5分でわかる脱亜論!執筆された背景、内容、反応をわかりやすく解説

更新:2020.5.14 作成:2020.5.14

1万円札の肖像でおなじみの福沢諭吉が書いたとされる『脱亜論』。一体どんなことが書いてあったのでしょうか。この記事では、執筆された背景と内容、中国と韓国の反応などをわかりやすく解説していきます。

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『脱亜論』とは。いつ誰が書いたのか概要を簡単に解説

 

『脱亜論』が初めて世に出たのは、1885年3月16日のこと。福沢諭吉が創刊した新聞「時事新報」に掲載された無署名の社説という形でした。

この社説が福沢諭吉が書いたものだといわれるようになったのは、「時事新報」の主筆だった石河幹明が1933年に編集した『続福澤全集』に収録されたから。

福沢諭吉ではなく石河幹明が書いたものではないか、という説もありますが、石河が「時事新報」に入社したのは1885年4月で、さらに社説に関わるようになったのは1887年以降なので時期があいません。また仮に福沢諭吉が書いたものではなかったとしても、掲載にあたっては何かしらのかたちで関わっていたことは間違いないと考えられています。

「時事新報」は、日本で初めて漫画を掲載したり、料理のレシピを載せたりと画期的な紙面作りが人気で、戦前の「五大新聞」の一角を占めていました。そのため『脱亜論』を目にした読書も多かったと推測されますが、世に出た当初は無署名の社説にすぎず、長さも原稿用紙6枚分ほどしかなかったことから、まったくといっていいほど注目されなかったそうです。

『脱亜論』の内容を簡単に解説!差別を書いているわけではなかった

 

約2000文字の『脱亜論』。その内容は、2つの段落で構成されています。

第1段落で作者は、東洋に押し寄せてくる西洋文明を「麻疹のようなもの」と述べます。さらにこれを防ぐのではなく取り入れ、国民が適応するよう促すべきだとしました。その点で、明治維新を成し遂げた日本だけが、アジア的な古い価値観を抜け出し新たな一機軸を見出すことに成功したと評価しています。

第2段落では、そんな日本に比べて、西洋文明を拒絶し近代化に抵抗を続け、古い体制の維持に努める清や朝鮮を「不幸」だとし、明治維新のような改革がなされるならばまだしも、今のような状況が続けば数年で西洋列強諸国に国土を分割され、滅亡すると断言。そのような清や朝鮮と日本が、「アジア」という枠組みで一括りにされてしまうことは「一大不幸」であると危惧しています。

このように論じたうえで、隣国だからという理由で特別な関係を結ぶのではなく、欧米諸国と同様の付きあい方をし、日本は独自に近代化を進めることが望ましいと結論。「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」と結びました。

この『脱亜論』の内容は、その後の歴史や現在の情勢を鑑みて、実に先見の明があると評価されています。

ただ、現在も日中・日韓関係が悪化するたびに『脱亜論』が持ち出され、「福沢諭吉が主張しているとおり、中国・韓国と断交すべし」という論説が散見されますが、『脱亜論』の主張は隣国だからという理由で特別扱いするべきではないという主旨であり、必ずしも国交を断絶せよというものではないので注意が必要です。

『脱亜論』が執筆された背景は?

 

『脱亜論』が執筆された背景には、1884年12月4日に朝鮮で起こった「甲申政変」が関係しているといわれています。

福沢諭吉は、朝鮮からの留学生第1号である兪吉濬(ゆぎるちゅん)や金玉均(きむおっきゅん)、朴泳孝(ぼくえいこう)らと交流がありました。彼らは「開化派」と呼ばれていて、明治維新後の日本に学び、日本の協力を得ながら自主独立の国家を樹立することを目指す立場をとっていた、守旧派の事大党と対立関係にあった者たちです。

「甲申政変」は、そんな彼らが事大党を一掃し、政権を掌握しようとするクーデターでした。しかし、このクーデターは清の介入によりわずか3日で鎮圧。失敗に終わります。開化派の人々は、三親等までの親族すべてが残酷な方法で処刑される事態になりました。

この出来事が、福沢諭吉に大きな衝撃を与えたのです。「時事新報」の1885年2月26日の社説には、「人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。我輩は此國を目して野蛮と評せんよりも、むしろ妖魔悪鬼の地獄國と云わんと欲する者なり」と記されています。

また、『脱亜論』から約5ヶ月後の1885年8月13日には、政府による「一国民としての栄誉、生命と私有財産の保護」がなされないのであれば、イギリスやロシアの支配下に置かれる方がまだよいとして、「我輩は朝鮮の滅亡、其期遠からざるを察して、一応は政府のために之を弔し、顧みて其國民の為には之を賀せんと欲する者なり」という論説を掲載しました。

当時の一般的な感覚は、清は紛れもなく「アジアの盟主」だというもの。本来であれば、アジアの国々が次々と西洋列強の植民地となる危機的状況において、近代化を果たし、アジアの先頭に立たなければならない立場です。しかし清は、残酷な方法で開化派を排除することを選択しました。

このような清と、それに追随する朝鮮の守旧派の姿に失望と怒りを感じたことが、『脱亜論』が執筆された最大の理由だと考えられています。

『脱亜論』に対する、日本・中国・韓国の反応

 

日本において『脱亜論』は、「日本がアジアの一国であることを脱し、欧米列強に接近する」ことを意味する「脱亜入欧」という概念の基礎となったと考えられがちです。しかし『脱亜論』をはじめとする「時事新報」の社説や、そのほかの福沢諭吉の論説においても、「脱亜入欧」という言葉が使われたことはありません。

「脱亜入欧」という言葉が生まれたのは、早くても1950年代のこと。一般に使われるようになったのは1960年代以降で、この言葉から想起される「アジア差別」や「侵略の正当化」などの考え方は実は『脱亜論』にはないのです。

そもそも『脱亜論』が注目されるようになったのは、1951年に歴史学者の遠山茂樹が「日本帝国主義のアジア侵略論」として紹介したことがきっかけでした。以降、『脱亜論』に触れる研究者が増え、「日本によるアジア侵略の礎」と位置付けられていったのです。

中国や韓国では、1960年代以降、日本人研究者の見解に便乗するかたちで『脱亜論』を「アジア差別、侵略の正当化の原典」とみなし、福沢諭吉を代表的な侵略主義者として批判するようになりました。日本が1万円冊の肖像に採用していることも、韓国は「歴史修正主義」だと批判しています。

今日では、日中・日韓関係が悪化するたびに、三国それぞれの一部の人から過激な言説が増加。これらの問題は、日中・日韓は「一衣帯水」の関係にあるという考えにもとづき日本が譲歩するかたちで収められることが多いですが、これはまさに『脱亜論』で批判されている、「隣国という理由にもとづく特別な関係」だといえるでしょう。

これからの日本の在り方を考える

著者
西村幸祐
出版日

 

『脱亜論』で唱えられていることは、簡単にいえば「日本・中国・韓国は手を携えるべき」という考えからの脱却。本書では、『脱亜論』から約130年後の現代を俯瞰で眺め、この警告に耳を傾けるべきだと主張しています。

『脱亜論』はアジアを蔑視しているのではなく、別の道を歩き、世界と繋がろうとするもの。これからの日本の行方と、中国や韓国との「付き合い方」には再考の余地があることを考えさせられる一冊です。

『脱亜論』の成り立ちを漫画で読む

著者
["福沢諭吉", "Teamバンミカス"]
出版日

 

本書は福沢諭吉の半生を漫画化し、『脱亜論』が生まれるまでの経緯を描いた作品です。

豊前国中津藩の下級藩士で、儒学者でもあった福澤百助の子として1835年に生まれた福沢諭吉。漢学や蘭学を学び、1860年には「日米修好通商条約」の批准書を交換するための使節団のメンバーとして、渡米しました。

その後は文久遣欧使節に通訳として随行し、渡欧します。その際に立ち寄った香港で、イギリス人が中国人をあたかも犬か猫のように扱うのを見て、大きな衝撃を受けたそうです。

明治維新が起きてからは、日本が清や朝鮮と手を結んで西洋文明と肩を並べることを夢見ていました。しかしそれが、「甲申政変」によって打ち砕かれるのです。

その時、福沢諭吉が感じたであろう怒りや失望が、漫画で鮮明に浮かびあがります。日本近代史に大きな足跡を残した福沢諭吉の人物像と思想形成をわかりやすく知れる一冊です。