えるが、のどかな景色もある一方で、近所にはジャスコがあり、他にもいくつかスーパーがあり、TSUTAYAもコンビニもあったので田舎だと感じることはなかった。むしろ小さい頃は『田舎』に憧れていた。夏休みやお正月に、友達が親の実家に帰省することを「田舎に帰る」と言っていたからだ。私も田舎に帰りたかった。
私の両親はどちらも大阪育ちで、それぞれの実家へは1時間もかからずに遊びに行くことができた。近いからしょっちゅう遊びに行けてそれはそれで嬉しかったのだが、長い休みのときに泊まりがけでおばあちゃんの家に遊びに行くというのは、何だかとても特別な感じがするのだった。しかも行く先は“田舎”なのである。
私が思い描いていた田舎と言うと「となりのトトロ」でメイちゃんとサツキちゃんが引っ越した場所だ。実際に住むとなるときっと不便なんだろうが、畑に行って大きなとうもろこしを採ったり、採れたてのきゅうりをかじったり、庭で小さいトトロを発見するのはとても魅力的に感じた。母に懇願して、きゅうりを丸かじりさせてもらったことはあるが、冷蔵庫から出したきゅうりはあまり美味しくなくて、田舎のきゅうりへの想いは強くなるばかりだった。
このように無責任ではあるが、田舎というものに恋い焦がれていたので、生活する場所、特に子育てをする場所としては田舎であるに越したことはないと思っていた。しかし都会のど真ん中で育った旦那さんに小さい頃のエピソードを聞いてみると、なかなかにノスタルジックで、悪くないのである。
幼稚園の同級生がおらず、卒園式もひとりぼっちだったという話には驚いたが、駄菓子屋に売っていたお菓子のラインナップは、年下である彼の方が昭和感を漂わせていて嫉妬した。(すもも漬けやきなこ棒なんてALWAYS三丁目の夕日の世界じゃないか)
酸っぱい草やグミの実の存在は知らなかったものの、放課後は外で遊んでいたようで、野球をしていた時に打ったボールがこいのぼりの口にちょうど入ったというエピソードなんて、ラジオで3回、お酒の席で10回は話せたと思う。都会の子どもたちは、洒落たおやつを食べながらテレビゲームばかりしているものかと思っていたが、そうでもないようだ。
都会に対する誤解は他にもあって、これは私以外にも感じている人は多いんじゃないだろうか。
東京に行く度に、人の多さと駅の乗り換えのややこしさ、大きなビルがたくさんありすぎて挟まれているような気持ちになることが怖かった。行きの新幹線の中では東京にいる友達に連絡してみようとか、そういえば行ってみたい店があったなと場所を調べたりするのだが、東京駅に着いて、乗り換えはどっちだろう、出口はどこだろうとキョロキョロしているうちに、自分だけがその場から浮いているような感じがして帰りたくなってしまうのだ。道を聞いた際に「あ、わかりませーん」なんてクールに答えられた日には、そのまま帰りの新幹線に飛び乗りたい気持ちになった。
そこで受ける『東京の人=冷たい』という印象。いろんな人がいて当たり前だとはわかっていても、どうしてもそう感じずにはいられなかった。しかし旦那さんが言うには、冷たく見える人のほとんどが東京の人じゃないらしい。東京の人は皆親切で優しい。地方から出てきた人が自分の思い描く東京のイメージに合わせようとクールに振る舞っていたり、都会の荒波に飲みこまれないようにと必死になっているから冷たく見えるそうだ。
東京のイメージは東京じゃない人が作ってしまっているのかもしれない。だからと言って地方の人がただ冷たいわけでもないはずで、その人たちも自分の故郷で道を尋ねられれば、喜んで案内するのだと思う。
関西人だって皆がボケとツッコミの心をわきまえているわけではない。確かに声が大きい人が多いし、ほとんどの人が吉本新喜劇を見て育つし、「なんでやねん」や「知らんがな」のようなザ・関西弁を多用するが、街中でいきなり手をピストルの形にして「バーン!!!」と口で撃たれても、皆普通に不気味がるだけで「やられたー!」と叫ぶ人はそういないと思う。(全くいないわけでもないが)
しかし、何となく関西人というだけで、おもしろいこと言えるんでしょという雰囲気が漂ってしまうのが辛い。全国どこにでもおもしろい人はいるし、そうじゃない人もいるのだ。
東京の人が冷たいわけじゃなく、冷たく感じる人もただ余裕がないだけとわかれば、住めなくもないのかなと思い始めている。旦那さんの方は住むところにこだわりがないようで、山梨に住みたいだの、高知に住みたいだの言っているが、そこまでは想像できない。
しかし唯一想像できるとすれば、東京に馴染もうとしてクールを装っている自分だ。絶対にさむいし、ダサい。将来の夢が一つできた。親切な、東京の人。何か間違ってるような気もするが、まぁいいだろう。夢とはそんなものだ。
- 著者
- 西 加奈子
- 出版日
- 2008-03-06
都会から田舎に引っ越してきた小説家と、動物の声が聴こえるその妻の物語です。田舎で暮らす自由さと寂しさが描かれていて、何かに疲れたときは、よっしゃ!私もこんな感じの田舎に移住しよう!とよく思いました。
田舎の景色、そしてそこから見る東京。辛くて、でも温かい物語です。都会の暮らしに疲れた方はぜひ読んでみてください。
- 著者
- 藤野 恵美
- 出版日
- 2019-04-22
琵琶湖から大阪に流れる大きな川、淀川を舞台にした8つの短編集です。大阪で暮らす人ならきっと思い浮かぶ景色がたくさん出てきます。
誰かの人生をほんの一瞬、のぞかせてもらうような物語。何か問題があって当たり前。生きるってそういうことなんやなと学ばせてもらいました。
小塚舞子の徒然読書
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