アメリカの北部と南部が戦った「南北戦争」にて、天王山といわれている「ゲティスバーグの戦い」。一体どのようなものだったのでしょうか。この記事では死者数などの概要、戦いの背景、経緯、リンカーン大統領がおこなったゲティスバーグ演説などをわかりやすく解説していきます。あわせて関連するおすすめの本も紹介するので、チェックしてみてください。
「ゲティスバーグの戦い」は1863年7月1日から3日にかけて、アメリカのペンシルベニア州でくり広げられた「南北戦争」の一戦です。
当時、「南北戦争」は一進一退の攻防が続いていましたが、1863年4月末から生じた「チャンセラーズヴィルの戦い」に南軍が勝利したことで、東部戦線における形勢は南軍優位に傾きつつありました。
勢いに乗る南軍は北部に侵攻し、ボルティモアやフィラデルフィアなど北軍の拠点を攻略することを目標にします。まずは東部戦線を優位に進め、その後苦戦が続く西部戦線を援助しようという作戦でした。西部戦線は、ミシシッピ川を抑える重要な拠点である要塞都市ヴィックスバーグが北軍に包囲される危機的状況だったのです。
ペンシルベニア州にあるゲティスバーグは、鉄道や主要な道路が交わる交通の要衝。この地を抑えることができれば、戦況はさらに優位になります。
南軍の指揮をとっていたのは、ロバート・エドワード・リーという人物。「アメリカ史上屈指の名将」といわれていて、アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの義理のひ孫を妻にし、「アメリカ・メキシコ戦争」で武勲を立て、「南北戦争」では大佐という階級でありながら北軍の司令官就任を要請されたほどの逸材でした。
しかし彼は、出身地であるバージニアへの郷土愛からこの要請を断り、南軍の司令官として北軍を苦しめることになります。
一方の北軍は、「チャンセラーズヴィルの戦い」に敗れたジョセフ・フッカーが更迭され、ジョージ・ミードという人物が率いていました。彼はスペイン出身で、当時大統領だったエイブラハム・リンカーンは、もし戦争に勝利して英雄扱いされても大統領選のライバルにならないであろうという、政治的な理由で抜擢したといわれています。
戦力は、南軍が約7万2000、北軍は約9万4000。戦闘自体は互角だったものの、南軍による侵攻を食い止め、戦線を押し返すことに成功したため、「ゲティスバーグの戦い」は北軍の勝利といわれています。
3日間の戦いで、南軍の死者数は3155人、負傷したのは1万4351人、北軍の死者数は4707人、負傷したのは1万2693人。損害はほぼ等しいものでしたが、もともと人的資源が不利な南軍にとっては、厳しいものでした。
「ゲティスバーグの戦い」をきっかけに戦況が大きく変わっていったため、「南北戦争」の成り行きを決めた天王山といわれています。
1776年の独立以来、領土を拡大していったアメリカ。しかしその過程で南部と北部の間に生活様式や経済構造における違いが生まれ、歪みが生じていました。
南部の主要な産業は農業で、プランテーションで栽培した綿花をヨーロッパに輸出することで経済が成り立っていました。このプランテーション経済には、黒人奴隷の安価な労働力が欠かせません。またイギリスで綿工業が発達し需要が拡大していたので、南部はイギリスを中心とする自由貿易圏に所属することを望んでいました。
一方で北部では、1812年から1815年にかけて起こった「米英戦争」以降、工業化が進展し、多くの白人労働者が誕生していました。白人労働者にとって、安価な黒人奴隷労働者の存在は邪魔なもの。また自国の工業製品を守るために、保護貿易を望んでいました。
これら奴隷制と貿易への姿勢の差が、南部と北部の対立へと繋がっていくのです。
両者が対立するなかで、アメリカはフランスからルイジアナを買収、メキシコから独立したテキサスとカリフォルニアを併合するなど、さらに領地を拡大していきました。もともと人口は、北部が約2200万人に対して、南部は400万人の奴隷を含めても約900万人しかおらず、南部の危機感が強まっていきます。
さらに1854年から1861年にかけて、カンザスが南部の奴隷州に入るのか、北部の自由州に入るのかをめぐり暴力的衝突が発生。関連して、最高裁判所が「アフリカ人の子孫が奴隷であるか否かに関わらず、アメリカ合衆国の市民にはなれない」「アメリカ合衆国議会には連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限はない」と判決をくだし、奴隷制度反対派が激怒します。
そんななかで1860年11月におこなわれた大統領選挙では、奴隷制の是非が大きな焦点となりました。その結果、奴隷制の拡大に反対していたリンカーンが当選します。
この時点でリンカーンが反対していたのは奴隷制の拡大であり、奴隷制そのものを廃止しようとしているわけではありませんでした。しかし同年12月には、サウスカロライナ州がアメリカ合衆国からの脱退を宣言。1861年2月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も後に続き、2月4日に「アメリカ連合国」を結成します。
アメリカ連合国の首都はアラバマ州モンゴメリーとされ、軍人出身でミシシッピ州の上院議員だったジェファーソン・フィニス・デイヴィスが暫定大統領に就任しました。
4月12日、南軍が北軍のサムター要塞を砲撃。これに刺激を受け、合衆国に残留していた奴隷州のうち、バージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州も南軍に加わることになります。
「南北戦争」はアメリカでは「The Civil War」と呼ばれ、両軍あわせて90万人以上の死者を出すことになるのです。
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「ゲティスバーグの戦い」は、1863年7月1日早朝5時頃、南軍の歩兵が北軍の騎兵を攻撃したことで開戦しました。意図していたわけではなく、ゲティスバーグを偵察しようとしていた南軍の歩兵部隊が、警戒中の北軍の騎兵部隊と偶発的に遭遇してしまったそうです。
当初は小競りあい程度でしたが、両者が次々に援軍を投入したことで激しさを増し、大規模な戦闘に発展します。戦線を突破しようとする南軍に対し、北軍は陣地を構築して防衛線を張り、初日は終了しました。
7月2日、南軍は準備に手間取り、午後4時頃になって北軍陣地への攻撃を再開します。南軍の攻撃は熾烈を極めましたが、援軍の到着と北軍を指揮するジョージ・ミードの手腕によって、北軍も持ちこたえました。
7月3日、南軍は早朝から攻撃を開始するものの、午前11時になっても戦線を突破することができません。指揮をとっていたロバート・エドワード・リーは作戦の変更を余儀なくされます。新たに考案したのは、バージニア師団に6個旅団を加え、北軍の左翼中央部第2軍団に突撃をするというものでした。
第2軍団は北軍のなかでも精鋭部隊として知られていて、「極上のハンコック」という異名をもつ名将ウィンフィールド・スコット・ハンコックが指示を出しています。
午後1時、南軍は170門の野砲による「南北戦争」最大規模の砲撃を敢行。これに対し北軍も、野砲80門で対抗射撃をおこないます。
午後3時、放火が収まると、1万2500人の南軍歩兵部隊が北軍の前線に対して攻撃。一時は北軍も動揺しますが、素早く援軍が投入されたこともあって持ち直し、南軍は多くの被害を受けたうえで撃退され、「ゲティスバーグの戦い」は終結しました。この南軍の突撃は、直接指揮をとった将軍の名をとって「ピケットの突撃」と呼ばれ、「ゲティスバーグの戦い」におけるハイライトのひとつといわれています。
終結した翌日には、要塞都市ヴィックスバーグが北軍に降伏。「南北戦争」の局面は北軍側に大きく傾いていくのです。
「人民の、人民による、人民のための政治」というフレーズで有名な「ゲティスバーグ演説」。
「ゲティスバーグの戦い」から4ヶ月後の1863年11月19日、「南北戦争」における戦没者墓地の開所式でリンカーン大統領がおこなったものです。演説に先立ち組織委員長から「適切な短いスピーチ」を求められたことから、時間はわずか2~3分。272語1449字という短いものになりました。
しかしその短さにも関わらず、ゲティスバーグ演説はアメリカの歴史においてもっとも有名な演説のひとつとなり、独立宣言、合衆国憲法と並ぶ特別な位置を占めています。
またリンカーン大統領の業績としてもぅひとつ有名なのが、「奴隷解放宣言」です。
「奴隷解放宣言」は「南北戦争」の最中である1862年9月に出されたもので、アメリカ連合国の支配地域に対し、奴隷の解放を命じています。アメリカ合衆国の支配地域は対象外でした。
リンカーンが奴隷解放宣言を出した理由は、「奴隷を解放しようとする動きを見せることで、南北戦争の戦況が北軍有利になる」という軍事的・政治的な考えにもとづくもの。
彼自身も、あくまでも「合衆国を守ること」が目的で、「奴隷制度を救うことでも、亡ぼす事でもない」と述べたうえで、「もし奴隷をひとりも自由にせずに合衆国を救うことができるならばそうするし、すべての奴隷を自由にすることによって合衆国を救うことができるならばそうする。また、一部の奴隷を自由にして、他はそのままにしておくことによって合衆国を救えるならばそうするでしょう」と話しています。
実際にこの試みは、北軍には「合衆国と自由のために」という大義名分を与えることになり、イギリスやフランスなど外国からの支持を得ることにも繋がっています。奴隷が重要な役割を担っていた南部における、奴隷たちの反乱やボイコットを引き起こすことにも繋がり、「南北戦争」の戦況を北軍優位に傾かせることに成功しました。
つまりリンカーンは、「奴隷解放宣言」という手段を使って、「合衆国の分裂危機を防ぐ」という目的を果たしたのです。
- 著者
- 貴堂 嘉之
- 出版日
- 2019-07-20
アメリカの歴史を紐解くシリーズの2冊目で、「南北戦争」を中心に取り上げている作品です。
「南北戦争」は、それ以前と以後ではまったく国の姿が異なるといわれるほど重要な出来事だとされています。それまで州の集合体でしかなかったアメリカが、強固な連邦制国家に生まれ変わるきっかけになりました。
「南北戦争」によってアメリカがどう変わり、現代に繋がっているのかを俯瞰で知ることができる一冊になっています。
- 著者
- エイブラハム・リンカーン
- 出版日
- 1957-03-25
リンカーン大統領の演説をまとめた作品。議員時代のメキシコ戦争に関する演説、大統領に就任する際の演説、奴隷解放宣言、もちろん有名なゲティスバーグ演説も含まれています。
冒頭には本人の簡単な自叙伝も収録されていて、リンカーンの政治人生を追いながら、当時の時代背景と彼の信念を知ることができるでしょう。
臨場感のある翻訳もわかりやすく、心に染み入る読み物としても楽しめる作品です。