5分でわかる首里城の歴史!琉球王国から沖縄まで、歩みをわかりやすく解説

更新:2020.4.3

2019年10月、首里城の火災が起こり、多くの人々を驚きと悲しみが襲いました。しかし実はこれまでも4回消失し、そのたびに再建してきたのをご存知でしょうか。この記事では、沖縄の象徴である首里城に焦点を当て、琉球王国時代から現在に至るまでの歴史をわかりやすく解説します。理解を深めることができるおすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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首里城の歴史は、琉球王朝の歴史でもある

 

沖縄県那覇市首里金城町にある「首里城」。グスクと呼ばれる琉球王国の王城で、築城された年代は不明ですが、発掘調査によって最古の遺構は14世紀末頃のものと推定されています。

当時の琉球は、各地の支配者を束ねる強力な王が現れていて、現在の糸満市を中心とする「南山王国」、今帰仁村を中心とする「北山王国」、そして那覇市と浦添市を中心とする「中山王国」が対立する「三山時代」でした。首里城は、この中山王国の首府として創建されたものだと考えられています。

1429年、佐敷という地域を支配していた尚巴志(しょうはし)が3つの王国を滅ぼして統一王朝を成立させると、首里城を大幅に拡張。王城にふさわしいものになるよう整備していったのです。

琉球王国は、最盛期でも人口17万人ほどの小国でしたが、日本の鎖国政策や中国の海禁政策のさなか、東シナ海にある地の利を活かして、日本、中国、朝鮮、南方諸国、西洋諸国との中継貿易で繁栄します。首里城は拠点となった那覇港を見下ろす高台にあり、琉球王国の繁栄を見守り、諸外国からの使節を迎え入れ、接待する場として用いられてきました。

また琉球王国は、中国・明の冊封国でしたが、その立地から日本との関係も深く、豊臣秀吉による朝鮮半島への侵略「文禄・慶長の役」の際は食料を提供するなど、日本軍を支援しています。

しかし政権が豊臣から徳川へと移りゆく1609年、薩摩藩から武力侵攻を受けました。漂着した琉球王国の船を手厚く送還したにもかかわらず琉球側が謝恩使を派遣しなかったこと、説得に赴いた薩摩藩の使者に対して侮蔑的な態度をとったことなどが表向きの理由でしたが、実際には財政状況が悪化していた薩摩藩が東シナ海の貿易利権を独占するために起こした戦争だったそうです。

樺山久高や平田増宗など歴戦の武将に率いられた薩摩軍の前に、琉球王国も抵抗を試みたものの敗戦。首里城を開城します。この時、琉球王国は明に救援を依頼していますが、すでに明の国力も衰えていて、助けを得ることはできませんでした。

これ以降、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、薩摩藩への貢納と、江戸幕府へ使節の派遣を義務付けられます。

さらに明に代わって中国大陸を統一した清とも冊封関係が続いていたため、薩摩藩と清への両属体制となりました。

1853年、日本に向かう途中のペリー率いる黒船が来航。首里城に入って開港を求めます。翌年には「琉米修好条約」を締結しました。

このように小さな琉球王国で起きた歴史上の大きな出来事は、ほぼ首里城が舞台となっているのです。

 

首里城は沖縄県となり、戦争を乗り越えて世界遺産に

 

明治維新によって日本の政権が江戸幕府から明治政府に代わると、1872年に琉球王国は「琉球藩」として日本の統治下に組み入れられ、王だった尚泰(しょうたい)は侯爵となります。

さらに明治政府は琉球王国に対して、廃藩置県を実施するため、清との冊封関係を解消し、明治の年号を使用することと、尚泰の上京を迫りますが、琉球王国はこれを拒絶します。

すると明治政府は、1879年に松田道之を処分官として派遣しました。警官や兵士など約600人を引き連れて沖縄に上陸した松田は、3月27日、首里城にて廃藩置県を布達します。首里城の明け渡しを命じ、4月4日には琉球藩の廃止および沖縄県の設置を断行。初代県令として前肥前鹿島藩主の鍋島直彬が赴任しました。

尚氏一族は華族として東京への移住を命じられ、住む者の居なくなった首里城は日本陸軍の軍営や学校として利用されるようになったのです。この間に首里城は荒廃が進み、老朽化で崩壊寸前の状況に陥ってしまいました。

そんな状況を救ったのが、建築家の伊藤忠太や、沖縄文化研究者の鎌倉芳太郎です。彼らの奔走によって、1925年に「特別保護建造物」に指定され、1927年から1932年にかけて、正殿の改修工事がおこなわれました。

その後太平洋戦争が起こると、沖縄は激戦地に。首里城も例外ではありません。地下には地下壕が掘られ、陸軍の総司令部が置かれますが、アメリカ軍の激しい砲撃で破壊されてしまいます。日本軍が沖縄南部から撤退した際には、歩行不能の重傷兵およそ5000人が首里城の地下で集団自決を遂げました。

また首里城の宝物庫には琉球王国時代からの宝物や文書など、貴重な文化財が多数収められていましたが、その多くは略奪されてしまいます。一部は戦後に返還されたものの、いまだに行方知れずになっているものも多くあるそうです。

終戦後はアメリカの統治下に置かれ、首里城の跡地には琉球大学が建設され、多くの遺構が撤去、または埋められてしまいました。

しかし沖縄の人々にとって、首里城の再建は悲願。1958年に守礼門が再建されたのを皮切りに、発掘調査や復元作業がおこなわれます。それは1972年の沖縄返還以後も継続されました。

1992年には、正殿を中心とする建物群、門の数々、城郭などが再建され、首里城公園が開園。2000年には「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、他のグスク跡とともに世界遺産に登録されます。

2018年には、尚氏の現当主である尚衞によって、歴代国王が眠る陵墓、玉陵(たまうどぅん)にて祖先を供養する伝統祭事「清明祭(シーミー)」が執りおこなわれました。

そして2019年1月、長きにわたった復元工事が完了。首里城はかつての美しい姿を取り戻したのです。

首里城「正殿」の構造は?日本と中国のハイブリッド文化

 

首里城は、緩やかな曲線を描く城壁に囲まれ、そのなかに多くの施設や広場、信仰上の聖地が存在しています。この形は首里城だけでなく各地のグスクにも見られる特徴で、琉球王国独自の文化です。

それと同時に首里城には、中継貿易で栄えたという歴史的背景から、日本や中国の文化的特徴も随所に溶け込んでいます。

その構造は、大きく「内郭」と「外郭」に分けられます。内郭は15世紀初期、外殻は16世紀中頃に建てられました。正殿をはじめとする各施設は東西の軸線に沿って配置されていて、西を正面としています。

正殿は、王による政治や儀式がおこなわれた建物で、別名を「唐玻豊(からはふぅ)」ともいうのですが、この名称は正殿の中央正面を華やかに彩る「唐破風」に由来するもの。「唐」とついている点や、中国で国王を象徴する龍の意匠が多く用いられている点から、中華風の建物だと考えられがちですが、木造二層三階、赤瓦葺きの入母屋造り、朱塗りの柱など、その建築様式は日本の神社や寺院にもよくみられる和風建築のもの。いわば中国と日本の文化をあわせたハイブリッド型だといえるでしょう。

これに対し、中国からの使節を接待するために使われた「北殿」には中華風、薩摩藩の使節を接待するために使われた「南殿」には和風の意匠が多く用いられています。

中国と日本の間にあり、国王自らは両者を掛け合わせたような正殿に座すという首里城の構造は、「万国津梁」、つまり交易を通じて国々を結ぶ架け橋となることで自国を豊かにすることを是としていた、琉球王国そのものを表しているといってよいでしょう。

首里城の歴史は焼失の歴史でもある。火災の原因と再建を解説

 

2019年10月31日、復元工事が終わったばかりの首里城で火災が発生し、沖縄県民をはじめとする多くの人々が悲しみにふけりました。

この火災で、のべ4800平米が焼失。そのなかには、正殿、北殿、南殿をはじめとする7棟の建造物が含まれています。さらに、琉球王国時代の絵画や漆器など文化財421点が焼失するなど、歴史的損害は計り知れません。

出火元は正殿と推測されていて、火災の原因は正殿1階に設置されていた分電盤のショート、もしくは輻射熱による自然発火だと考えられています。

建物の多くが木造であったことや、赤い塗料として沖縄独特の桐油を用いていたこと、正殿1階に煙感知器が設置されていなかったこと、消火設備の一部が正常に作動しなかったこと、夜間を想定した消防訓練を十分におこなっていなかったことなど複数の要因が重なった結果、被害は拡大しました。

文化庁では、同年4月にフランスのノートルダム大聖堂が全焼した火災を教訓として、「国宝・重要文化財(建造物)の防火対策ガイドライン」を定め、対策に乗り出していましたが、間に合いませんでした。

しかし、直後から再建に向けた取り組みも始まっています。世界各地から復興のための寄付が贈られ、クラウドファンディングなどのプロジェクトも立ち上がりました。政府も復興の過程を一般公開し、観光資源とする「見せながら再建」を主軸として2026年の正殿再建を目指すことを決めています。

首里城はこれまでにも、1453年、1660年、1709年、1945年の4回焼失しており、今回が5回目の焼失です。焼失するたびに再建を果たしてきた歴史もあり、今回も必ずや再建を果たすものと期待されています。

琉球王国と沖縄の歴史を漫画で読む

著者
隆史, 上里
出版日

 

同じ日本でありながら、異国情緒が漂う沖縄。それもそのはず、沖縄はほんの150年ほど前まで、日本とは異なる独自の歴史や文化をもつひとつの国だったのです。

本書では、そんな沖縄と琉球王国の歴史を、子どもにもわかるように漫画で解説しています。

琉球王国がどのように建国されたのか、琉球の神様や宗教は何なのか、首里城はどんな意味を持っていたのか、日本との関係はどのようなものだったのかなど、きちんと知っておきたい事柄がたくさん載っている一冊。

歴史を勉強する際の副読本にしてもよし、沖縄旅行のガイドブックとして用いるもよし。ぜひ手に取ってみてください。

首里城再建に尽力した鎌倉芳太郎の功績

著者
与那原 恵
出版日

 

本書は、大正から昭和にかけて、琉球の文化財調査をおこなった鎌倉芳太郎を主人公に据えて、彼を取り巻く人々と沖縄文化復興の道のりを描いた作品です。

鎌倉芳太郎の調査は、芸術や文化、歴史、民俗、宗教、言語などさまざまな分野におよび、なんとノート81冊、写真資料2500点、そのほか古文書文献など膨大な資料を残しました。太平洋戦争後に首里城や沖縄文化を復興させるうえで、これらの資料が大いに貢献したことから、彼は「琉球文化全般の最高のフィールドワーカー」とも呼ばれています。

本書を読むと、沖縄の文化を次の世代に繋げようと魂を燃やしたその想いに、胸が熱くなるでしょう。火災に遭った首里城の再建に向かう人々の心にも通じる一冊です。