戦国時代、織田信長をはじめ多くの大名たちを悩ませ、時に窮地に追い込んだのが「一向一揆」です。この記事では、そのなかでも有名な加賀、長島、越前の一向一揆についてわかりやすく解説します。
「一向」とは、一向宗と呼ばれていた浄土真宗本願寺派のこと。「一揆」とは、自らの要求の実現を求めて信徒らが武装蜂起すること。つまり一向一揆は、浄土真宗本願寺派による武装蜂起という意味です。1488年から1580年頃まで、断続的におこなわれました。
一向一揆には、僧侶や武士、農民、商工業者などさまざまな身分の者が参加していましたが、その精神的支柱となったのが、浄土真宗本願寺派第8世宗主の蓮如(れんにょ)が広めた教義です。「当流の安心は阿弥陀如来の本願に縋り、一心に極楽往生を信ずることにある」と説きました。この教義のもと、それまで末寺に甘んじていた本願寺は大きく勢力を伸ばすことになります。
また「進者往生極楽、退者無間地獄」という言葉も有名です。前進して戦って死ねば極楽に行け、逃げれば地獄に行くという意味。実際にこの言葉自体が用いられていたかは定かではありませんが、一向一揆の核を的確にとらえた言葉であることは間違いなく、いくら攻撃をしても戦うことをやめない信徒たちは、武士にとって恐怖以外の何物でもありませんでした。
また、一向一揆に参加する人数の多さも脅威でした。当時の日本の人口は1500万人ほど。このうち武士は1割程度にすぎず、農民が圧倒的多数を占めていました。武士同士の戦いであれば、多くても数万人規模だったのに対し、一向一揆は数十万人規模を動員することが可能だったのです。戦国時代の各大名の軍は、農民で構成されるのが一般的だったため、彼らは豊富な戦闘経験を有していました。
さらに本願寺は、堺と京都の間に本拠地である石山本願寺を構えていたことことから、交易によって多くの富を得ています。経済力を背景に、鉄砲など当時の最新兵器を大量に装備していたそうです。
このように、信仰に裏付けされた高い士気と固い結束力、圧倒的な人数、豊富な財力、最新の武器を兼ね備えた一向一揆は、戦国時代に生まれた最強の集団といっても過言ではないでしょう。
代表的な一向一揆である「加賀一向一揆」を紹介します。
その発端は、加賀の守護を務める富樫家の内紛です。1467年に「応仁の乱」が起こった際、富樫家の当主だった富樫政親は、東軍である細川勝元のもとにつきました。しかし弟の富樫幸千代は、西軍の山名宗全のもとにつき、兄弟で争うことになったのです。そして1473年、政親は幸千代に敗れて、加賀を追放されることになります。
この時、浄土真宗本願寺派の宗主蓮如は、比叡山延暦寺による迫害から逃れようと、越前に吉崎御坊を建立。ここを拠点に北陸地方へ布教をし、浄土系諸門を次々に吸収するなど勢力を拡大していました。加賀から追放された政親は、蓮如に内紛への介入を要請し、蓮如はこれを受けて1474年に幸千代を倒すのです。
本願寺の援助を得て守護に返り咲いた富樫政親。しかし、反対に本願寺の勢力に脅威を抱き、翌1475年から弾圧に乗り出しました。
加賀に滞在していた本願寺派の門徒たちは、隣国の越中に逃れますが、領主である石黒光義が政親と手を組み、ここでも弾圧を受けます。
この頃、室町幕府9代将軍の足利義尚が、近江の六角高頼を討伐するための兵を挙げると、政親も従軍。これによって戦費が拡大し、本願寺派の門徒だけでなく領民たちの間にも反発が広がっていきました。
1488年、「長享の一揆」が発生し、政親は自害に追い込まれます。1546年には尾山御坊が建立され、一向一揆は北陸一帯に拡大。越前の朝倉氏、越後の上杉氏と戦い、織田信長の家臣である佐久間盛政によって尾山御坊が陥落する1580年までの約100年間、加賀を支配しました。
1570年から1580年まで、蓮如の子孫である第11世宗主・顕如(けんにょ)が率いる石山本願寺と、天下統一を目指す織田信長との間で「石山合戦」がおこなわれます。
顕如は、第15代将軍足利義昭、甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、近江の浅井長政らとともに「信長包囲網」を構築。さらに各地の門徒たちにも信長と戦うことを呼びかけます。これに呼応したのが現在の三重県桑名市に当たる伊勢長島の門徒たちでした。これを「長島一向一揆」と呼びます。
長島一向一揆の中心になったのは、蓮如の六男である蓮淳(れんじゅん)が住職となっていた願証寺。伊勢、尾張、美濃の本願寺門徒を統括し、伊勢湾の海上交通を抑える要衝となっていました。長島という土地は、木曽三川が伊勢湾に注ぐデルタ地帯にあり、攻めにくく守りやすい場所。いくつもの砦を築き、大名の支配からも独立していたのです。
顕如が織田信長と戦うよう檄を飛ばすと、願証寺の住職だった証意はすぐさま呼応します。これに「北勢四十八家」と呼ばれる小豪族の一部も加わり、一向一揆勢は数万人規模に膨れあがりました。
周辺の信長方の城を攻略し、信興の弟である織田信興を自害に追い込み、重臣の滝川一益を敗走させます。この時、当の信長は近江で浅井長政、朝倉義景らと対峙中で、救援に赴くことができませんでした。
織田信長軍による本格的な鎮圧は、1571年5月から始まります。信長は5万の兵力を三手に分けて長島に侵攻。迎え撃つ一向一揆勢は10万以上に膨れあがっていました。
一向一揆勢は大量の鉄砲や、伏兵などの戦術を駆使し、信長軍を撃退します。伊勢湾の制海権を掌握していたため、物資の補給を用意におこなうことができたのです。
1573年9月、浅井長政、朝倉義景を倒した信長は、8万の大軍を率いて再度長島に侵攻します。前回の敗戦の経験から、制海権を奪取するために、伊勢大湊で船を調達することにしました。しかし調達は失敗。大湊は堺や博多と並ぶ商業都市で、会合衆と呼ばれる商人によって治められていたのですが、彼らは一向一揆に同情的だったのです。
制海権を掌握できなかった信長軍は、一向一揆勢の拠点を複数陥落させるものの、鎮圧には至らず、撤退を余儀なくされました。
3度目の侵攻は、1574年6月に始まります。信長軍は12万の大軍で、鳥羽の九鬼嘉隆が率いる水軍が伊勢湾の制海権も抑えていました。
制海権を失い、東西南北を完全に包囲された一向一揆勢は、長島・屋長島・中江・篠橋・大鳥居の5城に追い詰められます。それでもは抵抗を止めず、信長の兄である織田信広や、弟の織田秀成を倒すなど、大きなダメージを与えました。
信長はこれに激怒。最後まで抵抗を続けた屋長島と中江の2城は火攻めにして、城中にいた2万人を焼殺。降伏しようとした者も討ち取ります。これによって、長島一向一揆は壊滅しました。
長島一向一揆が鎮圧された頃、「越前一向一揆」が起こります。
越前は、5代約100年にわたって朝倉氏が支配してきた場所。その最後の当主である朝倉義景が、1573年に織田信長に滅ぼされます。
朝倉氏の旧臣の多くは、そのまま信長に仕えました。信長はそのなかから桂田長俊を守護代に任じ、越前の統治を担当させます。ただ桂田は朝倉氏の重臣だったわけではなく、いち早く寝返った人物だとみなされ、この人事は朝倉氏旧臣たちの間で不評でした。特に犬猿の仲だった富田長繁は、桂田への敵意を募らせ、1574年1月、越前各所の村々の有力者と結んで、反桂田長俊の一揆を発生させるのです。
富田は、およそ3万の一揆勢を率いて桂田長俊を討ち取り、越前をほぼ制圧しました。しかし、同じく朝倉旧臣で、民衆に慕われていた魚住景固を謀殺、一族を皆殺しにしたため民衆からの支持を失います。
さらに、富田は信長に反旗を翻す気はなく恭順するつもりだという風聞が立ったため、一揆勢は富田を見限って、加賀一向一揆の指導者だった七里頼周と杉浦玄任を招き、その指揮下に入りました。こうして富田長繁が始めた一揆は、七里と杉浦による一向一揆に変貌したのです。
七里は、加賀一向一揆を率いて何度も信長と戦い、杉浦にまた加賀一向一揆で朝倉義景や上杉謙信と戦っています。2人とも本願寺の僧侶であると同時に、戦闘経験豊富な武将でもありました。
富田長繁は対立する真宗高田派などと手を組んで抵抗しますが、敗北。一向一揆勢は朝倉の旧臣も次々に滅ぼし、越前を制圧しました。
しかし七里頼周や新たに本願寺から派遣されてきた下間頼照らは、「石山合戦」がおこなわれていることを理由に重税を課すなど、厳しい統治を展開。この頃から、一向一揆に対する一揆が発生するなど、内部が崩れはじめます。
1575年の「長篠の戦い」で武田勝頼に勝利した織田信長は、同年8月、水軍も含む3万ほどの軍を率いて鎮圧に乗り出しました。強みのひとつであるはずの結束力を欠いた越前一向一揆は、数日で鎮圧されてしまいます。信長は「山林を探し、男女を問わず斬り捨てよ」と殲滅を命じ、1万人以上が討ち取られ、さらに3万から4万人ほどが奴隷として美濃や尾張に送られたそうです。
長島一向一揆、越前一向一揆が鎮圧された後も、石山本願寺と信長の戦いである「石山合戦」は継続。石山本願寺は紀州の雑賀衆や、中国の毛利輝元らの援護を受け、1576年の「天王寺合戦」「第一次木津川口海戦」に勝利するなど抵抗を続けます。
しかし1577年、第二次木津川口海戦に敗れ、1579年に有岡城、1580年に三木城が陥落。顕如は朝廷を介して和議を申し入れました。
和議が成立すると、顕如は石山本願寺から退去し、紀伊の鷺森御坊に移ります。石山本願寺は8月に信長に引き渡されますが、その直後に出火。灰になりました。出火原因は、信長軍の松明が燃え移ったとも、退去を快く思わなかった者による放火ともいわれていますが、明らかになっていません。
いずれにせよこれにて、10年にわたって信長を苦しめた「石山合戦」が終結しました。
- 著者
- 神田 千里
- 出版日
- 2016-09-22
宗教社会史を専門とする歴史学者で、一向一揆や島原の乱などに関する著書を多く手掛ける神田千里。本書では、「宗教」という切り口から戦国時代を考察しようと試みています。
各大名とと宗教の関係を解説したうえで、加賀一向一揆や石山合戦を題材に民衆における宗教を取りあげ、大名への信仰との共通点・相違点を紐解いていきます。
また戦国時代に渡来したキリスト教についても解説。争いが絶えない激動の日々のなかで、人々は何に心の安定を求めていたのでしょうか。
ただ事象を暗記するのではなく、特定のテーマで歴史を見ることで、これまでとは違ったものが見えてくるはずです。
- 著者
- 長澤 規彦
- 出版日
- 2017-12-10
一向一揆に苦しめられたのは、織田信長だけではなく、徳川家康も同様です。本書は徳川家康を主人公に、1563年から1564年にかけて起こった「三河一向一揆」を取りあげています。
一向一揆側には、徳川家康を支える本多正信や蜂谷貞次、夏目吉信などの家臣、桜井松平氏、大草松平氏などの一族も加わっています。「犬のように忠実」と揶揄されるほどの忠誠心と結束力で知られた家臣団の半数が離反するなど、三河一向一揆は家康の三大危惧とされているのです。
ただこの三河一向一揆、発生の原因について明らかになっていません。なぜ彼らは戦わなければならなかったのか、歴史に思いをはせることのできる一冊です。