はじめまして。ハナエです。歌手です。好きな本を書店で見かけるたびに「この本が誰にも買われず読まれないままで書店ごとなくなってしまったら悲しすぎる」と思い、結果同じ文庫本を複数購入してしまうような偏った本の愛し方をしています。好きな本のことが好きなので、好きな本について好きに書こうと思います。
11月下旬のとある日、東京の空には早めの初雪が舞った。11月に都心で初雪が観測されたのは56年ぶりとなるそうだ。56年前の東京に降る雪を想像してみるが、想像でしかない故に当然現実感が無い。温度も湿度も完璧に快適に保たれた小部屋の窓から見える雪も、現実であるはずなのにどこか現実感が無い。外はひどく寒いらしい(お疲れ様です)。交通機関は混乱しているらしい(お疲れ様です)。LINEのトーク画面にも雪が降っているらしい(はあそうなんですね)。アイドルは道で滑って転んだらしい(気をつけてくださいね)。あたたかい部屋から動かずにいると、世界から切り離されたような感覚に陥ってしまう。室内と屋外のコントラストは、まるで中と外が逆転したスノードームだ。
ふと思う。こんな日こそ、日がな一日本を読むのにうってつけなのでは、と。
雪が降っているから、雪にまつわる本について書いてみた。そんな気ままさで、この連載の第一回目をはじめたいと思う。
世界の終わりという名の雑貨店(「ミシン」に収録)
2007年12月04日
“ねぇ、君。雪が降っていますよ”
この小説はそんな書き出しから幕を開ける。孤独な青年雑貨店主と心に病を持つ少女の逃避行を描いた、しとやかで狂おしい恋の物語だ。
主人公の営む雑貨店で少女が毎日買う紙石鹸。主人公が少女に買ってあげるオレンジ色と淡い水色の太い毛糸で編んだ野暮ったいマフラー。クリスマスイブに人気のない街のホテルの食堂で食べる簡素なショートケーキ……。物語のディティールのひとつひとつが、現実や現代といったものを優しく拒んでいるように思える。懐古的であり、寂しい。しかしその寂しさに、どこか安堵を覚えるのだ。世界から断絶された部屋の窓から見る雪のように、清らかで優しい。
兎にも角にも、特筆すべきはこの書き出しの美しさである。好きな人に雪が降っていることを伝えたい、その想いは主人公の胸中で繰り返され、今にも壊れてしまいそうなほどの愛しさはやがて叫びに変わる。雪が降った朝にTwitterでつぶやきたい一文ナンバーワン。
- 著者
- 穂村 弘
- 出版日
“少し熱があるのだろうか、体温計を口にくわえた恋人が窓に額をつけて“ゆひら”と言っている。寝惚けてるのかなと思い適当に相槌を打った後、ふと窓の外を見て気づく。ああなんだ、雪のことかよ”
歌人・穂村弘氏の歌集であるこの作品の冒頭を飾るのは、そんな冬のある日を描いた短歌である。
一聴しただけでは意味のわからない謎の三文字の言葉を発した彼女はきっと、だらっとした寝間着を着てぺたんと窓際の床に座っているのだろう。うっすらと結露した窓は、風邪気味の彼女の額を冷やしている。その言葉に対して適当な返事をした彼は、既にだらっとした寝間着から然程だらっとはしていない普段着に着替えている。きっとコーヒーなんか淹れているはずだ。自分のぶんだけ。そして曖昧なリアクションをした数秒後、窓の外にはらはらと舞う雪に気づくのだ。
1字の字余りを含めた32文字の余韻の中で、わたしは事細かに想像する。ふたりの恋人の生活を。仕草を。匂いを。幸福を。倦怠を。
この短歌に漂う甘く気だるげな雰囲気と、ぶっきらぼうになれるくらい親密な恋人同士の関係性に憧れてたまらない。ゆひら。この3文字の愛らしさよ。雪が降った朝に好きな人に言いたい言葉ナンバーワン。
雪が降っているから、という理由で傘を差すのが苦手だ。雪が降ること自体めったにない地域に生まれ育った所為もあり、雪は特別なものにしておかなければいけないという謎の義務感がある。雨なんかと同列にするなんてもっての他だ(雨、ごめん。と形式上の謝罪を述べておく)。しかし雪が降ったからといって子供のようにはしゃぐわけにもいかない。雪に塗れたまま仕事に向かうわけにもいかない。防寒と歩きやすさを兼ね備えた靴を選ばなくてはいけないし、やはり傘だってさしてしまう。現実の雪はこうして、年々特別からは遠ざかってしまう。それならば、特別はフィクションの中に仕舞っておくのが得策だ。誰にも壊されることのないフィクションの中に。本の中の雪は、融けない。人工雪だと気づいて興醒めすることもない。いつまでも特別な存在としての雪を描いた2冊を今回は取り上げてみた。
静謐で安全でたぶんちょっとだけ記録的な、初雪の降る11月より愛を込めて。