歴史の授業で耳にしたことがある人も多いかもしれない「プロレタリア文学」。日本では特に『蟹工船』が有名ですが、そもそもプロレタリア文学とはどのようなものなのでしょうか。この記事では、マルクス主義やロシア革命との関係を解説したうえで、代表作家とおすすめの作品を紹介していきます。
プロレタリアは、「労働者、無産者」という意味。プロレタリア文学は、労働者の厳しい現実を描いた文学作品のことです。日本では1920年代から1930年代にかけて流行しました。
そもそもプロレタリアという言葉は、マルクス主義に由来しています。マルクス主義は、人々が労働者であるプロレタリアと、彼らを雇用し働かせるブルジョワに分裂していることを指摘し、ブルジョワの資産を社会全体の財産としようと主張しました。
1917年に「第二次ロシア革命」が起き、ロシアの皇帝専制政治が倒されて社会主義国家が樹立すると、各国に社会主義革命を起こそうとする運動が広がります。戦前の日本もその影響を受け、マルクス主義を主張する人々が現れました。
そのような社会の動きのなかで、プロレタリア文学もひとつのジャンルとして確立していったのです。
時に過酷な状況で働かされた労働者を描き、社会主義や共産主義的な考え方を主張しています。作品に込められた政治的なテーマは、もしかしたら現在の日本の労働者問題に通じるところがあるかもしれません。
ではここからは、プロレタリア文学の代表作家と、それぞれの代表作の魅力を紹介していきます。
作者の小林多喜二は、1903年に東北の貧しい農家で生まれました。伯父の計らいによって小樽に移り、工場に住み込みで勤務。小樽高等商業学校に進学します。卒業後は親に楽をさせようと、銀行で働きました。
ところが1928年に、マルクス主義の団体を警察が弾圧した「三・一五事件」が起きたことで、多喜二の人生が変わります。貧しい農家の出だった多喜二は憤慨し、「三・一五事件」を題材にした小説を執筆し、文芸誌「戦旗」に発表したのです。
翌年には代表作『蟹工船』を発表。同作はプロレタリア文学作家として多喜二を一躍有名にしました。
しかし、「三・一五事件」を描いた小説の作中で、特別高等警察による拷問の様子を描いたために怒りを買い、1930年に逮捕。1933年に獄中で拷問死しました。
- 著者
- 小林 多喜二
- 出版日
- 2003-06-14
1929年に発表された『蟹工船』。捕獲した蟹を船内で加工できる設備がある大型船を舞台にした作品です。航海法も労働法規も適用されず、過酷な状況で働かされ続ける労働者たちを描きました。
彼らは風呂にも入れず、監督者に歯向かうこともできないまま、劣悪な環境で働くことを余儀なくされています。しかし、ある日その環境に耐えられなくなった乗組員が、ストライキを起こそうと立ち上がるのです。
「おい地獄さえぐんだで」という冒頭の1文があまりにも有名ですが、作中にはほかにも数多くの名言があります。たとえば「俺達には、俺達しか、味方が無えんだな」というセリフ。過酷な状況下で働き、雇用者に都合よく使われる労働者たちの悲痛な思いがひしひしと伝わってくるでしょう。
日本のプロレタリア文学の代表作である『蟹工船』、教養としても読んでおきたい一冊です。
作者の黒島伝治は、1898年に香川県で生まれました。中等教育の学校に進学することができず、実業補習学校を卒業した後に醤油工場で働き始めます。1919年には兵役に召集され、シベリア出兵に従軍しました。
兵役終了後に小説を書き始め、農村を舞台にしたプロレタリア文学や、シベリアで出兵の体験をもとにした戦争文学を執筆します。
当時のプロレタリア文学は労働者を主人公にしたものが多かったものの、農民を主人公にした黒島の作品も人々に受け入れられ、有名になりました。
- 著者
- 黒島 伝治
- 出版日
- 2017-08-10
『豚群』は、黒島伝治が執筆したプロレタリア文学の代表作。差し押さえに反抗する農民の姿が描かれた短編小説です。
農業だけでは生きていけないため、豚を飼っている農民。しかし役人たちに豚を差し押さえられそうになるのです。農民はどうにかして知恵を働かせて抵抗していくのですが、一体どんな結末が待っているのでしょうか。
物語自体が非常に短く、読みやすいのが特徴。それでいて、戦前の人々がどのように生き、官吏たちが貧しい人々に横暴な態度をとっていたのかがよくわかるのが魅力でしょう。
1899年、熊本県の貧しい小作人の家に生まれた徳永直。小学校を卒業する前からさまざまな職を転々とし、20代のころには小説を書き始めます。
労働運動にも参加するなど精力的な活動を続ける一方で、当時働いていた共同印刷株式会社で起こった労働争議に敗れ、解雇されてしまいました。
しかし、この経験をもとに長編小説『太陽のない街』を執筆し、労働者のストライキや闘いの有様をリアルに描き出したことで有名になります。労働者出身のプロレタリア文学作家として地位を確立したものの、小林多喜二の拷問死などの事件などを受けて弾圧の強まりを感じ、1933年には日本プロレタリア作家同盟を脱退しました。
- 著者
- 徳永 直
- 出版日
- 2018-07-19
徳川直が関わった印刷会社の労働争議をモデルにした『太陽のない街』。1929年に発表されました。「太陽のない街」と呼ばれた労働者の住む長屋や、そこに住む労働者の切迫した生活がリアルに描かれています。
複数の外国語に翻訳され、世界中で広く読まれることになりました。徳川自身の実体験にもとづいているため、どの作品よりも克明に闘争が描かれているのが本書の魅力でしょう。
会社の首切りに対して労働者たちはストライキを起こし反抗しますが、資本家側の策略もあり、闘争はどんどん発展。最後には、労働者側が敗北してしまいます。
本作を発表後、徳川はプロレタリア文学から遠のいてしまいますが、『太陽のない街』はプロレタリア文学史上『蟹工船』と並ぶ名作。読んでおきたい一冊です。
平林たい子は、長野県の貧しい農家に生まれ、ロシア文学に触れたことで小説家を目指すようになりました。
高等女学校に首席で合格し、在学中に社会主義に興味を持ち始めます。卒業後は朝鮮や満州への滞在を経て、その経験をもとに小説を執筆。なかでも満州滞在中の出産を描いた『施療室にて』は、彼女がプロレタリア文学作家として認められるきっかけになりました。
さらに平林たい子は、『かういう女』で、第1回「女流文学者賞」を受賞します。戦後は転向文学作家として活躍しました。
- 著者
- 平林 たい子
- 出版日
- 1996-05-10
平林たい子がプロレタリア文学作家として認められるきっかけとなった『施療室にて』は、テロを企てた夫とともに逮捕されることとなった「私」が病院で子どもを産む物語です。
無事に生まれるものの、じきに子どもは亡くなってしまいます。その原因は、脚気になっていた「私」が母乳を与えたことでした。自分の乳を与えれば子どもも病気になると知っていたはずなのに、なぜ「私」は授乳に踏み切ったのでしょうか……。
平林たい子自身も、満州で出産をするも、栄養失調によってわずか24日で子どもを亡くしています。貧しさと当時の時代背景がとうとうと描かれ、当時の人々の暮らしや弾圧について考えさせられる一冊です。
1902年に福井県で生まれた中野重治。東京帝国大学在学中に同人誌を創刊し、詩や評論など幅広い作品を発表してきました。
学生時代からマルクス主義やプロレタリア文学運動に参加し、全日本無産者芸術連盟や日本プロレタリア文化連盟の結成にも関わっています。
1931年に日本共産党に入るものの、検挙されて転向。社会主義や共産主義の立場から退くことを条件に出獄し、それ以降プロレタリア文学から遠ざかりました。
終戦後は再び日本共産党に入党し、政治家としても活動しています。
- 著者
- 中野 重治
- 出版日
- 1994-03-04
『村の家』は、治安維持法違反によって投獄された人物を主人公にした小説です。投獄され2年間、病気や発狂への恐怖、転向することへの誘惑と闘ってきましたが、なんとか出所して故郷に帰ることになるというストーリーになっています。
本作は転向文学と呼ばれるもの。プロレタリア文学が出版された時代、政府は軍国化の妨げになるとして社会主義や共産主義の思想を取り締まりました。文学作品も弾圧を受け、作家たちは常に弾圧や検挙の恐怖と闘っていたのです。「転向」とは、社会主義や共産主義の放棄を意味し、これらをテーマにした作品が転向文学として親しまれました。
中野治重もまた、検挙後に転向を条件に出獄しています。プロレタリア文学を読む際は、転向文学にも触れておくとより一層、当時の時代背景を知ることができるでしょう。
労働者の過酷な状況やストライキをテーマにしたプロレタリア文学。弾圧や検挙を経験した作家たちが、それでも書き続けてきた作品には強い思いを感じます。教養としても知っておきたい作品ばかりですので、ぜひお手にとってみてください。