5分でわかる公害!四大公害病の歴史や原因と対策、典型七公害など簡単に解説

更新:2021.11.20

急速な工業の発展にともない問題となった公害。特に日本では、水俣病やイタイイタイ病などの「四大公害病」が有名です。この記事では、典型七公害など概要を説明したうえで、原因や症状、対策などをわかりやすく解説していきます。

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公害とは。「典型七公害」を全種類紹介

 

事業活動やその他の人の活動によって、健康や生活環境にかかわるさまざまな問題が生じることを「公害」といいます。

産業革命の後、人々の経済活動の規模は飛躍的に拡大してきました。しかし利益を優先するあまり自然への配慮が後回しにされ、今なお世界各地で公害は発生しています。

日本でも、工業化が進んだ明治時代以降、しばしば問題として取りあげられてきました。たとえば1800年代後半に表面化した「足尾鉱山鉱毒事件」は、日本で公害が社会問題になった最初期の事例として有名です。また高度経済成長期には「水俣病」「新潟水俣病」「四日市ぜんそく」「イタイイタイ病」といったいわゆる「四大公害病」が発生。深刻な被害を生み出しています。

「四大公害病」が問題になって以降、全国各地で公害をなくそうとする取り組みが進められるようになりました。その結果、1967年には「公害対策基本法」が施行され、1970年には内閣に「公害対策本部」が設置、さらに1971年には「環境庁」が新設されて、本格的な対策が始まります。

1993年には、より広範に環境政策の方針を定めた「環境基本法」が施行。第一章「総則」内の定義にて、次のように定めています。

この法律において「公害」とは、環境の保全上の支障のうち、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁(水質以外の水の状態又は水底の底質が悪化することを含む。第十六条第一項を除き、以下同じ。)、土壌の汚染、騒音、振動、地盤の沈下(鉱物の掘採のための土地の掘削によるものを除く。以下同じ。)及び悪臭によって、人の健康又は生活環境(人の生活に密接な関係のある財産並びに人の生活に密接な関係のある動植物及びその生育環境を含む。以下同じ。)に係る被害が生ずることをいう。

ここで具体例として提示された「大気の汚染」「水質の汚濁」「土壌の汚染」「騒音」「振動」「地盤の沈下」「悪臭」が、「典型七公害」と呼ばれるものです。日本では、事業活動やその他の人の活動によって生じるこれら7つの問題が、法律上で公害と定義されています。

ただし過剰な照明による「光害」のように、近年は「典型七公害」に含まれない問題も発生していて、公害という言葉の具体的な内容は今後も広がっていくと考えられるでしょう。

四大公害病の歴史。【水俣病】の原因、症状、対策などを解説

 

ではここからは、日本で公害対策が本格化するきっかけとなった「四大公害病」について、それぞれの原因や症状、対策をまとめていきます。

まず水俣病は、熊本県水俣市で発生した公害病です。発生した原因は、1932年から同地で操業を開始したチッソ水俣工場が、有害物質のメチル水銀をそのまま排水したこと。周囲の魚がメチル水銀に汚染され、その魚を食べた人や動物が水銀中毒になってしまったのです。

メチル水銀が体内に取り込まれると、四肢や脳内の神経細胞を破壊し、重篤な歩行・言語障害を引き起こします。被害は猫やカラスなどの小型動物から始まり、当初は「猫踊り病」と呼ばれていたそうです。しかし1950年代頃から人にも被害が出るようになり、熊本県や鹿児島県で多くの犠牲者が生じてしまいました。

被害を受けた人の総数は不明ですが、一般財団法人「水俣病センター相思社」は、症状の軽い人も含めると、最大で50万人が水俣病になったと主張しています。

被害が拡大するなかで、1959年には熊本大学が、水俣病の原因がメチル水銀であることを突き止めていました。しかしチッソや当時の通商産業省、厚生省がこれを認めなかったため、政府の対策が遅れます。政府が正式に水俣病を認定したのは、1968年のことでした。

1969年、水俣病の患者と家族がチッソを提訴。裁判が始まり、1973年に原告側の完全勝訴が確定しています。その後排水の規制などが進められた結果、水俣湾の水質は大幅に改善され、熊本県は1997年に安全宣言を出しています。

その一方で、被害者への救済として医療費などの支払いがおこなわれましたが、症状が出ているにもかかわらず水俣病と認定されていない人も多数存在しているのが現状です。水俣病問題は、今なお残り続けているといえるでしょう。

四大公害病の歴史。【新潟水俣病】の原因、症状、対策などを解説

 

新潟水俣病は、その名が示すとおり新潟県で発生した水俣病のこと。昭和電工鹿瀬工場が阿賀野川流域にメチル水銀を排水したことで被害が生じました。「第二水俣病」とも呼ばれています。

最初に被害が確認されたのは、1965年のこと。新潟水俣病も、水銀中毒のため重篤な歩行・言語障害が生じました。被害者の総数は明らかになっていませんが、後に認定された患者数は700人ほどです。

新潟水俣病が拡大した原因として、水俣病の認定をめぐる政府の対策が遅れたことが挙げられます。当時、すでに熊本県では水俣病をめぐりさまざまな指摘がなされていました。しかし政府は、メチル水銀をの排水が原因だという指摘を受け入れず、その結果チッソ水俣工場と同じ操業をしていた昭和電工鹿瀬工場にも、改善の提案はされなかったのです。

1967年、新潟水俣病の患者たちが昭和電工鹿瀬工場を提訴。裁判が始まり、1971年には原告側の勝訴が決まります。その後は補償協定が結ばれ、被害者に対する救済措置がおこなわれました。

しかし熊本県と同様に、症状が出ていても水俣病と認定されていない人が存在します。新潟県は2009年に「新潟水俣病地域福祉推進条例」を施行し、被害者の救済に乗り出していますが、問題は解決されていません。

また昭和電工鹿瀬工場は、資料や産業プラントを撤去するなど証拠隠滅を図った可能性が指摘されていて、新潟水俣病の全容を解明することはほぼ不可能になってしまったとみられています。

四大公害病の歴史。【四日市ぜんそく】の原因、症状、対策などを解説

 

戦前、三重県の四日市市には、海軍の燃料廠が置かれていました。しかし空襲で燃料廠は壊滅。戦後は県や市の誘致で、跡地に石油コンビナートが建設されます。この石油コンビナートは戦後の経済成長を牽引しましたが、一方で排出される煙に含まれた亜硫酸ガスは、健康被害を引き起こしました。

1950年代以降、四日市市周辺の住民たちの間で、ぜんそく患者が急増。症状がひどくなると、心臓発作や肺がんを併発する場合もありました。

当初、大気汚染とぜんそくの因果関係は不明でしたが、三重大学などの調査によって、亜硫酸ガスが原因だと確認。「四日市ぜんそく」と呼ばれるようになり、2019年現在も2000人を超える人が患者として認定されています。

1967年、被害の責任をめぐる裁判が開始。ほかの「四大公害病」と異なり、被告となる企業は1社ではなく6つの企業でした。さらに行政がこれらの企業の誘致を主導したこともあり、責任の所在をめぐる裁判は難航したのです。1972年になって、企業の共同不法行為が認定され、原告の全面勝訴が確定しました。

この裁判で企業責任が立証されたことは、公害に対する救済を推進するうえで大きな影響を与えたといわれています。公害をめぐる行政の姿勢も変化し、1973年に「公害健康被害補償法」が成立。四日市市でもコンビナートの煙突に脱硫装置の取り付けが進められ、被害者に対する医療費支援などの対策が進められています。

1972年には、全国に先駆けて各工場ごとの排出総量を個別に規定する「総量規制」を導入するなど、厳格な対策がおこなわれ、その結果、環境は大幅に改善されました。

四大公害病の歴史。【イタイイタイ病】の原因、症状、対策などを解説

 

富山県の神通川流域で発生したイタイイタイ病。日露戦争後から被害が生じた、もっとも古い「四大公害病」です。

その原因は、三井金属鉱業の神岡鉱業所が排出していたカドミウム。カドミウムは多量に摂取すると腎臓機能が低下し、これにともないカルシウムの吸収が低下して骨の強度が弱くなるなどの症状が現れます。鉱業所から排出されたカドミウムが土壌を汚染し、そこで栽培された野菜や米を食べた人が中毒になりました。

特に中高年の女性に多くみられ、重症化すると骨がもろくなり、脈をとろうとしただけでも骨折してしまったそう。患者たちが「痛い痛い」と泣き叫ぶことから、「イタイイタイ病」と呼ばれるようになります。

日露戦争が終結し、神岡鉱業所の生産量が増えることで被害も増加。第二次世界大戦を経て高度経済成長を迎えると、カドミウムの排出量はさらに増えたため、被害者数も急増しました。

1950年代からは、新聞などを通じて注目が集まり、1960年代に岡山大学などの調査によってカドミウムが原因と断定。1968年から、患者と家族が三井金属鉱業を相手に裁判を起こし、1972年に原告側の完全勝訴という判決が出ています。

これを受けて三井金属鉱業は、損害賠償金の支払いや汚染土壌の復元、公害防止協定書の締結などをおこないました。2013年に、三井金属鉱業と被害者団体が、全面解決を確認する合意書に調印しています。

公害の発生とその後も含めて、歴史と概要を知れる一冊

著者
政野 淳子
出版日
2013-10-22

 

「四大公害病」は学校教育でも必ず取りあげられる有名な出来事ですが、ともすれば「昔」のことだと捉えられがち。しかし実際には、企業の責任が確定した1970年代以後も、補償のための認定をめぐって国と被害者の間で対立が続いているのです。

本書は、それぞれの公害病の概要を紹介したうえで、その後の認定をめぐる政府や司法の判断についても言及しています。

公害の発生から現在にいたるまでの全体像を把握するうえで、読んでおきたい一冊です。

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