5分でわかる帝国議会!衆議院と貴族院、選挙の仕組み、初期議会などを解説!

更新:2021.11.22

戦前の日本で大日本帝国憲法のもと開かれた「帝国議会」。衆議院と貴族院で構成されていました。この記事では、議会が作られたきっかけや、選挙の仕組み、初期議会の様子などをわかりやすく解説します。あわせておすすめの関連本も紹介するので、ぜひチェックしてみてください。

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帝国議会はいつ、どうして作られた?大日本帝国憲法との関係も解説

帝国議会は、1890年11月29日に第1回が開催され、1947年3月31日に閉会された第92回まで、およそ57年間存続した日本の議会です。1889年2月11日に公布された「大日本帝国憲法」と「衆議院議員選挙法」にともない設立されました。

帝国議会が創設されるきっかけとなったのは、1874年に土佐藩出身の板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、由利公正、岡本健三郎などが政府に対して「民撰議院設立建白書」を提出し、民選の議会開設を要望したこと。

政治権力が、天皇でも人民でもなく、大久保利通ら少数の政府中枢に独占される「有司専制」にあることが、「五箇条の御誓文」で掲げられた「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とする精神に反すると批判をしました。

建白書の内容は、スコットランド生まれのジャーナリストであるジョン・レディー・ブラックが発行する新聞「日新真事誌」に掲載されて国民に知られ、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論や集会の自由などを求める「自由民権運動」が勃興します。

自由民権運動の参加者は、不平士族など政府に不満をもつ人々が中心で、「佐賀の乱」や「西南戦争」など内戦にも発展しました。

この状況を憂慮したのが、参議を務めていた長州藩出身の山縣有朋です。1879年、山縣有朋は、民心安定のためには国会の開設が必要だという主旨の建白書を提出します。1881年には明治天皇が「国会開設の詔」を出し、1890年に憲法を定め、国会の開設が表明されました。

参議を務めていた伊藤博文らはヨーロッパに渡り、著名な法学者たちからドイツ帝国のビスマルク憲法を学びます。帰国後の1885年、伊藤博文が初代内閣総理大臣となり、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎とともに「大日本帝国憲法草案」を作成しました。

「大日本帝国憲法」は、1889年2月11日、明治天皇から第2代内閣総理大臣・黒田清隆に手渡される「欽定憲法」の形で発布され、日本は東アジアで初めて、近代憲法をもつ立憲君主国家となります。

同時に議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法なども定められ、1890年7月1日に第1回衆議院議員総選挙を実施。帝国議会が発足しました。

帝国議会とは。衆議院と貴族院など仕組み・構成を解説!

帝国議会は、「衆議院」と「貴族院」で構成されていました。「大日本帝国憲法」が失効し、1947年5月3日に「日本国憲法」が施行されると、貴族院が廃止に。代わりに参議院が設置され、現在に至ります。

衆議院は公選制で、議席数は300。一方の貴族院は非公選制で、皇族、華族議員、勅選議員で構成され、定められた議席数はなく、解散もありません。

衆議院と貴族院の権限は、衆議院が有する予算先議権を除いて、対等とされていました。

常会は年に1回、11月から12月に召集されます。会期は通常3ヶか月でしたが、勅命によって延長されることもあります。議会の召集、開会、閉会、停会、そして衆議院の解散は天皇大権に属し、帝国議会には自ら集会する権限や召集を請求する権限はありませんでした。

現在の国会が、「日本国憲法」で「国の唯一の立法機関」と位置付けられているのに対し、帝国議会は「天皇の立法権行使に対する協賛機関」という位置付けだったことが最大の特徴でしょう。

そのため、帝国議会が有する権能は国家の行為について事前に同意を与える「協賛権」と、事後に同意を与える「承諾権」が主で、政府に対する「建議権」、天皇に対する「上奏権」、議会に持ち込まれた請願に対する「審議権」、天皇による裁可を経る条件付きの「法律提案権」などに限られていました。

帝国議会の議員になるには。選挙制度を解説

帝国議会の議員になる方法は、衆議院と貴族院で異なります。公選制の衆議院では、選挙に出馬し、当選する必要がありました。

被選挙権は「直接国税15円以上納税の満30歳以上の日本国民男性」に限られ、「皇族・華族の当主」「軍人、裁判官、会計検査官、収税官、警察官、管轄内の府県郡役人、担当選挙区の選挙管理担当市町村役人、神官、僧侶、教師」「瘋癩白痴、破産者、犯罪者」などは適用除外でした。第1回衆議院議員総選挙では1243人が立候補しています。

選挙に投票できたのは「直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性日本国民」という条件を満たした約45万人に限られました。これは当時の全人口の1.13%に過ぎませんでしたが、投票率は93.7%に達しています。

当選した300人のうち、半数を超える191人が平民出身で、もっとも多い職業は農家。これは当時、15円以上納税できるような富裕層が都市部に少なく、地主や製糸業者が多くいる農村部に多かったことを表しています。納税額による制限は、1925年に「普通選挙法」が成立するまで続きました。ちなみに女性の参政権が認められたのは、戦後のことです。

一方で非公選制の貴族院では、身分によって選任方法や定数、任期に違いがありました。

皇族議員の場合、「満18歳に達した皇太子または皇太孫」「満20歳に達したその他の皇族男子」は自動的に議員となり、定数や任期はありません。しかし「皇族が政争に巻き込まれるべきではない」という考えや、男性皇族の多くが陸海軍人となっていたため、「軍人の政治不関与」にもとづき実際に皇族議員が議会に出席することはありませんでした。

華族議員の場合、爵位によって選任方法や任期などが異なります。公爵、侯爵は満25歳になった時点で自動的に議員となり、定数や任期はありません。伯爵、子爵、男爵は、同じ爵位の華族による互選で選ばれる必要があり、任期は7年とされていました。また定数に関しても、伯爵は20人以内、子爵および男爵はそれぞれ73人以内。さらに各爵とも、爵位を有する者の総数の5分の1を超えないという取り決めがありました。第1回帝国議会では、伯爵14人、子爵70人、男爵56人が貴族院議員に選出されています。

勅撰議員の場合、国家に勲労もしくは学識を有するとみなされた満30歳以上の男子のなかから内閣が選任し、天皇が任じるもので、任期は終身でした。第1回帝国議会では、元老院議官27人、各省官吏10人、民間人9人、帝国大学代表6人、宮中顧問官6人、内閣法制局3人が選出されています。

貴族院議員の有資格者は、後に帝国学士院会員、多額納税者、朝鮮および台湾居住者にも拡充されました。

帝国議会の初期議会はどんな様子だった?第1回の結果を受けて山縣有朋は首相を辞任

帝国議会が開設されてから、大正時代初期頃までの期間を「初期議会」と呼びます。

初期議会において、薩長出身者を中心とする内閣が採用したのが「超然主義」でした。その始まりは、「大日本帝国憲法」が発布された翌日の1889年2月12日、鹿鳴館で開催された昼食会の席上でおこなわれた、黒田清隆内閣総理大臣の演説です。

この演説で黒田清隆は「超然として政党の外に立ち」「不偏不党の心をもって人民に臨む」と述べ、内閣は議会や政党の意思による制約を受けずに行動するべきだと主張しました。

黒田の考えに伊藤博文は同意したものの、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎らは「専制政治をもたらす」として批判しています。

実際に帝国議会が開会すると、政府は、自由民権運動の流れをくんだ「民党」と称される民権派諸政党の激しい抵抗に直面することになりました。

黒田清隆に代わって第3代内閣総理大臣に就任した山縣有朋は、ヨーロッパ視察旅行中に見学した各国の議会において、空論を主張する者が声望を獲得し、民衆運動が政治を混乱させているさまを目の当たりにしていたこともあり、第1回帝国議会にて超然主義を採り、持論の「主権線(国境)の守護と利益線(朝鮮半島)の防護」を掲げて軍備の増強を図ります。

これに対し民党は、「民力休養・政費節減」を主張して激しく抵抗。山縣有朋は民党を買収して予算案を通過させるものの、政費節減政策の実施を受け入れざるを得ず、結果として「議会運営に自信がない」として内閣総理大臣を辞任するのです。

初期議会ではその後も、超然主義を掲げる内閣と民党との対立が続き、審議の停滞を招く事態がたびたび引き起こされました。最終的には大正デモクラシーのなかで第二次護憲運動が勃興し、「普通選挙法」が制定されたため、超然主義は崩壊。政党政治へと進んでいくのです。

議会が生まれるまでを描いた一冊

著者
久保田 哲
出版日

本書は「大日本帝国憲法」の制定と、帝国議会の開設という一大事業に関わった人々の構想と試行錯誤の軌跡を、さまざまな史料を駆使して丹念に追った作品。西洋で200年かかった議会が、どのようにして明治維新から約20年で作られたのかを解き明かそうと試みています。

かつて薩長藩閥を中心とする明治新政府と、自由民権運動家や不平士族たちとの対立は内戦に発展し、多くの血が流れました。そんななか政府は、1881年に9年後の議会開設を約束。政治の世界において、9年後の約束が守られることなどほぼあり得ません。しかし、伊藤博文らはこの約束の実現にこだわり、実際に成し遂げるのです。

欧米列強に追いつきたいとまい進した日本。古来の伝統を切り捨てる姿は世界から醜いと蔑まれ、揶揄の対象にもなりました。

憲法の制定に際しては、教えを請おうと渡欧した伊藤博文らが、ドイツ人法学者たちから「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないのだから、憲法を制定するにはまず、その国の歴史を勉強せよ」と叱責まで受けています。

志士たちの議会開設に込めた情熱を感じられる一冊です。

帝国議会の歴史を解説した一冊

著者
村瀬 信一
出版日

帝国議会は、さまざまな面で不完全さこそ拭えないものの、戦前のアジアでほぼ唯一の定着した議会制度となりました。

その背景には、古代より綿々と受け継がれてきた「法は感情に優越する」という遵法意識を培ってきた日本人の特殊性があるといわれています。

本書では、膨大な数の政治家の伝記や回顧録、当時の新聞、雑誌、または風聞をもとに、選挙の制度や実態、政党の果たした役割、議員たちの生活、発言などを紹介。帝国議会の内実を明らかにしようと試みています。演説の名手とされた政治家たちの弁論術も見応えがあるでしょう。

「乱闘の衆議院」「秩序の貴族院」といわれた帝国議会の姿は、現代の国会にも通じるものがあり、さまざまな示唆に富んでいます。

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