5分でわかる紅巾の乱!背景と経緯、白蓮教徒、朱元璋などをわかりやすく解説

更新:2020.6.11

元朝末期に起こり、後に明を建国する朱元璋が台頭するきっかけとなった「紅巾の乱」。一体どのようなものだったのでしょうか。この記事では、反乱が起こった背景や経緯、反乱の中心となった白蓮教徒や朱元璋などをわかりやすく解説していきます。おすすめの関連本も紹介するので、チェックしてみてください。

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紅巾の乱の背景は?

 

1351年から1366年にかけて、中国で白蓮教徒を中心とした農民反乱が起こりました。反乱軍が目印として紅い布を付けていたことから、「紅巾の乱」と呼ばれています。

「パクス・モンゴリカ」と呼ばれるほど繁栄していた元朝ですが、1307年に皇帝テムルが皇子を残さずに亡くなってからは、重臣たちによる権力争いが発生。政治は混乱を極め、統治能力を失っていました。汚職や重税、横領、収賄、飢饉、さらにはペストの流行も重なり、農民の反発が高まっていったのです。

「紅巾の乱」に先行し、1348年には浙江省の福建で塩の密売をしていた方国珍が反乱を起こし、元の討伐軍に勝利しています。当時の朝廷軍は、反乱を鎮圧できないほど弱体化していました。

「紅巾の乱」の直接の要因となったのは、元朝に仕える漢人官僚の賈魯(かろ)が実施した黄河の改修工事です。洪水の被害を防ぐため、17万人を動員する大工事でした。しかし多くの人夫を動員させられた江南地域に直接の恩恵はなく、不満を抱いた人々が結集したのです。

紅巾の乱の経緯を簡単に解説

 

白蓮教の教祖である韓山童(かんさんどう)は、北宋の第8代皇帝で、「北宋最高の芸術家」といわれる徽宗の末裔を自称し、黄河の改修工事に駆り出された人夫を扇動して蜂起を企てます。「紅巾の乱」の始まりです。しかし計画は事前に露見し、韓山童は処刑されてしまいました。

その後、韓山童の同志である劉福通(りゅうふくつう)が挙兵。韓山童の遺児である韓林児を擁立し、1355年には明の皇帝に即位させます。自らは小明王を称し、国号を宋、年号を龍鳳としました。

蜂起の呼びかけには、濠州が本拠地の郭子興、湖北が本拠地の徐寿輝などが応え、勢力を拡大していきます。しかし彼らは必ずしも一枚岩だったわけではなく、首領たちは自らの勢力拡大を狙っていたそう。特に徐寿輝は、自らも皇帝を名乗り、国号を天完、年号を治平とするなど宋とは別個の勢力を築いていきました。韓山童や郭子興を中心とする宗の勢力を「東系紅巾」、徐寿輝を中心とする天完の勢力を「西系紅巾」と区別します。

1357年、宗の東系紅巾は、全軍を3つに分けて、北伐を開始します。大都に迫り、一時は高麗の首都である開城を占領するなど成功したかに見えましたが、やがて体勢を立て直した元軍のチャガン・テムルやボロト・テムルなどから反撃を受け、大敗しました。宗の首都である開封も陥落し、弱体化していきます。

一方で西系紅巾は、重慶の明玉珍を勢力に加え、一時は東系紅巾をしのぐ力をもっていました。しかし内部抗争が激しくなり、1360年に徐寿輝が部下に殺害される事態に。その後明玉珍も独立し、解体することになります。

この間に台頭してきたのが、東系紅巾の重鎮で、郭子興の娘婿だった朱元璋(しゅげんしょう)です。郭子興が亡くなった後、地盤を受け継いで西系紅巾出身の陳友諒や江南をめぐって戦います。

1363年には陳友諒が戦死、1366年には明の皇帝だった韓林児も死亡。これをきっかけに朱元璋は白蓮教と手を切り、反対に邪教として弾圧を加えて、「紅巾の乱」は収束していきました。

もとも白蓮教徒だったのに後に弾圧を加えるようになった朱元璋ですが、敬虔な信徒だったのに権力を握るにつれて変わっていったのか、最初から白蓮教を利用していただけなのかは明らかになっていません。

紅巾の乱を起こした白蓮教はどんな宗教?

 

「紅巾の乱」を引き起こした白蓮教は、東晋時代の402年、慧遠(えおん)という高僧が123人の同志とともに結成した「白蓮社」が起源だといわれています。12世紀の後半になると、天台宗系の慈昭子元が反体制集団として組織化しました。

その教義は、キリスト教ネストリウス派(景教)やゾロアスター教(祆教)と並んで「唐代三夷教」と呼ばれるマニ教(明教)と、弥勒信仰が習合したもの。半僧半俗で妻帯を認め、男女を分けずに集会を開くことから、他の教団から異端視されていました。

元の時代になると呪術的な信仰も加わり、革命思想が強まったことから危険視され、たびたび禁教令も出されています。

明を倒して清が建国される頃には、「白蓮教」という言葉に邪教のイメージが不随するようになり、白蓮教以外も含め取り締まりの対象となった民間宗教結社の総称となります。

弾圧を受けるなか、秘密結社として地下に潜るようになり、1796年には「白蓮教徒の乱」を起こしています。

紅巾の乱のその後。指導者・朱元璋が明を建国

 

1364年に呉の王を名乗った朱元璋。1366年に「紅巾の乱」を収束させ、翌1367年には同じく呉の王を名乗っていた張士誠を討ち、江南を統一しました。1368年には皇帝に即位し、国号を大明、元号を洪武とします。

皇帝になった朱元璋は北伐を開始し、元の首都である大都を陥落。さらに1381年には中国を統一し、1387年には元の残党が撤退していた北元も壊滅に追い込みました。

国政としては、重農政策を実施して大商人を弾圧。一方で零細な商人たちは保護し、貧しい暮らしをする農民たちのために4万9000ヶ所の堤防の修繕を実施したそうです。

また朱元璋は、自身が元白蓮教徒であることを連想させる「光」「禿」「僧」などの文字を使うことを禁止します。

さらに老いていくにつれて、後継者である孫の朱允炆(しゅいんぶん)が他の人物に権力を奪われることを危惧するようになり、自らが死ぬ間際まで功臣や有能な官吏を殺し続けました。

それにも関わらず、朱元璋の死後、内乱が起こります。建文帝として即位した允炆に背いたのは、朱元璋の四男である朱棣(しゅてい)でした。粛清によって有能な将軍の多くが亡くなっていたため、弱体化していた明軍は敗北。朱棣が永楽帝として即位することになりました。

盗賊の視点から中国史を見る

著者
高島 俊男
出版日

 

中国の歴史を彩る盗賊たちを取り上げた作品。描かれているのは、侠客から成り上がり前漢を建国した劉邦や、「紅巾の乱」に参加して賊徒から皇帝になった朱元璋、「太平天国の乱」を引き起こした洪秀全などです。

中国の歴史を見てみると、盗賊はどこにでもいる存在。飢饉などで生活に困った農民や宗教と結びつくことで、時には国家を脅かしていきます。

特に興味深いのは、「日本もスターリンもアメリカも蒋介石も中国の掌握に失敗したのに、なぜ毛沢東だけが成功したのか」という問いに対する作者の見解。これまでなかった視点の考察に、目からウロコが落ちる一冊です。

紅巾の乱で活躍した朱元璋の生涯

著者
小前 亮
出版日

 

貧農から身を起こし、皇帝になった朱元璋。武勇に優れた者や智謀に優れた者を従えて、「紅巾の乱」で頭角を現し、明を建国しました。

本書は、「史上最大の成り上がり」ともいわれる朱元璋の大出世劇を描いた壮大な歴史絵巻です。彼が多くの有能な家臣に慕われた姿を見ていくと、小説としてだけでなくビジネス書としても読むことができるでしょう。

文庫本で500ページ近いボリュームながら、手に汗握る展開に、飽きることなく読み進められる一冊です。

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