そもそも「愛」って何なのか。
『ゆっくり、いそげ』(影山知明、大和書房)は西国分寺にあるカフェ、クルミドコーヒー店主の影山知明さんが書いた、エッセイ、ビジネス書…あるいは生き方の本だ。いろんなエッセンスがあるのだけれど一つだけ紹介すると、クルミドコーヒーでは、基本的にポイントカードや値引きをしない。それは「自己利益を最大化させる人格」をお互いに刺激しないためだという。
もっと安く、もっと利益を。そういう経済の形を認めながらも、逆に「贈る」ものを増やす。「give」の姿勢で取り組む。例えばそれは長野までくるみを摘みにいったり、そのくるみの皮を一つ一つ剥きながら手作りの商品を提供したりすることに繋がる。それを感じてお客さんも駅前の安いチェーン店ではなく、少し高いコーヒーをクルミドコーヒーに飲みにきてくれる。これはお客さんへの信頼と愛であるなぁと思う。
そう。 愛は「与えること」なのだ。
与えるといっても様々な形があるが、やはり最たるものは食事だろう。暖かみのある食事は、みんなに安らぎを与える。たとえ、その相手がバッタでも。
『孤独なバッタが群れるとき』(前野ウルド浩太郎、東海大学出版会)は由緒正しきバッタの研究書である。小さなころ「自分もバッタに食べられたい」と思った著者が、バッタとともに成長していく青春物語だ(だが、研究書だ)。その中でバッタの飼育エピソードが出てくる。学生であった著者は研究用のバッタの世話のため、えさ用の畑(!)に行き、50グラム以上の草を刈る。このとき、えさ用の瓶に差し込みやすいように、切った草の方向を揃えておくのが出来る男の心遣いなのだそうだ(やはり出来る男は違う)。
これを愛と呼ばすして、なんと呼ぼうか。なお、この本の末尾はバッタへの感謝の言葉で締めくくられている。完全に純愛である。
そう。愛とは「飼育」である。
『競馬漂流記』(高橋源一郎、集英社)は、作家、高橋源一郎が書いた競馬エッセイだ。90年代初頭、競馬誌に連載されていた。著者は世界の競馬場を旅し、そこで歩き、人と話し、馬を見る。その一つ一つに物語がある。騎手でも、関係者でもない。コースの外から、「観戦者」としてしか見られない光景。それが極上ともいえる文章で記されている。本文の中で著者が、ある調教師が書いた競馬とは無関係の話が多い、一見すると冗長な新聞エッセイを読んで語る場面がある。
「彼が書こうとしたのは、この国の競馬の底に流れているものだ。それは「金」や「経済」ではなく、「勝敗」や「名誉」でもない。 (中略) この国の競馬の「底」にあるもの。それは競馬という、その半身が自然によって、別の半身が文化によって作られた不思議な「営み」そのものである。」
この本自身も、まさに“そういうもの”だと思う。それは僕なりに理解すると、馬、競馬場、そしてそれに関わるすべての人への愛なのだ。
そう。愛とは「観戦」である。