世界で唯一原爆を落とされた国、日本は、実は世界で初めて水爆による犠牲者を出した国でもあります。この記事では、1954年に起こった「第五福竜丸事件」と、その原因であるビキニ水爆実験、また汚染マグロなどその後の影響、アメリカの対応などをわかりやすく解説していきます。
1954年3月1日、現在はマーシャル諸島共和国に所属するビキニ環礁にて、アメリカ軍が水素爆弾実験をおこない、多量に発生した放射性降下物を日本の遠洋マグロ漁船が浴びて被爆する事件がありました。漁船名から、「第五福竜丸事件」と呼ばれています。
事件発生時、第五福竜丸事件に乗船していた乗組員は23人。全員が被爆しました。
無線長だった久保山愛吉が「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」という言葉を残して事件から半年後に亡くなったことから、「世界初の水爆による犠牲者」として世界的に注目され、日本における反核運動のきっかけにもなっています。ただ久保山の直接の死因は肝炎で、急性放射線症への対処として輸血をした際にり患した可能性が高いそうです。
第五福竜丸事件の原因は、アメリカ軍が水爆の威力を過小評価し、危険水域を小さく見積もっていたこと。実際に第五福竜丸も危険水域の外で操業していたにもかかわらず、数時間にわたって放射性降下物を浴びることになってしまったのです。
当時、近海で操業していた漁船はほかにも数百隻あったとされていて、2万人を超える人が被爆しています。
現場となったビキニ環礁は、2010年にユネスコが管理する世界遺産に登録されました。
アメリカ軍は、第二次世界大戦後の1946年から1958年にかけて、当時信託統治領だったマーシャル諸島の住民を強制移住させ、ビキニ環礁で23回の核実験をおこないました。
最初の核実験は1946年7月1日に「クロスロード作戦」という名前で実行されています。標的艦となったのは、アメリカ海軍の戦艦や空母のほか、日本の戦艦、軽巡洋艦、ドイツの重巡洋艦などおよそ70隻です。
ちなみにクロスロード作戦の直後、フランス人ファッションデザイナーのルイ・レアールが、自身がデザインした水着の小ささと周囲に与える破壊的威力を原爆にたとえて「ビキニ」と名付けたことは有名です。
第五福竜丸事件を引き起こした水爆実験は、1954年におこなわれた「キャッスル作戦」にもとづくもの。ビキニ環礁とエニウェトク環礁で合計6回おこなわれた実験のうちのひとつで、特に事件当日の3月1日の実験は「ブラボー実験」と呼ばれています。
この時用いられた水爆は、水素化リチウムを用いた核爆弾。当初の見積もりではTNT換算で6メガトンの核出力で、この想定にもとづいて危険水域が設定されました。しかし実際は広島に投下された原爆の1000倍に相当する、15メガトンに到達。危険水域外にいた第五福竜丸を含む多くの漁船が被曝してしまったのです。
当初、「ブラボー実験」による放射性降下物の降下範囲は、ビキニ環礁から風下1万8000平方キロメートルと発表されていました。しかし1984年に機密解除された公文書に、放射性降下物はアメリカ本土、中南米、そして日本も含む広範囲に降り注いでいたと記されていたことが2010年に明らかになりました。
実際に当時日本で降った雨からは放射能が検出されていて、それが「ブラボー実験」によるものだったということが裏付けられたことになります。
被曝した第五福竜丸は、自力で日本に帰港します。しかし放射能に汚染された状態で約2週間にわたって船上生活を送ったため、乗組員たちは火傷、頭痛、嘔吐、目の痛み、歯茎からの出血、脱毛など、急性放射線症になっていました。
そして被爆をしたのは人間だけではありません。マグロをはじめとする汚染された水産物が、日本各地の漁港に水揚げされました。特にマグロは「原子マグロ」「原爆マグロ」と呼ばれ、人々の不安を駆り立てることになります。
第五福竜丸から築地に水揚げされた約2トンのマグロは、築地市場の地下に埋められたそうです。そのほか1954年末までに856隻の漁船から約460トンの汚染された水産物が水揚げされました。
検査をして汚染が確認されたものは流通前に処分されましたが、問題なしと判定されたものでも消費は激減。風評被害によって漁業関係者は大きな損害を受けたそうです。
第五福竜丸の被曝は、日本にとって広島と長崎に続く「第三の原子力被害」でした。これをきっかけに、東京都の主婦たちは反核運動に立ち上がり、1955年には広島市長らを中心に原水爆禁止日本協議会が結成されるなど、反核運動が始まります。
また1954年に公開された映画「ゴジラ」は、第五福竜丸事件に着想を得て、水爆実験によって海底に眠った恐竜が目を覚ましたという企画が立てられました。
事件前年の1953年、アメリカのアイゼンハワー大統領は、「平和のための原子力」という演説を国連総会でおこなっています。これをきっかけに、戦後の経済復興に向け、日本でも原子力発電研究が本格的に始まろうとしていました。
そんななかで第五福竜丸事件が起こったため、アメリカに依存せざるを得ない状況に置かれていた日本政府も、ソ連に対する「反共の防波堤」として日本を西側陣営に留めておきたいアメリカ政府も、反核運動が反米運動に転化するのは避けたかったのです。
その結果両者は、「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」という確約のもと、事件の早期解決を図ります。1955年には賠償金ではなく第五福竜丸の乗組員に対する「見舞金」と、水産業界への「補償金」というかたちで、アメリカから200万ドルが支払われました。
第五福竜丸の乗組員たちの健康状態は、放射線医学総合研究所によって長期間継続的におこなわれていて、2004年までに亡くなった12人の死因は、肝癌6人、肝硬変2人、肝線維症1人、大腸癌1人、心不全1人、交通事故1人でした。生存者の多くに肝機能障害が認められ、肝炎ウイルス検査でも高い陽性率が示されています。
ただこれらはいずれも被爆の影響ではなく、無線長だった久保山愛吉同様、輸血によって肝炎に感染した可能性が高いから。当時の日本では注射針の使い回しや、売血の輸血利用が横行していて、肝炎ウイルスの集団感染などが起こっていました。
しかし直接的な要因でなくても、被曝しなければ輸血を受ける必要もなかったため、アメリカにまったく責任がないわけではないでしょう。また第五福竜丸の乗組員に放射線によるものと断定できる後遺症がみられないからといって、まったく被害がなかったと断定できるわけでもありません。
さらにこの問題に関しては、日本政府が被害の実態を隠蔽しているのではないかという指摘もされています。アメリカ国立公文書記録管理局に保管された文書の機密が解除されてからは、第五福竜丸以外の漁船に関する文書の存在が明らかになり、厚生労働省の説明が一部虚偽であったこともわかりました。
第五福竜丸事件の全容が解明されたとは、まだいえないでしょう。
- 著者
- アーサー・ビナード
- 出版日
- 2006-09-26
ロシア帝国の支配下に置かれていたリトアニアに生まれ、アメリカに渡って画家となったベン・シャーン。 本書は、彼が第五福竜丸事件を題材にして描いた絵画を、アメリカ出身ながら広島に住んだ詩人のアーサー・ビナードが絵本にしたものです。
『ここが家だ』というタイトルには、どんな場所も誰かにとっての生活の場だという意味が込められています。
アメリカ軍が核実験の場所に選んだ、つまり「吹き飛ばしても構わない」と考えたビキニ環礁にも、代々暮らしてきた人がいました。海には魚たちが住んでいます。第五福竜丸のように遠洋マグロ漁船の乗組員たちにとっても、生活の糧を得る場所でした。本作は派手さのない淡々とした絵と文章で、その事実を教えてくれているのです。
世界で唯一の被爆国であり、原子力発電によって経済を支え、アメリカが提供する核の傘によって平和を維持している日本は、核の恩恵からも悲劇からも目を背けず、向き合って生きていかなければなりません。大人も子どもも、核や平和について考えるきっかになる一冊です。
- 著者
- 出版日
- 2014-03-10
第五福竜丸事件から60年を記念して出版された作品。東京にある「第五福竜丸展示館」がこれまで収集してきた資料や最新の研究がまとめられています。
事件の全貌はもちろん、その後の第五福竜丸が辿った数奇な運命、日本から世界に広がっていった反核運動、マーシャル諸島以外の世界の核実験被害の実態、当時の小中学生が被害者に寄せた手紙などを見ると、核の恐怖と事件の衝撃の大きさをあらためて実感するでしょう。