5分でわかる太平天国の乱!原因と結果、洋務運動、洪秀全などを簡単に解説!

更新:2019.8.4

日本にペリーが来航する少し前、お隣の中国では、国を大きく揺るがす「太平天国の乱」が起きていました。一体どのようなものだったのでしょうか。この記事では、指導者の洪秀全について、乱が起きた背景と原因、流れ、結果、洋務運動などをわかりやすく解説していきます。

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「太平天国の乱」とは。洪秀全やスローガンなど概要を簡単に紹介

 

1851年、中国の清王朝に対して太平天国という組織が起こした反乱を「太平天国の乱」といいます。1864年に鎮圧されるまでおよそ13年間続き、民間人も合わせると死者は2000万人を超えるそうです。

太平天国はキリスト教を信仰していて、指導者は洪秀全(こうしゅうぜん)という人物。彼は広東省の出身で、もともとは役人になるために科挙試験の合格を目指し、勉強をしていました。しかし3度の失敗をし、失意のなかで病床に臥せていたところ、「老人から剣を授けられ、中年の男性から妖魔を退治する手助けされる」という不思議な夢をみたとのこと。

その後、4度目の試験を受けようと会場に向かう道中で、キリスト教の勧誘パンフレットを見て、夢に出てきた2人が神ヤハウェとイエス・キリストだと気付いたそうです。そこから洪秀全は、自らをヤハウェの子で、キリストの弟だと考えるようになります。

1843年にキリスト教に改宗し、自らの解釈にもとづく「拝上帝教」を説くようになりました。これが太平天国の前身となる組織です。

洪秀全のもとには、馮雲山、楊秀清、韋昌輝、石達開といった後に太平天国の幹部となる若者たちが集まりました。炭焼きや貧農、鉱山労働者、客家などの低階層者を中心に支持を広げ、勢力を拡大していきます。キリスト教の教義にのっとり、儒教や道教、仏教の施設を次々と破壊していきました。

そして1851年に武装蜂起し、満州族の王朝である清王朝を倒して漢族を復興するという意味を込めた「滅満興漢」をスローガンとして掲げます。さらに国号を「太平天国」に変えると主張し、自らを「天王」と称しました。

1853年には南京を占拠し、「天京」と改名。太平天国の王朝を樹立します。キリスト教的理想を掲げて、地上に天国を作ろうと考え、「天朝田畝制度」などの政策を実行しましたが、中国古来の価値観を払拭することはできず、理想と現実の間に大きな乖離が生じるようになりました。

また、宗教的権威を担う洪秀全と、国家レベルの組織を運営する幹部たちとの間で衝突も起こり、1856年には「天京事変」とと呼ばれる内紛が発生。太平天国は衰退していくのです。

「太平天国の乱」が起きた背景と原因

 

当時の中国を治めていた清王朝は、満州族の愛新覚羅氏が1644年に樹立した征服王朝。それから約200年の間、少数の満州族が多数の漢民族を支配するという体制が続いていました。

強大な軍事力をもち君臨していましたが、1840年から2年続いた「アヘン戦争」でイギリスに敗北。その結果、国民に重税を課すことになり、人々に不満が溜まります。征服王朝の清を倒して漢民族を復興させようという運動が、中国各地で起こるようになりました。

張楽行を指導者にした「捻軍の反乱」、回族が主導した「パンゼーの乱」や「回民蜂起」、ミャオ族が主導した「咸同起義」など、運動は全国に広がっていきます。そんななか、太平天国も「滅満興漢」をスローガンに掲げ、反乱を起こしたのです。

清王朝は、諸外国への備えと、各地で頻発する反乱への対処で兵力が分散され、「太平天国の乱」を迅速に鎮圧することができませんでした。

「太平天国の乱」の流れと結果

 

天王である洪秀全を頂点に、東王の楊秀清、西王の蕭朝貴、南王の馮雲山、北王の韋昌輝、翼王の石達開という幹部が支える「五王体制」をとっていました。

このうち、1853年に南京を攻略するまでの間に、西王の蕭朝貴と南王の馮雲山が亡くなります。その後は徐々に東王の楊秀清の発言権が強くなり、洪秀全をも凌ぐようになるのです。

1856年、この状況を危惧した洪秀全は、楊秀清の一族とその支配下の約4万人を粛正。さらに、これに異を唱えた北王の韋昌輝も粛正しました。これを「天京事変」といいます。また洪秀全の振る舞いに失望した翼王の石達開は天京を離脱し、「五王体制」が崩壊するのです。

これ以降太平天国の指導部は一新され、楊輔清、陳玉成、李秀成、韋俊、李世賢が幹部に登用されました。いずれも十代なかばから戦場を経験した有能な将軍たちで、彼らの活躍によって太平天国は息を吹き返していきます。

1859年には、太平天国の前身である「拝上帝教」の初期の入信者のひとりで、洪秀全の一族でもある洪仁玕が合流。彼はスウェーデン人宣教師テオドール・ハンバーグのもとで洗礼を受け、キリスト教や西欧式の制度などについて学んでいました。

洪秀全に交通網の整備、鉱山開発、新聞の発行、福祉の充実、科挙制度の改革、西欧列強との通商関係構築、宣教師の活動許可など、次々と改革を提言します。

しかし、洪仁玕の存在を洪秀全は歓迎していましたが、戦場で育った他の幹部達にとっては、彼の発言は理解できないものも多かったようです。そして、洪仁玕を重用する洪秀全に不満を持った李秀成、李世賢らが李氏閥を形成し、太平天国内に再び不協和音が生じてしまいました。

さらに太平天国は、中立状態だった上海を攻撃したことで、西洋列強を敵にまわしてしまいます。1860年に官僚と商人が資金を拠出して「洋槍隊」という外国人傭兵部隊が組織され、翌年には中国人約5000人を徴兵して「常勝軍」という西洋式の銃や大砲を装備した軍が完成します。太平天国にとって大きな脅威となりました。

一方の清王朝では、曽国藩や李鴻章のもとで、軍の建て直しが進められていました。私兵部隊の性格が強い軍が構築されていきます。

その後太平天国は、重要な拠点を次々に攻略され、やがて天京が孤立します。食糧が尽き、雑草を食べるような籠城戦を過ごした後、洪秀全は1864年に栄養失調で死亡。その後曽国藩の軍が天京に突入し、太平天国の乱は終息することになります。

「太平天国の乱」と洋務運動

 

洪仁玕が洪秀全に建議した『資政新編』は、太平天国の幹部たちに理解されることはありませんでした。その一方で、敵側だった清王朝に大きな影響を与えます。

彼らは、アヘン戦争やその後のアロー戦争に敗北したこと、太平天国の乱において「常勝軍」が活躍したことを受け、近代ヨーロッパの軍事力を痛感していたのです。

その結果、曽国藩や李鴻章らを中心に、西洋の技術を取り入れて国力の増強を目指す「洋務運動」がおこなわれるようになりました。中国の伝統的な文化や制度を守りながらも、西洋の技術は積極的に利用しようとう意味を込めて「中体西用」をスローガンに掲げます。この考え方は、後に明治維新期の日本で用いられた「和魂洋才」に通じるものがあるでしょう。

清王朝は洋務運動のもとで、軍事、工業、教育、通信などの整備に取り組み、近代化を進めていきました。

洪秀全と太平天国を知る伝記

著者
小島 晋治
出版日
2001-07-16

 

作者は、半世紀にわたって「太平天国の乱」を研究してきた中国近代史が専門の学者。本書は、洪秀全と太平天国について記した伝記です。

特に南京を攻略した後の社会制度や、太平天国を支えた幹部たちの内部抗争が詳細にまとめられているので、その盛衰の流れを理解することができるでしょう。

「太平天国の乱」は、日本ではさほど知名度は高くありませんが、10年以上続いたことや2000万人以上の死者を出したことを考えると、歴史的大事件といっても過言ではありません。彼らの思想は後の孫文や毛沢東といった革命家たちにも影響を与え、今日の中国にも受け継がれています。「太平天国の乱」について学びたい方は必読の一冊です。

「太平天国の乱」を漫画で読む

著者
甲斐谷 忍
出版日

 

『LIAR GAME』などで知られる人気漫画家、甲斐谷忍が、「太平天国の乱」を描いた作品です。

指導者の洪秀全は、極悪人。指名手配を受けているので身を隠しながら生活をしていましたが、生まれつき特殊な能力をもっていて、いつしか神様として崇められるようになります。やがて彼は、役人の横暴によって貧しい村人たちが命を落とすことに耐えられなくなり、キリスト教を信じる仲間とともに清王朝を倒そうと立ち上がりました。

漫画ならではの大胆な脚色はあるものの、実在する人物も多数登場し、「反乱」の雰囲気を感じることができます。「太平天国の乱」に興味はあるものの、活字を読むのが苦手な方におすすめです。