上演が終わり、お客さんのいなくなった舞台にブルーシートをひき、みんなで飲んでいた。

演劇のことや出演者、その日の上演について、楽しく、話は途切れなかった。

空き皿が増えていき、缶ビールがなくなり、紙コップにウイスキーを入れて飲み始めた頃、

どこからともなく、神泉の話になった。

上京したばかりの私は東京の地名に疎く、あまりピンときていなかった。

神泉というのは、京王井の頭線の駒場東大前駅と渋谷駅の間にある駅名だった。ここの隣の駅だ。

あの辺りは不気味で近付きたくないと田中さん(仮名)が言った。

それに続き、何人か同意した。

最年長で博識の中村さん(仮名)が、キャンディチーズを食べながら、渋谷や神泉は谷の底になっているから淀んだ空気が集まりやすいんだよと言った。

東京は都会でいろんな場所が開発されてしまって、地形の判別がつきにくいけれど、渋谷は低い場所にある。現に地下鉄の電車が渋谷に近づくにつれ、地上に出てくる。

水が高いところから低いところへ流れるように、悪い気も低いところへ集まりやすいらしいのだ。

悪い気というのは、目に見えないから私は見たことがないけれど、確かに夜の渋谷は下水が上ってきたようなくさい臭いがする。

音響の松本くん(仮名)が神泉駅のそばにあるアパートの話知ってる?と私に顔を向けた。そのときの松本くんの振り向く勢いがすごかったので、松本くんの持った紙コップの中のお茶がこぼれそうになった。

そのアパートで昔、ある女性が殺されたらしい。女性は昼間は大企業の社員、夜は街娼として渋谷の片隅に立っていた。

その事件は謎が多く、まだ犯人は捕まっていないそうだ。

魅力を感じる。実を言うと、私は都市伝説や怪談など、その手の類いのものが大好きで、演劇を始めたのも「いつかホラー映画に出演したい!」と熱望していたからだったのだ。これは未だにマネージャーや家族や誰にも言ったことのない本当の理由だ。ホラー映画に出演すれば、いつか本物の心霊に会えるかもしれないと思いを馳せている。

松本くんから予想外の言葉が飛び出してきた。「今からそのアパートに行きませんか?」

アイフォンは22時19分と表示していた。帰るには少し早く、だが今からアパートへ行くには少し遅い時間だ。しかし、今日は13日の金曜日。何か不吉で特別なものがあるとしたら、今日しかない。でも、明日も昼から公演で、体が少し疲れている。終電を逃したくない。

指の油がベッタリついたレンズから、彼の細い目が私を一直線に観察している。答えあぐねていると、ニッと黄色い歯を見せ、私の右腕を引っ張った。突然のことで驚き、手を振り解こうとした。しかし、彼の細い体から想像つかないほどの力で、無意味だった。体がよろけ、テーブルの上の瓶に当たった。瓶は倒れ、口元からウイスキーが流れ、テーブルを伝い、ブルーシートを濡らす。こんなときなのに、「ブルーシートひいてて、良かった!!!」と思った。

周りのみんなは気付いていないのか、まだお喋りをしていた。話題はとっくに変わっていて、恋愛や結婚の話をしている。私は助けを求めた。だが、誰も見向きもしなかった。こんなつらい目に遭っているのに、誰も助けてくれないなんて!私は普段の自分の行いを責めた。もっと買い出しとか手伝いとかすれば良かった。孤独だ。涙が溢れてきた。松本くんの握る力がどんどん強くなっていく。私は反対側の手で松本くんの顔を、頭を、バシバシ叩いた。何発目かのとき、松本くんの眼鏡にたまたま当たり、眼鏡がズレた。彼は驚き、私の腕を離した。私はそのまま床に倒れ込んだ。彼の方を振り返ると、一匹の犬がいた。あれ? 劇場に犬なんかいたっけ? 犬は尻尾を振りながら近づいてくる。犬は私を睨む。よく見ると、その犬の顔は松本くんだった。

そう、松本くんは人面犬だったのだ!!!!!!!!

気がついたら、自宅のベッドの上だった。頭が割れるように痛い。二日酔いだ。あれからどうやって帰ったのか覚えていない。シャワーを浴びた。右腕に痣がついていた。とっさに松本くんに謝らなきゃと思った。

劇場に着くと、飲み会の片付けを誰かがしてくれていたらしく、キレイになっていた。楽屋には田中さんが先に来ていて、ストレッチをしていた。「昨日の飲み会の片付けありがとうございます。手伝わなくてすみません。酔っ払ってて」と一応謝っておくかっていう挨拶ではなく、本当に申し訳なく思い、もごもごしながら言った。そしたら、田中さんは不思議そうな顔で私を見て、「昨日は飲み会なんてなかったですよ」と言った。夢だったのか? じゃあこのアザは? 「でも、私、飲み会で松本くんと」「松本くん? どなたですか?」あれ? どうして? 「音響で入ってくれてる眼鏡の」と言いかけたとき、窓から誰かが覗いていた。「松本くんだ!」私は急いで窓を開けた。そこには一匹の人間の顔をした犬がネズミを咥えて、佇んでいた。

グロテスク(上・下)

著者
桐野 夏生
出版日

グロテスクは「東電OL殺人事件」が元になっている。主人公の私は白人と日本人のハーフで、妹がいる。妹「ユリコ」は絶世の美女だが、私は地味で器量も良くない。私は妹に対し、憎悪や恐れを抱く。

私は名門の女子校に入り、そこで「ミツル」や「佐藤和恵」に出会う。そして、真面目だった「佐藤和恵」は大企業に入り、夜は娼婦の生活を送るようになる。

ある日、「ユリコ」と「佐藤和恵」は何者かによって殺される。

日記や手紙、上申書などの内容から、色んな人の目線で物語は進んでいく。人間の本質や美醜、学歴、格差社会や女の業について描かれている。

「あたしたちは下から来ることが最上級であるかのように、Q学園では学ばされた。高等部よりは中等部、中等部よりは初等部。初等部ならば、兄弟姉妹や親や親戚もそうでなくてはいけない。生え抜き。それが最高の位だったからよ。本当に馬鹿馬鹿しいことね。でも、笑えないわ。むしろ、怖いことよ。あたしたちが暮らすこの日本を支配している価値観なのだから」

最初はどんな奇人が出てくるんだろう?とワクワクしながら読み進めていたが、読むにしたがって、「これは私の物語だ」と思わされた。ここに出てくる人たちは至極真っ当で、逃れられない現実と向き合い、戦い続けていた。その現実を言葉で表すなら、「不平等」や「孤独」というものなのかもしれない。

他人にどう思われるか、他人からどう見られているのか、考え過ぎて疲れてしまった方にこそ是非読んでもらいたい。答えは多分見つからないし、共感できる部分も少ないかもしれないけど、たった一行で救われることもあると思う。

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